短編

さよならっていわなくてもわかるよ


※十傑パラレル……?でございます。

自分の伴う靴音が夜のお屋敷の廊下に木霊する。目的地の扉を前にして、ぴたり、と両足を揃えれば、靴底からの残響も全て消え去った。絶えず繰り返していた自身の呼吸、そして新たに奏でるノックのリズム。横たわる静寂にそのふたつだけが申し訳無さげに散りばめられる。

「ご所望のカモミールティーをお持ち致しました」
「開いてる」

部屋の主よりぶっきら棒に入室を許されると、し、失礼致します、と恐る恐る私は踏み入る。強張る足取りには、実は自分は招かねざる客なのではないかという不確かな鬱々しさが今になっても纏わりつく。これだけ許されているというのに。我ながら愚かしく、そして強欲だ。
しかしながら豪奢なソファにかけて、肩をゆったりとさせていた焦凍様は、アルビレオと同じ色彩の眼差しを涼やかに私に差し向けているものだから。これでは脚が縺れて、茶器同士が擦れてしまっても仕方がない。
私に彼の元まで足を運ばせたナイトティーセットは、コトリ、とローテーブルに置く。トレー上の、カップと、シュガーポットや匙との間隔を改めて整えながら、焦凍様へ「すぐに準備致しますね」と告げた。

「敬語、もういいだろ」
「は、はい。……うん」
「座らねぇのか?」
「じゃ、じゃあ」

失礼します、と尚も余所行きの礼儀を続けようとした自分の口を戒める。今は、たかが隣に腰かけるだけ、という普通の意識で構わない。そういう瞬間なのだ。侍女として貴族の生活に触れているだけの私は、ソファの素晴らしい座り心地にひたすら感動していればいい。
柔らかな輪郭線とストロベリィ模様の、本来なら私なんかが触れられるはずもない上品なティーポット。其れの取っ手に指を差し入れる。傾ければ、カモミールの仄かな甘やかさが湯気と共にくねるはずだった。果実に寄った、けれどハーブらしくすんと鼻を抜けていく、あの。
注ごうとした手を――使われたのは彼の右手だったのだろう、冷たく感じたから――ソファに縫い留められ、顔を捕まえられ、注ぐ手を止められ、顔を捕えられ、口付けられた。
友情以上のものを育んで、他人に晒したこともないような箇所にも触れて触れられて、本当の意味での熱を理解し合っている。侍女と貴族騎士とが、だ。

「焦凍様――」
「様もいらない」

しょうと、くん。
唱えてみる。再びのキスが舞い降りた唇の、奥の方で。

「焦凍君、お茶いいの? 冷めちゃうんじゃない?」
「あとででいい。どうせ口実だったんだ」

背中が座面へと吸い込まれるようだった。長椅子へと転落。
雨のように絶え間無いキスを一滴一滴大切に重ねて行く。

エプロンドレスは奪われないまま、侍女服の前を開かれる。暴かれた双丘の間にエプロンの胸当ては寄せられ、そこにひっかけるかたちではしたなく恥ずかしいところを晒してしまう。
仕事着のまま及ぶだなんて。否、そもそも一介の侍女がこの人の総身を独占するだなんて。素肌にまとわりつく黒のメイド服は身をよじる都度皮膚と擦れるので、逐一それらを突きつけられる。けれど身分差が宿す背徳感というものに背筋は煽られていて。
好き、とか。私も、とか。譫言が、呪文のように現実に濃霧を被せる。
襟のフリルにもどかしそうに指を差し込む焦凍君に胸が鳴った。私が求められる事を求めて、歓喜しているからだ。

***

「こいつも大分お前に懐いたな。あんだけ臆病だったってのに」

愛馬の首筋をするりと人撫でし、焦凍君は幽かに笑む。
現在も怖がりさんな白馬であることに大きな変化はないのだが、そうだ嬉しい。

「……乗ってみるか?」
「えっと、命令?」
「別にそういうんじゃねぇけど。無理強いはしねぇよ」

どうする、とアーモンド形の碧眼から眼差しを差し向けられると、重力が髪の流れを下方へと変えさせた。不意に切り落とした口火を潰すのか或いは否か。結局私は馬小屋から解き放たれることを選ぶのだけど。


「私、馬に乗るの初めてだよ!」
「そうか……そう、だろうな。振り落とされんなよ」
「振り落とさないでね!」
「わかってる。――このまま湖畔まで走らせるぞ」
「うん!」

始めての不安定感と風圧。激しく揺さぶられ、挙句顔の皮膚が伸びてしまいそうなほどの風を受け止める。そしてしがみついてみて初めて焦凍君の背中の広さを知った。
逆風に抗い荒げた声は、僅かに喉を痛ませた。彼の声は、耳朶を触れさせた背中からも振動という形で、触覚的に知覚する。
風を切って向かう湖は汽水域だ。湖でありながら海と細く通じており、その繋がりが海水と淡水の混じり合う汽水を作り出す。
眼界ぜんぶを抱きしめたくなるほど、湖は美しかった。相変わらずの、否、何も微塵も変化していないかのような。移り行く時代からも、流転や輪廻からも此処だけが切り取られていると、信じてしまいたい。半永久的な湖の長閑さは、まるで不変の存在のように波紋を煌めかせる。だが幽かな春風は湖面の模様を、木の葉の顔つきを、小鳥のソプラノを絶えず移ろわせている。雲を千切り、陽光のカーテンを靡かせる。そして繰り返す、海未満の潮の満ち引き。湖畔を彩るものの全てが閑散のなかで育ち老いて死していくのだ。

「前に面白い奴がいるっつったの覚えてるか?」
「緑谷君達、だっけ?」
「あぁ」

おもしれぇやつに会った、と淡い喜々を湛えた音色で短く語ってくれた以前のことを思い出す。ひよっこ冒険者に、魔女っ娘ちゃんに、騎士君。キャンバスのように澄んだ蒼穹と、そんな空をそっくりそのまま水面に投じられた鏡湖。英雄譚の一章のような巡りあわせを、したのだ彼は。今吹く風と同じ香りの風を受け止めながら。

「そいつらに一緒に旅をしねぇかと誘われてる」
「うん……」
「明日ここに来るってことがそのままこの誘いの承諾になるって約束だ」

――もしも一緒に来てくれるなら、轟くん、あの日と同じ、この岬に来てほしいんだ。

「俺はお前にも来てほしいと――一緒に旅をして欲しいと思ってる。来て、くれねえか」

仮に旅立つ時、伴いたい人間がいることを緑谷という方々には話してあるのだと、彼が言い終えるよりも先に。まるで私を地面から引き上げてくれるかのように焦凍君が手を差し出す、それにも先んじて。

「私も一緒に行く」

自分へと伸ばされかけていたその手を取り、握り、体温を逃がすまいとばかりに、私は双眸で彼の穿った。琥珀と硝子玉の彼の色と、自分の平々凡々な色とを結ばせて。

「……さすがに即答過ぎやしねぇか」

焦凍君は、ことばとは裏腹に幽かな安堵を滲ませて、そしてその安堵感の在り処を突き止められることを恥じてか、襟元を指で引っ掻く。かわいらしい癖だ。

「命令じゃねえんだぞ。今まで通り雇われてた方が、少なくとも旅よりはずっと安全だ。それでも俺と来てくれるって云うのか?」

言葉は一つだけだ。
もちろん、と。私の声音を揺らした風は、湖を超え、彼方に佇む御屋敷まで届くことだろう。そして私がひっそりと育てていたジャスミンの花を揺らすのだ。


2018/10/17

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