短編

04.鳥は空の青さを知る


『ライブ、観に来ないか?』問われたのは受話器を介しての会話の中で。私が夢ノ咲まで足を運ぶきっかけを作ったのは他でもない真緒だった。
見に来ないか、と彼は言った。そんな尋ね方をするということは。

「それって真緒の?」
『俺のっていうか、俺のユニットの、な。来週あるんだよ』

アイドルに興味があるかと聞かれれば実際のところはそれ程でもない。恋人が、自分を求めてくれた人がその職業を目指しているから馬鹿正直に興味が無いと口にした事こそなかったが。
夢を追う姿をひっそりと応援するのなら、せっかくなら興味や関心を持てた方がいい。それ以前に真緒が歌って踊って魅せると聞けば、興味も知識も二の次に行きたさがむくむくと胸中で頭を擡げ出す。
行きたい、観たいと気持ちを素直に伝えると、ふっ、と向こう側で息吹く真緒から仄かに笑みが零されたのがわかった。

***

S1は夢ノ咲の中で上から2番目に位置する大きなライブ、なのだとか。私に対しても殆ど無意識に世話焼き性が出てしまうようでサイリウムで点数がつけられるだとか、どうだとか、真緒が属するのはTricksterというユニットだとか。心配性な彼から諸々の情報と予備知識を叩き込まれて会場入りを果たしたおかげで特に困ったり迷ったりすることはなかった。
黄色い声援の飛び交う中、ファンでも何でもない私は場に酷く不釣り合いに思えて肩身狭く着席する。知らない場所で一人きり、おまけにこれから出演するアイドルの一人と恋愛関係。駆け巡るスポットライトから逃げ隠れるように視線を伏せて、幸せ色に包まれていく空間の中、私だけは到底似合わない空気を背負っていた。
“トリックスター”。
意味は確か、と頭の中の辞書を捲る。
神話の秩序や平静を乱して喜び、物語を引っ掻き乱して事態を好転させる、悪戯好きなキャラクター。笑顔がデフォルトの滑稽な道化師と同一視されることもあったはずで、それがどこか、どんな時でも笑みを忘れることが許されないアイドルと似ているように思え、切なくなった。

目まぐるしく、ステージは色を、その有り様を変えていく。
巡って来た彼らの出番に慌てて顔を上げた。誰もが視線を集める先、まだ10代も半ばかようやっと後半に差し掛かったような少年4人の中に見慣れたはずの姿も混ざっていて。見たことの無い、知らない笑顔を満面に浮かべた真緒を見つけると瞠目をする。目を擦ってあれが本当に本人なのかと確かめたい衝動が血流に乗って全身を流れた。
耳が避けそうな歓喜の叫びの中、マイクを通して自分の元まで届けられる声はやはり知らないものだった。
熱気に圧倒される。そこにあるのは自分では到底耐えられないであろう重圧だ。失敗は許されない、きらきらと煌びやかな舞台とは裏腹に渦巻いている何かを捻くれ者は肌から鋭敏に感じ取り、観客の一人でしかないはずなのに時々息の仕方をも忘れてしまいそうになる。
歪みを知らない程に背筋をしゃんと正して、全て跳ね除け、笑えるって、それすらも楽しんでしまえるって本当にすごいことだ。
目の前にいるのはやはり私の知る真緒ではないのだ、と確信を帯びた思考を廻した時。ばち、とステージの彼と視線がぶつかった。ように思えた。ただの錯覚に喉が詰まる。
どこかに興奮を孕み、余裕無く息を切らした歌声が鼓膜を震わせ浸透して、馴染む頃には止まった時間が動き出す。
はっ、と開いた、それまで呼吸を忘れていた口から勢いよく酸素が流れ込み、余りの息苦しさにむせ返りそうになった。大ボリュームの演出の中、自分の心拍数の昂ぶりがそれ以上の音量をもって肋骨に叩きつけられる。息は荒く、しかし浅い。何だ……これ。強く拳を押し当てた心臓はばくばくと興奮を納めきれないままの心音を奏で、熱を孕んだ血液を絶えず全身に送り出している。
身体の働きは正常、だけどおかしい、異常だ。不可思議だ。どうしよう、どうなって、しまうんだ。
ぎゅう、と強く、痛みが走るくらいに強く掴まれた心臓が握り潰されてしまいそうで。

