煉獄さんと食事に行った日から、数日が経った。
 あの日はお酒を飲んでいたとはいえ、煉獄さんを前にとんだ醜態を晒してしまったと、思い返しては身悶えしている。

 あの日、お店を出た後も、煉獄さんはずっと私の手を握ってくれていた。ところが私はというと、いい歳して酒を飲みながら付き合いたての彼氏……且つデキる先輩の前でぼろぼろ泣いてしまったことが後になって恥ずかしくなり、駅までの帰り道は、ほとんど黙って手を引かれるがままになってしまっていた。
 押し黙ったままの私がようやく口を開いたのは、会社の最寄り駅に着いた時である。改札口の目の前に辿り着いても、相変わらず煉獄さんは繋いだ手を離そうとせず、そこで私は「へ?」と間抜けな声を上げた。
 改札を通り抜ける一瞬だけ手を離されて、流れるように同じコンコースへと足を踏み入れる。私の頭には、大量の疑問符が浮かんでいた。何故かと言えば、私の自宅の最寄り駅を通る路線は、煉獄さんが利用する路線とまったく別の路線のはずだからだ。

「家まで送ると言っただろう」

 至極当然だと言わんばかりの顔つきで、煉獄さんは私の手を引きながらホームへ続く階段を降りていく。
 同じ沿線に住んでいるわけでもないのに、この時間に家まで送ってもらうというのは、流石に申し訳ない。そう感じた私は、煉獄さんの揺れる黄蘗色の髪を眺めながら「ここまでで大丈夫です」と小さな声で告げた。

「駄目だ。夜道の一人歩きは危険だぞ」
「でも、煉獄さんの帰りが遅くなってしまいます」
「……すまない。もっともらしいことを言ったが、俺自身がみょうじともう少し一緒にいたいから、というのが本音だな」
「な、なるほど」
「勿論、心配しているということも事実だが」
「……煉獄さんって、すごく正直と言うか……素直ですよね」
「そうだな。これまであまり自覚はなかったが、君に対しては殊更そうなる気質のようだ」

 煉獄さんは肯定を示したものの、意外すぎるその発言に、私は「自覚してなかったんだ……」と独り言のように呟く。煉獄さんは薄っすらと目を細めて、穏やかな笑みを浮かべていた。
 その表情の真意は、よくわからなかった。どうして笑うんですか? と聞いてみようとしたけれど、私のことを見下ろす煉獄さんの目があまりにも優しくて、気恥ずかしさからつい目を逸らしてしまう。

「君の家の最寄り駅に行くのは、この路線であっているか?」

 話題を切り替えるかのように、煉獄さんは頭上の電光掲示板を見上げながら私に問いかけた。「はい」と小さく返事をして、私も同じように電光掲示板を見上げる。二人並んで電車を待っていると、間もなくして該当の電車がホームに到着した。
 この流れはもしかして……煉獄さんが私の家に上がっていったりするのだろうか? なんて、酔いが回った頭で考える。色々な意味で高鳴る鼓動を抑えながら、私は煉獄さんと共に電車に乗り込んだ。

 しかし、私のふしだらな想像に相反して、煉獄さんの応対は終始紳士的なものだった。
 電車の中でも、電車を降りてからも、私たちはしばらくたわいもない会話を続けていた。ところが私の自宅である小さなマンションの玄関前に到着するや否や、煉獄さんはそれまで続いていた会話を強制的に打ち切るように「では、また明日。おやすみ」と私の頭を撫でて、すぐに駅へと引き返してしまった。
 煉獄さんの背中を見送りながら、本当に下心なく家まで送り届けてくれるとはなんてジェントルマンなんだ……と感心する。だが、それと同時に、私は自分の心に何とも表現し難い感情が押し寄せてくるのを感じた。
 何と言うか、お付き合いをしている男性が紳士的であることは非常に喜ばしいし、誇りに思えることなんだけれど、こうもあっさり帰られてしまうと『もしかして、やっぱり私は女性としての魅力が欠落しているのでは……?』と考えざるを得ないと言うか……。

