煉獄さんが連れてきてくれたのは、和を基調としたモダンな内装が印象的な小料理屋だった。
木製のパネルを組み合わせたような寄せ木のテーブルや、一直線にカウンターに並べられた色とりどりの酒瓶が暖色のダウンライトに照らされて、店内は落ち着いたムードで溢れている。
煉獄さんが名を告げると、店員さんは「ご予約の2名様ですね」とにこやかな笑顔で出迎えてくれた。
現在の時刻から考えて、開店からまだそんなに時間が経過していないはずだ。つまりあの短時間のうちに、煉獄さんはお店に予約の電話まで入れてくれていたと言うことになる。
なんてデキる人なのだ……と感動しつつ、店員さんに誘導されるまま個室へと入り、煉獄さんと向かい合う形で椅子に腰を下ろす。手渡されたおしぼりで手を暖めながら、テーブル上の『本日のおすすめ』と記載されたお品書きに目を落とすと、確かにそこには『おでん』のメニューがずらりと並んでいた。
煉獄さん曰く、このお店は「おでんがとても美味い」らしい。自家製の出汁もさることながら、良い塩梅で味が染みた具材が大変美味しいのだと、ここに来るまでの道中で煉獄さんが教えてくれた。
さらに具材の種類が豊富らしく、家庭料理としてのおでんには入れないような、珍しい具材を食すことができるとのこと。中でも煉獄さんのお気に入りの具材は、“さつまいも”だそうだ。
「おでんにさつまいも……?」
「うまい! うまい!」
「わっ、本当だ。美味しい」
ほこほこと立ち昇る湯気とともにさつまいもを頬張ると、優しい甘さが口の中いっぱいに広がる。お出汁の塩気が後を引き、さつまいも本来の甘味を引き立てているようだった。
仕事後の美味しい料理には、やっぱりビールだろう! と張り切って注文した中ジョッキは、早くも3杯目に突入しそうである。目の前で「うまい!」を連発しながら次々と料理をたいらげていく煉獄さんを見ていると、私もついつい箸が止まらなくなってしまう。
熱々のおでんを口に運んでは、冷たいビールで喉を潤す。心も体も温まる美味しい料理と、目が覚めるような喉越しのビールが往来するこの状況は、今の私にとってまさに“満たされる”としか言いようがない。
幸福なこの状況の影響なのか、あるいは仕事の疲れが出ているのか、普段よりもアルコールの巡りが速いような気さえした。
「はぁぁぁ、幸せ……。煉獄さん、このお店のご飯、とっても美味しいです。素敵なお店を教えてくださってありがとうございます」
「それは良かった! 喜んでもらえて何よりだ!」
「美味しいものでお腹も心も満たされて、今日は久しぶりにゆっくり眠れそうな気がします」
「何?」
「はい?」
「……眠れないほど思い詰めていたのか」
「あ、いや、眠れてはいるんですけど……。なんか夜になるといろいろ考えちゃったりして」
えへへ、と苦笑いを浮かべる私に反して、煉獄さんの顔から笑顔が消える。
何の気なしに口にしたはずの言葉だったが、ぱちん、と煉獄さんが箸を置いた音が響くのと同時に、私は「しまった」と思った。
煉獄さんは忙しい身であるにもかかわらず、私の元気が無いように見えたからと、人知れず気にかけてくれていたような人だ。ということは、私の発言によっては余計に心配をかけてしまうのではないだろうか。
おずおずと煉獄さんの顔に目を向けると、その眉間には皺が寄せられている。
「もっと早く声を掛けるべきだった。すまない」
「あ、いっ、いえ! そんな、煉獄さんが謝ることじゃ……!」
やはり、嫌な予感は的中した。煉獄さんに要らぬ心配をかけてしまったということを自覚し、慌てて私は首を横に振る。世間話の一貫のつもりで出した話題が、まさかそんな深刻に捉えられるとは思わなかった。
せっかく素敵なお店に連れてきてもらって楽しくご飯を食べていたのに、自分の発言によって雰囲気を悪くしてしまった……と肩を落とす。
煉獄さんが私を心配してくれていること自体は、とても嬉しいと思っている。しかしその一方で、ここまで優しくしてもらっておきながら楽しい話題の1つも提供できない自分に嫌気が差してしまう。
元カレと別れてからというもの、どんどん自信をなくしていっているような気がしてならない。そんな自分の心の沈みようを誤魔化すように、私はビールに口を付けた。
「それで?」
「……? はい」
疑問を呈するような煉獄さんの言葉に、私は首を傾げる。
「件の男とは、何故別れることになったんだ?」
「え……傷心の女に向けてそんなオブラートに包まない聞き方します?」
煉獄さんからの問い掛けに、ひくりと頬が引き攣る。いつかは聞かれるだろうと思ってはいたものの、こんなにも早い段階でその話題を持ち出されるなんて。
どくん、と心臓が嫌な音を立てる。返答に困っているという雰囲気をあからさまに醸し出すように、私は目を泳がせた。勘の鋭い煉獄さんはならば、そんな私の様子から心情を察してくれるだろうという甘えた考えが頭をよぎっていた。
しかし、煉獄さんがその話題を変えてくれることはなかった。
「あまり話したくはないことなのだろうが、できれば聞いておきたい」
「……。今、ですか……?」
「そうだ」
「そんなに重要なことではないと思うのですが……」
「重要だ。君を知り、君の心の傷と向き合わなければ、いつまで経っても俺はみょうじの一番になれない」
昨日の夜と同じように、煉獄さんの真っ直ぐな眼差しに再び捕らえられる。
煉獄さんの言葉に、私の一番って何だ? と、まるで他人事のように思った。仮に煉獄さんが一番じゃないとして、それなら今の私の一番は何だと言うのか?
