煉獄さんからの告白を受け入れた翌日。
 オフィスに到着してすぐに、私よりも先に出社していた煉獄さんと数メートルの距離で視線がかち合い、ついついこちらからも見つめ返してしまう。ぺこりと小さく会釈すると、煉獄さんは私に目を向けたまま悪戯っぽい笑みを浮かべていた。その表情の理由には、なんとなく心当たりがある。
 今朝、目が覚めるとスマホにラインの通知が届いていた。寝ぼけまなこのままアプリを開くと、そこには煉獄さんからのメッセージが。

『おはよう。昨日はありがとう。今日も早く顔が見たい』

 読んだ途端に呆けた意識がカッと覚醒し、思わず布団に潜り込んだ。まさか朝からそんな赤面もののメッセージをもらえるなんて思ってもみなかった私は、昨夜の出来事が決して夢ではなかったと再認識する。
 震える手でスマホのキーボードを打とうとするものの、気の利いた返しが全く浮かばず、打っては消し、打っては消しを布団の中で繰り返す。そんな私がやっとのことで返したメッセージは、『こちらこそありがとうございました』の一言のみだった。
 多分、煉獄さんはそんな私の慌てようを見透かしている気がする。どうしても、自分より煉獄さんのほうが心理戦において一枚上手であるように感じてならない。

「だめだ、仕事に集中しよう」

 ぱしぱしと自身の両頬を手のひらで打つ。何だか無性に悔しいような、例えようのない感情が浮上してくるけれど、今は仕事に集中しなければ。目指せ定時退社。
 そう自分に言い聞かせながら、私はパソコンの電源を立ち上げた。

◇ ◇ ◇

 一度集中し切ってしまえば、時間が過ぎるのはあっという間である。昼休憩もそこそこに、午後も引き続き仕事に没入していると、気付けば時計の針は15時30分を指す手前だった。
 定時前までにキリの良いところまで進めてしまいたい。頭の片隅でそんなことを考えながら、自身が担当しているプロジェクトの進捗報告用の資料作成に勤しんでいると、不意にぴこん、と通知音が鳴った。それと同時に、ディスプレイの端にメッセージの受信を知らせるアイコンが表示される。社内連絡用のコミュニケーションツールだ。

『今日の夜も空いているか?』

 送り主の名前が目に入り、良いペースで動いていたはずの手がぴたりと止まる。
 “煉獄杏寿郎”と表示された画面の一角に釘付けになったまま硬直していると、続けざまにぴこん、と通知音が鳴り、同じ送り主から追加のメッセージが届く。

『今日こそ、食事でもどうだろう』

 そのたった一文に、どきりと胸が波打つ。なんとなく予感はしていたけれど、昨日の今日でまた誘われるとは。ここまで安定していた集中力が途切れ、作業に没頭していた思考は、いとも簡単に遮られてしまった。
 ――どうしよう。特に予定のない私には、これといって断る理由がない。それこそ「用事がある」とか何とか適当な理由をつけて断ることもできるのだろうけれど、昨夜の告白を受け入れた以上、私と彼は恋人同士という関係なのだ。
 素直に言ってしまえば、私はまだ、煉獄さんが自分の彼氏になったという実感がそこまで湧いていない。しかし、だからといって仮にも恋人相手にそんなしょうもない嘘をついてまで会う機会を避けるというのは、人としていかがなものかと思う。そんなことをするくらいなら、昨日の時点で何が何でも交際をお断りすべきだったはずだ。
 それに、家に帰ったところでどうせ余計なことを考えてしまうのだ。それならなるべく誰かと一緒に過ごしていたほうが良い。

『空いています。お食事行きましょう』
『それは良かった。店を選ぶから、好き嫌いがあれば教えてほしい』
『特にありません。私もお店探すの手伝います』
『できれば俺に任せてほしい。みょうじに喜んでもらえるような、うまい店に連れて行ってやりたい』

 カタカタと音を立ててキーボードを打ち込んでいた手が、再び止まる。
 昨日から感じていたことがある。それは、煉獄さんが本当に“自分の思い”を一切包み隠すことなく、私に伝えてくれているということ。
 曝け出したような好意を真っ直ぐにぶつけられる経験なんて、私には無いに等しかった。4年も付き合っていた元カレさえも、「好き」だとか「愛している」だとか、私を好きであるという思いを直接言葉にして伝えてくれたことなんてほとんどなかったように思う。――無論、それは私にも同じことが言えるのだが。
 今になって思えば、始まりから終わりまで、お互いに、照れくさいという感情によって『曖昧に濁された好意の言葉』で繋いでいた、そんな恋愛をしていた気がする。ただ、精一杯の愛情は伝わってきていたからこそ、彼も私も、言葉にしてもらわなくたって寂しくはなかったのだろう。
 その形が正解なのか不正解なのかは、今の私にはわからないけれど。

『わかりました。お言葉に甘えさせていただきます。今日は冷えるので、もし温かいものがあれば嬉しいです』
『承知した。楽しみにしている』

 少し遅れて返信すると、すぐに煉獄さんからもメッセージが返ってくる。その内容を確認し、私は中断していた仕事を再開する。
 ちらりと時計に目を向けると、定時まであと一時間少々の時刻をまわっている。過去のことを思い起こしているうちに、そこそこの時間が経過してしまっていたようだ。昨日に続いて、今日の終業後も煉獄さんをお待たせしてしまうのは気が引ける。
 私はふん、と意気込むように鼻を鳴らし、お気に入りのニットの腕を捲り上げると、パソコンのディスプレイと向き合った。