 ――当時の感情を思い起こしたところで、私はふるふると左右に首を振った。
 煉獄さんは「女性らしさのみに惹かれているつもりはない」と言ってくれたじゃないかと、頭の中で何度も自分に言い聞かせる。

(ていうか今、仕事中だった……)

 今この時が仕事中であることを思い出し、私ははっと体を揺らした。煉獄さんと食事に行った日のことを思い出すうちに、いつの間にかぼんやりしてしまっていたようだ。
 私は何をしようとしてここにいたんだっけ……? と立ち尽くした状態で少し考える。するとすぐに目の前のキャビネットが目に入り、丁度自分が使うタイミングでコピー機のA4サイズの用紙を切らしてしまったことを思い出した。
 そうだった、それで備品が詰め込まれたキャビネットを漁りにきたのだった。

「よーォ、みょうじ! なに辛気臭い顔してんだー?」
「い゛……ッ?!」

 がさごそとキャビネットの中を漁っていると、ずん! と左肩に鉛を乗せられたかのような重い衝撃が走る。出し抜けに訪れたその衝撃に身構える暇などあるはずもなく、私はその場でがくりと膝を揺らした。
 衝撃を受け止めた自身の左肩に目を向ければ、そこには骨張った大きな手が乗せられている。……職場で私に対してこんなに雑な対応をする人間は、今のところ一人しか思い当たらない。眉間に皺を寄せながら背後を振り返り、自分よりも遥かに上背がある男を見上げると、吸い込まれるような深い赤色の瞳と視線が絡み合う。
 その男前で端正な顔立ちを視界に捉え、私は『やはり』と口元を歪める。私の肩を叩いたのは、営業部のエース、宇髄さんだ。

「………………」
「おま、なんて顔してんだよ。ていうか今すげぇ小さく舌打ちしなかったか?」
「してません。お疲れ様でした」
「おいおい、仮にも先輩に対して冷たすぎるんじゃねぇの……。悲しいぜ、俺は」
「すみません。とんでもなく肩が痛かったもので、テンションが下がってしまい、つい」
「そんなやわな女じゃないだろ」
「やわ……やわではないかもしれませんが……。宇髄さんのガチムチ腕力で叩かれたら、さすがにやわじゃない私の肩でも外れますって……」

 うんざりとした口調で、宇髄さんへ不平の声を向ける。そんな私とは対照的に、宇髄さんは愉快そうに歯を見せて笑っていた。
 宇髄さんと私は、過去に同じ部署に配属されていたことがあった。その時期は宇髄さんが私の教育係として仕事を教えてくれていたということもあり、社内という環境において、私たちは比較的付き合いが長いほうの関係性にある。
 宇髄さんのざっくばらんな物言いや、浮ついた見た目の割りに意外としっかりしている性格なんかは、一緒に働き始めるとすぐに好きになった。それに、月毎に設定される営業目標値を、毎月のように大きく超えて実績を残し続ける彼の確かな営業スキルは、純粋に尊敬している。勿論、これらの感情は全て『同僚として』抱いている感情であり、断じて『女として』抱いているものではないのだけれど。
 そんな仕事のできる宇髄さんだが、同僚として信頼を置いてくれているのか、彼が担当する案件に関わる仕事を私に任せてくれたりもする。なんだかんだ言いつつも私はそれがとても誇らしくて、彼のおかげで仕事のモチベーションが上がることも多々あった。それに、扱い方が雑ではあるものの、こうして積極的にコミュニケーションをとりにきてくれるところを見ると、宇髄さんなりに私のことを可愛がってくれているような気がして嬉しかった。

 肩に残る鈍痛にしかめっ面を浮かべる私と、そんな私に向けて「悪い悪い」と快活な笑顔を見せる宇髄さん。いつもこんな調子の彼だが、私を揶揄って早々に立ち去らないところを見ると、何か私に用件があるのではないかと思った。

「今いいか?」
「大丈夫ですよ」
「この宣材さあ、もう少し若年層にウケるような派手なコンセプトにしたいんだけど」

 先ほどまでの冗談を入り混ぜたような喋り方とは打って変わって、真剣なトーンで宇髄さんが尋ねてくる。宇髄さんは右手に持っていた資料を私に見せると、とんとん、と開かれたページを指差した。
 やはり仕事の用件だったか、と思いつつ、私は宇髄さんが持つ資料を覗き込む。それは次のシーズンに発売予定の新商品について、概要が纏められたページだった。