答えの出ない疑問が、アルコールとともにぐるぐると体中を回る。自分自身のことであるというのに、考えれば考えるほど答えはわからなくなり、息が詰まるような感覚に襲われる。
そんな私を見つめながら、煉獄さんは「それに、」と話を続ける。
「逃げ続けたところで、思い出は追ってくる。そう簡単に消えるわけがない」
「それは……」
「思い入れのある記憶ほど、根強く残る。人の記憶とはそういうものだと俺は思っている」
「そう……ですね。嫌でも思い出してしまいます」
「うむ! ならばいっそのこと、忘れられないという事実を二人で受け止めて、二人で前に進む方法を考えたほうが良いとは思わないか?」
そう言って、煉獄さんは笑った。
ぱっと花が咲いたような笑顔を向けられて、私はその眩しさに、一瞬戸惑ってしまう。同時に、こんなにも素敵な人が何故私のことを好きになってくれたのかと疑問が浮かんだ。
もしかしたらこの状況は、失恋の苦痛から逃れようと私の脳味噌が都合よく生み出した夢なのではないか? そう疑ってしまうほどに、煉獄さんの言葉に救われている自分がいる。
知らず知らずのうちに涙が滲み出し、気付けば自身の頬を濡らしていた。一度目の淵から涙が溢れてしまえば、それはタガが外れたかのようにぼろぼろと零れ落ち、止まらない。
「れ゛っ……煉獄さんは、……っなんで、ぞんなに優じいんれすがぁぁ〜」
「愚問だな! 君のことが好きだからに決まっているだろう!」
「ぞんなふうに゛っ、……直球にっ、す、好ぎとか……言われだごと、……っなくて」
「何度でも言おう。俺は君が好きだ」
「だ、だめだ私……っ、ち、ちょっとお手洗い行ってきます」
「――待て!」
居たたまれなくなり、がたん! と大きな音を立てて椅子から立ち上がる。こんな情けない顔を晒したくはないと、急いで扉に手を伸ばした。
ところが、取っ手に掛けた指ごと背後から手を掴み取られ、個室を飛び出そうとした私の体は即座に制止をかけられた。反論する間もなく肩に大きな手が乗せられたかと思えば、半ば無理矢理後ろを振り向かせられる。
振り返った先では、煉獄さんの燃えるような瞳が私の姿を映し出している。ダウンライトの控えめな光の下、爛々と輝くその瞳は、まるで炎を宿しているみたいだった。
「……、なまえ」
「!!」
初めて下の名前を呼ばれて、思わず体を強張らせてしまう。
「……抱き締めても、良いだろうか」
「え、っ、!」
私が回答するよりも早く、煉獄さんの力強い腕によって体を包み込まれる。
隙間なく触れ合う大きな身体の体温は想像よりも熱くて、少しの間抱き締められただけで、私はのぼせ上がったかのように動悸が激しくなるのがわかった。
胸板に押し付けられるように、頭を撫でられる。擦れたYシャツから香る煉獄さんの匂いに、くらりと目眩がする。
「……温かいな」
「れっ煉獄さん、こ、ここ、お店ですよ……っ」
「今日だけは許してくれ。頼む」
心なしか甘えるような声色でそう言われてしまえば、すっかり意志の弱くなった今日の私はすぐに抗えなくなる。
優しい手つきで私の頭を撫で続けながら、煉獄さんは先ほどのそれと同じ質問を私に投げかける。
「どうして別れたんだ」
「……っ」
「ゆっくりで良い。話してみてくれないか」
「…………お、」
「お?」
「女らしさを……感じられなくなったと」
「!」
「一緒にいて楽だけど、お互いにもっと魅力を感じられる相手が、い、いるんじゃないかと……そう言われまして」
「……なるほど」
「別れようとか、決定的な言葉は無かったのですが、なんかうっすらと別れたそうな雰囲気が出ていたし……何より“今更かよ”と悲しくなったので、こちらから別れを告げた次第です……」