わくわくから、楽しさへ。次いで緊張へと変わり、戸惑いに染まった心は、最期にはひっくり返した玩具箱のような混ぜこぜのぐちゃぐちゃになっていた。
ただ最後まで何の変化も起こさず在り続けたのは、笑う真緒を真緒として認めたくはなかったということ。

***

夕景をすぐそこまで迫る夜が食らいつくそうと覆い被さる夜の始まり。二人分の足音を響かせる帰路は夜の7時を回った頃で、夕陽の残滓が散る空を行き場ない視線で仰いだ。
違う歩幅は速度に差を作るはずなのに並んで歩いていられるのは隣の彼のさりげない気遣いだということを私は知っている。理由、それは真緒のことだから。違う人間だから全てをわかってあげることはまず不可能だが、友達や仲間が、ともすれば家族が彼を理解する以上に私は彼を知っているのかもしれない。
大抵のことならわかるなかで、どうして彼の欲しがるものばかりわかるのだろう。不満を装いながらも察した真緒の心情に言葉を選び取ろうとするのだから私も私だ。

「かっこよかったよ。ライブ」
「そ、そうか?」

きっとこういう私ではないと、彼が隣にいてくれないように思えてしまうから、だ。

「ちょっとお客さんのテンションについて行けなかったけど。すごいよね。アイドルが近くに来たら私でもきゃーってなるんだもん。ライブの魔力だよ。氷鷹北斗君、すごくかっこいい」
「…………」
「あ、真緒もよかったよ? かわいかった」

ぽろりと零れてしまった本音の誤魔化しも、不満なのか子供染みた拗ねの表情を見せる真緒のどうどうという宥めもこの身に染み付いたように慣れたものだ。ただ、今は少しぐんと近づいた距離感が苦しい。
誰かのために動き続けることでしか存在できような歪みを拗らせ、欲しがりやな一面を断固として見せない真緒の真意を汲み取って。隙間を埋めて上げるだけの方がきっと、ずっと私にとっては楽な作業だった。対等な関係で家庭を築いていく未来が考えられない。それは長らく安心毛布でいることに喜びを見出し続けた代償だろう。

私は――真緒と付き合わない方がよかったのだろうか。

ぴたりと真緒が歩みを止めた事に気付かずに数歩先に進んでから追い越してしまったことに、言葉を口の端から滑らせ落としてしまっていたことにようやく気がついた。

「どういう意味だ、それ」

背中に鋭く降り注ぐ冷え切った声音は、実体のない空気の振動でしかない癖に強く痛覚を刺激した。足が、地面に落とす己の影に縛り付けられ、振り向けない。地を這うように低く名前を呼ばれれば、もう逃れられない。

「どういう、意味だろうね」
「誤魔化すなよ。嫌いになったのか? なまえは。俺の事」
「違うよ。そんなんじゃない」
「なら、」

なら、何で。
覇気が失われて行く語尾はいっそ笑えるくらいにか細くなって。何でって、どうしてわかってくれないのかな。理不尽にもそう思ってしまった。

「私はね、真緒がかっこよくいるためのライナスの毛布なんだよ。なのに付き合ってから頼ってくれなくなったよね。無理してる、私の前でも。それって一緒にいる意味あるのかなって。彼女じゃない方が良かったよね」
「それは……」

約束の糸がぶつんと途切れる音を聞いた。
それは過去の自分が未来に対して永久に誓った約束。真緒を困らせない、追い詰めない、と。彼は自分で自分を十二分なくらいに勝手に追い込んでしまうから、私まで壁やハードルを用意することはないのだ、と。安心毛布の都合のいい女でいればいい、否定しない、拒まない。そんな風に。
努力と努力と努力と努力で積み上げてきたものが崩れ出す。
辛いんだよ、と霞み出す視界に目元を掌で覆い隠して見えないようにしてしまいながら、真緒から伸ばされた手を振り払った。