「あっ、これ、次の一押し商品の」
「そ。俺がめちゃくちゃ売ってくる予定の商品」
「さすが、ブレない自信ですね」
「まぁな。この宇髄様がプレゼンするんだから売れないわけはねーんだけど、売るからにはしっかりターゲットを絞っときたいんだよ」
「確かにこの商材は若年層にターゲット絞ったほうが売れそうかも……」
「だろ? 今からネタの差し替えきくか?」
「実際に販売する営業部からの提案ですから、上手く説明すれば納期を伸ばしてもらえるかもしれません。デザイン課にも確認してみますね」
「手間かけちまって悪いな」
「いえ。ちなみに宣材のお好みありますか? カラーとか写真とか……」
「…………」

 宣材資料に目を落としながら会話を続けていると、急に宇髄さんが黙り込んでしまう。
 今の会話の中で、特に不自然な受け答えはなかったはずだ。それにもかかわらず、本当に急に宇髄さんが黙り込んでしまうものだから、私何か変なこと言ったか……? と不安を感じずにはいられなかった。
 眉を顰めながら宇髄さんのことを見上げる。すると、何故か資料ではなく私の顔面を凝視する宇髄さんと目が合った。

「宇髄さん?」
「…………」
「え……怖っ。怖いので黙って見つめてくるのやめてください」
「お前さあ、なんか顔色良くなったな」

 そう言って宇髄さんは私の頬を指先で摘むと、感触を楽しむようにふにふにと強弱をつけて引っ張った。

「痛っ……ひはい、ひはいへふっへ」
「ぶっ……! みょうじ、その顔地味に面白いな」
「ひででで」
「お前はそういう顔してりゃ良いんだよ。しょげてる顔してると、こっちの気が狂っちまうだろうが」

 頬をつねられながら、私は「顔色が良くなった」という宇髄さんの言葉について考えていた。
 先日までの私は、一体どんな顔をして仕事をしていたのだろうか。確かに失恋した直後は、出社するのが辛いと思う日もあった。けれど、そういった気持ちを匂わせるような話なんて誰にもしていなかったのに、蜜璃ちゃんからも煉獄さんからも心配され、宇髄さんからはあたかも『今まで顔色が悪かった』かのように言われてしまうとは。
 つい最近までの私は、失恋によって負った心のダメージを上手く覆い隠して、普段通りの態度で人と接していた気でいたけれど、それは所詮“覆い隠していたつもり”でしかなかったのだろう。無理に強がっていても、そう簡単に取り繕うことはできないのだなぁと、私は痛切に思った。
 宇髄さんは相変わらず私の顔から手を離すことなく、面白がって頬を引っ張ったり潰したりを繰り返している。
 化粧が崩れるじゃないか……と若干の鬱陶しさを感じながらも、宇髄さんなりに励ましてくれているのかもしれないと思うと、少しの間ならされるがままになっても良いかな、なんて思った。
 ところが、次の瞬間、そのような思考は一瞬のうちに消え去ることになる。

「宇髄。気安く女性に触れるのはどうかと思うぞ」

 ぴしゃりと切り捨てるような口調で、背後から圧のかかった言葉を投げ掛けられる。
 宇髄さんは私の頬からぱっと手を離すと、身体を捻るようにして後ろを振り返った。同じように、私も声の主の方へと振り返る。
 そこには、強張った表情で私たちのことを見据える煉獄さんの姿があった。その周辺には、心なしかぴりりと張り詰めたような空気が漂っているようにも見える。

「おー、煉獄。お疲れ」
「煉獄さん、お疲れ様です」

 私たち二人からの挨拶に対し、煉獄さんは口を結んだまま何も言葉を発そうとしない。煉獄さんが挨拶を返さないだなんて、そんな場面をこれまで一度も見たことがなかった私は、思い切り困惑してしまった。
 助けを求めるように宇髄さんを見上げると、彼も違和感を感じているのか、小さく首を傾げている。

