短編

泥の中がきもちいい


「実家に囲いが出来たんだって」
「へぇ、そうなのか」

声音と共に舌先からあふれ出た吐息には色があった。透明で形のない真っ白いそれを吐き出しながら、夜を駆ける私たちはさながら機関車だろう。寒さを湛える息をくゆらせて、ランニングに励む私と轟は、寮の敷地内を巡る汽車になる。
凍り付いてしまいそうな睫毛は蝶々のように気まぐれにしばたかせて、拳を握ってはひらいて、血潮の巡りが滞らないように神経を張って。

「なまえは正月は実家戻んのか?」
「一応はね。でもばたばたしそう。あっ、休み明けたら轟の誕生日だね」
「あぁ……そういやそんな時期か」

ぱたぱた、と重なりあいながら反響する足音はどこかで冬の夜闇に食いちぎられてしまうらしく、あまり遠くの闇までは揺さぶらない。
轟が不意にウェストポーチを漁ってボトルを取り出した。ここいらで水分補給らしい。つられて私も自身のタンブラーを引っ張り出して蓋をくるくると回す。

「ん……」轟の喉をボトルの淵から零れた雫が伝っていく。前進する脚を止めずに水を口腔へと流し込んだから、唇で受け止めきれなかったのだろう。彼は健やかで青年に近い骨格だけれど、その割には唇はこぶりだから、などと。思う。
蠢く喉仏のその表面を伝う一滴。それを粗雑に、粗暴に拭う動作のなかに、少年らしさを垣間見た。
ぼう……っと魅入られて、いたのだ、と。気づく頃には私は間抜けにも自身の唇から彼同様、飲み水を何滴ばかりか逃がしていて、そしてそれを轟の親指が拭い去った。硬い指の腹と切り損ねた爪の尖りの、あまりの情報量に神経回路が踊らされる。
轟の指に乗るその水の粒はこの夜に冷やされて凍るだろうか、そんなわけないだろうな。とにもかくにも顔を覆い隠してしまいたい。

「えーん、いけめんが眩しい……」
「俺は光らねえだろ」
「う〜ん、そうじゃないかな!」

わっせわっせ、と走りを速め、轟の肩口を軽く追い越してみる。
轟の横顔は流麗な輪郭の鼻筋に、右の深雪のような銀髪も相まって夜空の三日月みたいに――眩しい、というのも事実だった。

「ねぇ、あの、今日一緒に寝てもいい?」

私はくちから吐き出す。すると眼前が白に染まる。羞恥の赤と涙の滲んだ頬と眼。これでは私は兎だ。ぶっさいくな。
息と言葉と頬に色のある夜だった。
さぁっと私の隣に並んだ轟は素晴らしい形状の骨の浮かぶ手で口元をまるきり覆い隠して、隠し切れていない赤らんだ顔色で、このように短く。

「……おう」

***

「風呂、よかったのか。汗臭ぇぞ、たぶん」
「いい。轟のにおいすきだから」

男子寮に忍び込むのもお手の物。自身の寝具ではなく彼の敷布団で脚を折るのも慣れたもの。
だけれど、肉体の奥に募る熱が畳でも、ましてや玄関でも厭わないと叫んでいる。おかしい、相反して冷え切っている脳はすぐにでもあたためてほしい、と。嗚呼、やはりこちらも彼を求めて先走っていることに違いはなかった。

「このままがいいの。お風呂いいし、ここでも畳でもいい、から。だから。」

私は、ジジ……と轟の青のスポーツウェアのチャックを誘うようにおろしていくけれど、寒さではなく恥ずかしさでかじかんでしまった指では、どうにもつっかえつっかえになる。

「畳は……駄目だ、身体痛めんだろ」
「いいよ」
「……後悔しても知らねぇぞ」

なぜかな、なぜだろうな。そうしていつも聞き入れてくれるのは。

「けどせめてそこだ」

譲歩、とばかりに轟は私を座椅子に座らせてくれた。
外界の香りを纏った皮膚は非常に冷たい。額から足の爪の先に至るまで体の表面は凍えていて、けれど芯はずっと熱くて苦しくて、肺が潰されているようだった。
そんな躰を同じ温度の轟の腕が包み込んでくれる――否、左手には仄かなぬくもりがあって、右手は私よりも寒そうな、ちぐはぐのハグ。

「お前も汗かいちまってんな」
「う、ん……」

露出させた私の首から鎖骨にかけてをが舌になぞられる。きっといま轟は、しょっぱい、と感じたはずだ。北風に晒された肌に汗の粒が散りばめられたそれらを拾い上げて、味蕾に刺激を受けたはずだ。
こんなことされるのもこんな風に思うのも、明日顔を合わせられないやもしれないと案じるのも初めてではなかったけれど、やはり今夜も私はもう顔を見られはしない、などとほざくのだった。

「暑いな……」

轟はとうとう、先ほどまで私がチャックと半端な格闘をしていたウェアを、これまた乱雑に脱ぎ捨てた。インナーは腹部からまくりあげる形で脱ぐ。
私の指には心の狼狽が現れていた。わななく指で自身のスポーツウェアを引っ掻くだけだ。それを。

「お前も暑そうだな。赤いぞ、顔」

ふ、と微笑で撃ち抜かれたら――こくりと返事するほか、あるまい。ほんとうはその手順さえも面倒で仕様がなかったのに。
上肢のぜんぶを晒した。包むもののなくなった脚はなんとはなしに轟の腰に絡めてみたり、した。
熱せられた汗がぶわりぶわりと湧き出てきて、熟れて爛れた林檎みたいに潤む。更に轟の肢体から滲み、つぅ、つぅ、と零れ落ちる汗を一身にうけとめる。抱きしめ合って、ぴたり、と重なれば皮膚や汗や音や息や汚いものやそうでないものの区別も無に還る。
キスがしおっからい。抱擁が一際熱く、獣じみている。舌も負けじと熱くて、二人の総身みたいに濡れそぼっている。

2019/10/27

- ナノ -