◇ ◇ ◇

 気合を入れて取り組んだ成果だろうか。定時よりも少し前に資料をまとめ上げることに成功した私は、早々と帰り支度を始める。
 定時を知らせるチャイムが鳴り響き、それとほとんど同じタイミングでパソコンの電源を落とす。荷物をまとめてデスクを立つと、すぐ側のキャビネット前で書類整理をしていた蜜璃ちゃんが「なまえちゃん、お疲れさま」と声を掛けてくれた。「蜜璃ちゃんもお疲れさま」と返して、続けて周囲の同僚たちに挨拶を済ませると、足早にエレベーターホールへと向かう。
 定時直後ということもあり、他社の社員も含め、エレベーター前には既に多くの人が集っていた。きょろきょろと辺りを見回すけれど、人だかりの中に煉獄さんの姿は見当たらない。
 まだ仕事終わっていなかったのかな……? そう思った私は、『下で待っています』とメッセージを入れておこうと、コートのポケットからスマホを取り出す。

「今日は定時退社できたようだな! 感心感心!」
「わっ! びっくりした」
「気配は消していないぞ!」
「そ、そうなんでしたよね……。ひとまずお仕事お疲れさまでした」

 背後から急に声を掛けられ、びくりと肩を揺らす。振り返ると、そこにはすっかり帰り支度を終えた様子の煉獄さんの姿があった。良かった、煉獄さんも仕事を終えていたようだ。
 「お疲れさまでした」と小さく頭を下げると、煉獄さんは「ああ、お疲れ」と口角を上げた。その表情が心なしか嬉しそうに見えたものだから、私は妙に恥ずかしさを覚える。
 エレベーターが到着し、大勢がぞろぞろと乗り込んでゆく。流れるままに煉獄さんと私もエレベーターへ乗り込むが、中は思った以上に人が密集していた。後ろから続いて乗り込んでくる人たちにぎゅうぎゅうと押し込まれるせいで、急激に煉獄さんとの距離が近くなり、思わず私は体を縮こまらせる。
 しかし、不意に煉獄さんの腕が腰に回され、強い力で体を引き寄せられたかと思えば、半ば強制的に私は煉獄さんに寄り添うような姿勢にさせられてしまった。

「……っ?!」

 力強い腕に身動きを制されたまま、私はどういうつもりかと煉獄さんの顔を見上げる。ところが、彼は平然とした表情で正面を向いたきり、私に目を向けようとしない。
 これは完全に確信犯だ。他の乗員に気付かれたらどうフォローしてくれるのだ。心の中で不平の言葉を叫んだところで、煉獄さんに届くはずもない。
 触れ合う体の側面と、そこから伝わる煉獄さんの体温、そして声を発することが躊躇われるこの空間に、私はどうしようもなく緊張してしまう。上気した顔が、自分でもわかるほどに熱を持っていた。

 ようやくエレベーターは1階にたどり着き、ゆっくりと扉が開く。
 扉付近に立っていた人たちに続いて逃げるように外へ出ると、広いスペースまでづかづかと歩みを進めた後に、私は後ろを振り返った。素知らぬ顔で後をついてくる煉獄さんのことを、きっと睨み付ける。

「煉獄さん! 何してくれてるんですか!」
「む、何のことだ?」
「とぼけないでください!」
「はっはっはっ。みょうじは可愛いな!」

 悪びれる様子は一切なく、煉獄さんは楽しそうに笑った。会社では一度も見たことがない無邪気な笑顔と、さらりと発せられた“可愛い”という言葉に、途端に怒る気が失せてしまう。我ながらなんて単純なのだろうと、私は肩を竦めた。
 エントランスホールを抜け、正面玄関から外へ出ると、冬の匂いと共に、昨日よりも冷えた風が私の頬を掠めた。隣を並んで歩く煉獄さんも、冷たい空気に少しだけ目を細めていた。
 ふうー、と息を吐き、白く染まっては消えていくそれを目で追って楽しんでいると、唐突に煉獄さんの左手が私の右手を掴み取った。そのまま指を絡められ、ぎゅう、と優しく握られる。

「!!!」
「今日は本当に冷えるな」
「……煉獄さん、こ、これはちょっと」
「? いけないのか?」

 「良いだろう、恋人なのだから」と、煉獄さんは朝と同じように悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言った。
 何か反論をしなければと思っても、思うだけで言葉が出てこない。ドキドキと乱れる鼓動を誤魔化すように、咳払いをするので精一杯だった。
 どうしてだろう。昨日まではあんなに「中途半端な気持ちのまま、この人と付き合うのは嫌だ」と、そう思っていたのに。今は嫌だと感じるどころか、こうして手を引いてどこかへ連れて行ってくれることで、救われるとすら思い始めている。
 今まで経験したことのないようなアプローチを受けて、絆されているからなのか。それとも、煉獄さんの翳りのない性格が私の寂しさを紛らわせてくれるからなのか。……どちらにせよ、煉獄さんの好意と優しさに甘えようとしている私自身が、浅ましいということに変わりはない。
 自嘲気味に笑みを浮かべて、下を向く。そんな私の様子に気が付いたのかはわからないが、繋いだ手に力が込められるのを感じた。

「腹が減ったな」
「……。そうですね」
「今日はたくさん食べると良い。うまいものを食べれば、うつむいた心も多少は元気になる」

 優しさで溢れた煉獄さんの声が静かに鼓膜を震わせて、私は少しだけ、泣き出してしまいそうになった。


Title by 依存
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