「なんだ? 何怒ってんだよ?」
「怒ってはいない」
「にしては険しい顔してんぞ。あ、もしかしてヤキモチか? 俺がみょうじと仲良くお喋りしてるからって、そんな嫉妬すんなよ」
「ああ、そうだな」
「は?」

 口を固く閉ざしたままの煉獄さんに痺れを切らしたかのように、宇髄さんは僅かに口角を上げて、煉獄さんに問い掛けた。宇髄さんはきっと冗談のつもりで「ヤキモチか?」だなんて聞いたのだろう。しかし、煉獄さんから返ってきた言葉は彼の予想に大きく反するものだったようで、驚きに目を見開いている。
 これは私にとっても予想外すぎる状況である。就業中のこのタイミングで何を……? と、冷や汗が流れ出すのを止められない。

「え、ちょ、煉獄……お前、マジ?」
「うむ、どうやらそのようだ」
「お前なぁ……。もうちょっとわかりやすく説明しろって」
「宇髄がみょうじに触れたところを目にして、俺は嫌な気持ちになっている!」
「煉獄さん、ここは就業時間真っ只中のオフィスです。そんな正直に暴露するところじゃないです」

 ほとんど反射的に、私は煉獄さんの大きな声に対して突っ込みを入れた。宇髄さんは意表を突かれたのか、口を半開きにして煉獄さんの顔を見つめている。
 突っ込みを入れつつ、この会話はオフィス内のどこまで響いてしまっているのか……? と私は慌てて周囲を見回す。幸いにも、こちらの状況を気に掛けているような社員はいない様子だった。
 勘の鋭い宇髄さんはほぼ察しがついたようで、私と煉獄さんを交互に見やりながら、にやにやと楽しそうに笑みを浮かべている。

「へぇ〜。煉獄とみょうじがね。良いじゃねーの」
「察しが良くて助かるが、察してくれたからには、今後はみょうじに触れることを控えてもらえないだろうか!」
「わかってるって。知らなかったとはいえ、悪いことしたな」
「すまない。宇髄のことは同期として信頼しているが、そう言ってもらえると有り難い」
「おー、嬉しいこと言ってくれるねぇ。まぁ自他共に認める色男の俺だが、流石に煉獄の女に手を出すなんてことは…………ん?」

 宇髄さんからの茶化すような視線に気まずさを覚えながらも、宇髄さんと煉獄さんが同期であることを知らなかった私は、二人の会話を興味津々に聞いていた。話を聞く限り、宇髄さんと煉獄さんは随分と前から信頼関係が成り立っているようで、良好な付き合いを重ねている様子が見て取れた。
 そんな二人の関係性にほっと胸を撫で下ろしていると、宇髄さんが突然思い出したかのように声を上げる。

「いや待て! みょうじお前、あの取引先の営業とデキてたよな……? 何だっけ、あのド派手な目の……。あっ! お前もしかして、あいつと別れたのか?!」
「まさにその通りですが、宇髄さんもちょっと黙りましょうか」

 私が制止をかける暇もなく、宇髄さんは落ち着きをなくしたまま、矢継ぎ早に私の元カレの特徴を言い切った。よりによって煉獄さんの目の前で、だ。
 私はすっかり忘れていた。宇髄さんが、私の元カレを実際に知る人物の一人だということを。
 もしかしたらそのうち打ち明けることになるかもしれないと、少しは覚悟していたものの、出来ることなら“煉獄さんと元カレが接触しない限りは”、話題にしたくないと思っていた元カレ自身の話。
 私と煉獄さんの付き合い方を『新たな恋愛』と呼んで良いものなのか、それはまだわからない。けれどどんな形であれ、現在進行形で交際している相手に向けて、過去の恋愛の話なんて不用意にするもんじゃないと、私はそう考えている。だから元カレがどこの誰でどういう人間なのかなんて、煉獄さんにはまだこれっぽっちも話していない。
 ちらりと煉獄さんの方へ視線を向けると、口角を上げたままきゅっと唇を重ね閉じている様子が目に入る。笑っているとも怒っているとも取れるような、複雑なその表情を浮かべたまま、煉獄さんは私のことをじっと見つめていた。
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