短編

02.プラスチックで出来た恋情


それはまだ私が彼を衣更と呼んで、彼もまた私をみょうじと呼んでいた中学時代。衣更真緒との接点など同級生程度の薄いもので、誰かに何かを任せられてはぶちぶち文句を言いつつ全力で取り組む姿を可哀相、と今とはまるで違う意味を宿したその言葉を胸中に浮かべていた。他人事に憐れんでいたのは事実私たちが振り分けられた教室が同じであるだけの友にも満たない者同士であったから。それがどうして、と問われれば。感情の塊をぶつける先を見つけられないでいる真緒を受け止めたのが偶々居合わせた私であったというだけ。近い人にほど心を押し殺してしまう彼の性分と、自分以外の人間の人生に対してあまりに無情動な私の空の器がうまい具合にかみ合ってしまったというだけ。今でこそ数段階を軽く飛ばす形で彼女に昇華しまったけれど。
衣更真緒が歩む人生の淡い背景の住人でしかない私になら、弱い部分くらい見られてしまってもいいんじゃないか。白い雪の名を持つお姫様の口元に唇と同じ紅の林檎を差し出すような、それは甘い甘い罪深い誘い。あのとき口の端から言葉を滑らせ取り落としてしまわなければ、今は……。

どうなって、いただろうか。

***

知人、友人、顔見知り、もちろん家族にだって。頼れないから、自分はいつだって頼られる側にいなくてはならないから、と勝手に信じて勝手に演じて、そうして勝手に当たって砕けている。こう成りたいという理想とはまるで別物であろう姿。ずれにも罅割れにも気づけないまま軋む音を知らん振りして、壊れかけの歯車に通常運転を義務付ける。全くこれでは容量がいいのか悪いのかわからない。誰か人に甘えることができるのが私と彼と二人切りの時だけとは彼の生きる世界は広いようできっと狭い。
いつもと同じ。衣更真緒のフルネームで登録された連絡先からメッセージを受信すると散らかり放題の机を少しでもましな状態に見せようと私物を引き出し内に突っ込みにかかる。付き合い始めようが何しようが、やはりこれだけは変わらないのだろうとどこか安堵しながら片付けに勤しむ。
揃って多忙な両親と三人だけで住むこの家で携帯端末のアプリを閉じたり開いたりしながら赤髪の彼の訪問を待つのは前と一緒。いたはずの弟がいないこの家に何の寂しさも抱かなくなってしまったのは昔から唯一変わった点ではあるけれど。

お邪魔します、と殆ど口だけだろうに挨拶を口に滲ませる律儀な真緒。妹を持つ兄ともなるとノック無しでの入室はやはり強く非難されるものなのかもしれない。

「はい」
「……ん?」
「しないの? ぎゅーって」
「んー、……そうだな」

巻き付かれた腕が男の硬さを持つものだけに包まれてもふわりとはいかないけれど。腕に招き入れてくれる真緒に身を寄せるとぎゅう、と閉じ込められる。鼻先を埋める形となった制服から香るのは少年の匂い。慣れない抱擁に熱を帯び出す身体の芯。心臓を鳥の羽根に擽られているように感じて、むず痒さに苦しくなってしまう。
感じるそれらを紛らわそうと身を捩ると真緒は腕の拘束に意図して綻びを作ってくれた。離れ際にぐいっと肩を引かれて唇が合わさりキスになった。は、としゃくり上げるような息が漏れる。半ば強引に押し当てられた時と同じ、刮目したままの状態とはなんて浪漫の無い。不意打ちの攻撃を一発貰ったそこを指先でなぞり、リスタートした関係を自覚する。
する、と離れる手は今度こそ。

「わり。嫌だったよな」
「そうじゃ……嫌とかじゃなくって」

真緒が一度伏せた瞳を上げて、対照に私はふらり視線を自身の爪先へ落とす。私達はあべこべだ。
嫌悪があるなら今頃私は洗面所に駆け込んで、尚も残り続けて神経回路を支配するキスの残り香を拭い落そうと必死になっていただろう。ただ私は一日を境に180度変貌した距離感にも関係にも馴染めずにいる。ただそれだけ。
何も無い日常のはずだった。珍しいもの、楽しいこと、哀しいこと。時に明るく時に暗く、世界を彩る、そんなものはない平坦な褪せた日々。
大切なものは失くしてから始めて気づくと云う。本当に私自身が空っぽの人間であったなら、こんな風に惜しさに苛まれることも無かったであろう。喪失以上にこうして与えられる温もりの方がずっとずっと多いはずなのに、それなのに何かをどこかで探し出そうとする私は名も知らない落とし物を見つけるために迷宮へと足を踏み入れようとしている。

「今日親父さん遅いんだっけか」

見上げた顔は仄かに赤い。嗚呼、と何となくだが気づいてしまう。子供から少し成長した程度の男の子が考えそうなことだなと。

「あー……やっぱ、なんでもない。気にしないでくれ」

そっか、としか私は言えない。
音を立てて縮まる心臓の位置を衣服の上から探った。
ぽっかりとひらいた隙間に幾ら温度を注ぎ込まれても満たされないのは何故だろう。満たそう満たそうと与えられるものこそが隙間を穴に広げていく要因であるからだ。
目の前の“不器用”が服を着て歩いているような男の子が他の大事な人にそうするように私に対しても気持ちを押し殺してしまうから。私が真緒から遠慮される“近さ”の“関係”になってしまったから。


2017/01/11

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