短編

呼吸する速度で愛して


誰かが何かに夢中になる姿は美しい。
なまえを見ていて常々思う。
恋仲にある少女の輝かしい横顔を見守ることが司は好きだった。笑顔の向く先が自分ではないことが少しだけ不満ではあるけれど。
誰かに恋い焦がれる人物を可愛らしいと感じ、目を奪われてしまうのは、自ら不治の病を移されに流行地帯へ向かうのと同じくらいに愚かなことだ。なまえが熱意を持つ先が偶然にも人外であったというだけで、煌々と人を魅せ惹き寄せる表情が自分に向けられるものではないことだけは確かで同じ。
悠々自適に舞う鳥の翼をもぎ取る勇気はない。彼女を自分だけのものにしたくてしたくてたまらない癖に、心を揺さぶってくる彼女は自分以外の何かに走っている姿。自由の象徴のような飛び姿に恋してしまった司が抱える矛盾だ。
己とは違う世界を生きるプロデューサーの唯一無二になることは出来ないと、今日もまたユニットの衣装相談を持ちかけられる中、心臓の上に諦めの呪文を口にして司は不慣れながらもどうにか熱を逃がそうとする。
ざっくりとしたデザイン画を片手にどれも迷ってしまうと口にして司に肯定を求めていたかと思えば、こちらの思いを敏感に察知したように不意打ちで自分だけに向けてくれることもままあるものだから、弄ばれていると思ってしまって。貴女はずるい。姉か母を仕事に取られた男児が抱く、甘えたい衝動にもよく似たそれは似て非なる色めいた独占欲だ。
世間事には疎くとも、本能だけは生きている。当人が気づいているか否かは別として。

なまえによって打たれた話の終止符が、ふっ、と固くきつい紐の結び目を緩ませた。
恋人にキスをせがむような動作で距離を詰め。こつん、と互いの額を触れさせた。
瞳を閉ざせば贅沢な睫毛がなまえの肌に影を落とす。なまえの右頬を包むように添えた手の親指でつぅ、と唇を撫ぜながら「なまえさん」ゆうるりと司は瞼を持ち上げた。目の前で行ったそれが彼女を魅惑するとも知らないで。

「いま口付けたいと言ったら怒りますか」

返答の代わりになまえから与えられたものは驚愕、その一言に尽きる。
なまえの片手が司の首から回されて何のためにか退路を断つと、男勝りな力加減でぐっと引き寄せ唇を寄せられた。
触れた一瞬を司は随分と長い時間のように錯覚してしまった。離れても記憶の残滓が感覚を唇に残し続けて誘惑することをやめてくれない。
後頭部を抑え込んでいた力が緩むと双方の間に距離が開けた。だがあくまで緩まれただけ、開いただけ、彼女の掌は未だに司に触っている。
朱桜の苗字を連想させる赤い短髪に指先を絡ませ、さらりとこぼれ落ちて行く滑らかさになまえは笑む。差す茜色に妖艶さを彩られた微笑に司は一瞬の戸惑いを覚えた。

「……なまえ、さ…………」
「ごめんね。びっくりした?」
「いえ、……はい、少しですが」

なまえの口元にあるのはいつも通りの穏やかな笑み。

「じゃあもうちょっとびっくりしてもらっていい?」

曲げられる口元に、どういうことでしょう。紡いだ疑問を解いてくれるものだとばかり思っていたのだが、何を思ってかなまえの手が伸ばされたのは司の制服の襟元だ。ボタンが1個、2個と外されたところまでは何をしているのかという疑問止まりであったが、滑り込んだ指がはだけさせようと動けばさすがの司もぎょっとする。

「え……なまえさん? な、何をされているのです?」

司の制止に聞く耳を持たず、なまえが爪先立ちで身長差を埋めると共に配役は逆転。露わされた司の白肌になまえの唇が落とされる。当てられた手入れの行き届いた唇は潤いと柔らかさを持ってくすぐる、まさしく“女の子”のもの。ちう、とそのまま首筋を軽く吸われれば「なまえさん……っ!」女の断末魔にも似た上擦り声。
距離を離され、傷口を確かめるように口付けられた箇所に瞳を伏せれば予告通りのびっくりが司の脳を直撃した。

「なまえさん、これは何ですか!? 赤くなってしまっていますが。内出血では、」
「キスマークだよ。知らない?」

この人は自分のものだから手出ししないで、って言外に言いふらすための痕。だから隠しちゃだめね――と。乱れたワイシャツから覗く、真白い素肌に一点だけの目立つ赤色をそっとなぞって上へ向かう指先が、整った輪郭を触れる。ぽふ、と司の両頬を包み込む手は至って自然にたおやかに。柔らかな衝撃に思考が正常な働きを取り戻すべく動き出した。
なまえの言葉が真実ならば、つまり、それは。

「私はなまえさんのもの、ということですか?」

なまえは答えずただただ笑うだけ。1つ歳上の先輩は大人のずるさを隠し通すずるさを秘めている。
自分の知らない世に人の愛し方、全部を与えて教えてくれるこの人に限ってはそれも悪くはない気さえしてくるから、恐ろしや。


2017/01/05

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