ぽつりぽつりと失恋の理由を言葉にしてゆく。煉獄さんは私のことを抱き締めたまま、時折相槌を打つようにして、私の話を聞いてくれていた。
全てを話し終えた私は、呼吸を整えるように小さく息を吐き出す。
この話をする時はきっとまたしんどい思いをするのだろう……と、そのように予想していた。しかしいざ話してみたところ、思ったよりも、自分の心が乱れなかったことに気が付く。
アルコールによって思考が麻痺していたせいかもしれないが、もしかすると煉獄さんが抱き締めていてくれたおかげなのかもしれない。
とくん、とくん、と心地良い心音を聞きながら、煉獄さんの胸に頭を預ける。気付けば涙は止まっていた。
私の話を聞いて、煉獄さんはどんな言葉を返してくるのだろう……と彼の次の言葉を考えていたが、実際に返ってきた言葉は私の予想に反する内容だった。
「まだ恋人と別れていない頃の君が、相手の男の話をしている時の表情は、とても女性らしかったがな」
「――へっ」
「それに可愛らしかった」
「れ、煉獄さんに私の元カレの話をした記憶はございませんが」
「甘露寺とよく話していただろう。あの休憩スペースで」
その言葉にすぐに私はピンときた。煉獄さんの言う『休憩スペース』とは、会社のビルの1階、先日私が自販機のコーヒーを買おうとしたところを煉獄さんに引き止められた、あの場所のことを指しているのだろう。
確かに、まだ私と元カレの関係が続いていた頃、あの休憩スペースで蜜璃ちゃんと恋愛の話をして盛り上がっていたことが何度かあった。他の会社の社員も頻繁に行き来する場所だったので、いつ、誰が自分たちと同じタイミングで訪れているかなんて気にしたこともなかった。
けれど、そう言われてみれば、あの場所で煉獄さんと挨拶を交わしたことも何度かあったような気がする。
「聞こえちゃってましたか……」
「ああ、聞こえていた」
「お恥ずかしい限りです……」
「とても幸せそうに話すものだから、その表情が向けられる先が俺であれば良いのにと、何度も思った」
「! なっ」
またもや直球に思いを告げられ、私は言葉に詰まってしまう。しかも本当にその頃から私のことを思ってくれていたのかと、驚きによって尚更言葉が出なくなる。
さらに、今になって「女性らしかった」「可愛らしかった」という煉獄さんの言葉にじわじわと脳内を侵食され、全ての意味を理解した途端、顔面が一気に熱くなった。
「泣いている姿さえ、俺の目には女性らしく映るのだが」
「……も、もう、私はどんな反応をすれば良いのやら……」
「とんだ大馬鹿者だな。その男は」
私の体に回された腕に、力が込められる。
胸元に頭を預けていたせいで彼の表情は見えなかったけれど、言動の節々から、私を励まそうとしてくれていることが見て取れる。
それに、こうして別れの理由を話すことができて、その上で煉獄さんに励ましてもらって、私の心は随分と軽くなったような気さえする。
「俺は君の“女性らしさ”のみに惹かれているつもりはない。だから安心してほしい」
「! じゃあ、煉獄さんは私のどこが……」
「それはまたの機会に教えよう」
「いや今聞かせてほし」
「この話はこれでお終いだな!」
「え、えぇ〜……」
「今日はもう遅い。そろそろ帰るぞ」
私の両肩に手を乗せて、煉獄さんは名残惜しそうに体を離した。
すぐ側にあった温もりがなくなってしまったことがちょっとだけ寂しく感じられて、離れた体を追うように煉獄さんの顔を見上げる。煉獄さんは困ったように眉を下げて笑っていた。
「家まで送ろう」と握られた手を、私はぎゅっと握り返す。先ほどよりも小さくなった温もりに、不思議と胸の奥が疼いている。
Title by ガラス細工の海蝕洞