「……辛いの。今まで何ともなかったのに。今だって隣にいるだけなのに。ちょっとしたことも気にしちゃう。おかしいの。おかしいんだよ、私。こんなんじゃ真緒と一緒にいれない」
「……なまえ」
「なんかすっごい彼氏ヅラしてくるしあり得ないくらい紳士的だし今日なんて本当かっこよくて見てるの辛かった。無理肩とか組んで笑ってて……可愛かった」
「……なまえ?」

指で遮った視界の向こう、隙間から伺う真緒は何を思ったのか場違いなくらいに間の抜けた表情へと顔つきを変えていた。

「……あんな真緒の側にいるの辛い。付き合ってから私が癒されちゃってる。私なんてへなちょこな真緒で十分なのに」
「俺に失礼だぞ」

大雑把に肩を竦める彼を伺う。

「自分で言うのもあれなんだけどさ、そんなによかったのか? 今日の俺」

きゅう、と絞まる喉からは吐息を吐き出すことですら一杯一杯でイエスノーすら絞り出せない。
そう。見せつけられた知らない真緒はきらきらしていて、眩しくて、目が眩んでしまいそうなくらいに格好良くて瞼の裏に焼き付いて離れない。だから、困る。笑みを咲かせ続ける真緒に魅せられながら、一度意識に止めてしまった境界線は消えてはくれない。あの一瞬だけでもう私と真緒では生きる世界も見る景色も違っていると嫌になるぐらい強く現実を叩きつけられた。
困るのだ。真緒が離れてしまったら。
困るのはどうしてだ。恋人扱いを受けるようになってから頼られなくなって、アイドルの真緒の魅了に憑かれた私は一観客でしかない。それでよかった、今までは。だけどもう見てしまった。知ってしまった。このまま真緒が離れて行けば私に引き留める理由も権限もない。それがたまらなく嫌だった。
どうして嫌なのか。わからない。ただ毛布にくるまれているだけの男の子を手放すだけ、なのに何故。過去、それはそれは慈しんでいた今はいない下兄弟に真緒を重ねているだけなら、妥協の後の喪失感で終わるはずなのに。この感情の名前を私は知らない。

「真緒の逃げる場所になるつもりだった。でも真緒はもう私じゃ駄目なんだってわかっちゃったんだよ。一緒にいる意味ないんだよ」

意味がない、と無意義を伝える言葉を再び放つ。
元の他人に、多少強引にでも進み過ぎた駒を押し戻してしまうこと。それが唯一、私が持ち得る彼を繋ぎ止めて置ける術な気がした。

「何だよ……意味ないって。そんな事言うなよ。付き合うって、違うだろ。そんなどっちかがどっちかに一方的に頼ることじゃないだろ。利益が出るかで一緒にいるか決めることじゃないだろ……っ」

私達は歪んでいる。でもそれを正してしまったら、後には何も残らない。
真実を突き付けることがその人間にとって必ずしも正しいことだとは限らない。だがもうそこは袋故事。認めてしまわなければいけない、いい加減にこの果てしなく甘美な悪夢から目覚めなければいけない時間なのだ。
満を持したように喉を塞き止めるものが瓦解する。悪いものから解き放たれた声が押し出されるようにして自分の耳朶に触れた。

「それじゃ……私、隣にいるしか出来ない」
「それでいいんだよ」

言葉を、咀嚼できなかった。

私達は互いに――否、私は真緒に、寄りかかり過ぎていたのだろうか。
悲しくも事実は揺らがない。
私に向けて伸ばされた真緒の手は迷い子をそっと導くようにどこまでも優しいもので。魔術師と称された衣更真緒は、元祖魔法少女の愛称で呼ばれる真緒は確かな魔法を使えるらしい。

「なまえには俺がいる」

――真緒には私がついてるよ。
重なって、脳裏に響く。

「だからずっと俺の隣にいて欲しい」

全部を背負ってとは思わない。彼が背負い込みすぎた無理や我慢を私が取り除いてあげることもできない。
出来るのは隣にいてあげること。温もりを分けて与えること。
それだけでいい、と優しくかけられた言葉は吹く風のように耳朶を撫ぜ、静やかに存在意義を奪っていく。
ごめん。口から零れた私の謝罪が風に乗った。

「少し時間欲しい」

頷く彼の顔を覆い尽くす夕闇を難く思った。


2017/01/20

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