散らばった資料を避けるようにしてデスクの端っこに置いたコーヒーを、ぼーっと見つめる。先ほどから手指はパソコンのキーボードの上から動かなくなっているし、回付しなければならない資料も手付かずのままだった。お昼休憩から戻ったものの、午後の私は明らかに仕事に集中できていない。
 煉獄さんから告げられた言葉が、私の脳内をぐるぐると巡り、一字一句消えることなく頭から離れない。

「俺と付き合おう!」
「急ではない。君に恋人がいたから伝えられなかっただけだからな!」


 急ではない……? 先ほどの煉獄さんの言葉を思い起こし、私は首を傾げる。私からしてみれば、「突発的にも程があるだろう」と叫びたい程度には、急な出来事なのだが。
 普段、仕事の関係で接する際にも、煉獄さんの言動にはどこか予測不可能な面があるように感じられたけれど、まさかあそこまで突拍子もない発言をする人だとは……。
 それとも、私が鈍いだけなのだろうか。
 だって、煉獄さんのあの言い方からすると、つまり彼は以前から、私のことを、すき、だったという意味にも捉えられる。
 しかし、そこまで考えて、私はふるふると首を振った。自意識過剰になりすぎるのも良くないと、自分自身を落ち着かせる。

「なまえちゃん、さっきからずっと眉間に皺が寄っているけれど、どうしたの?」
「あ、蜜璃ちゃん」
「深刻そうに考え事してたから、声をかけるか迷ったんだけど……どんどん皺が深くなるから、心配になって」
「え……、そ、それはお見苦しい姿を……」

 同期の蜜璃ちゃんが、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。心優しい彼女の綺麗な瞳が視界に入り、私はやっとのことで、どっぷりと浸かっていた思考の沼から引き戻された。
 「疲れているの? 大丈夫? 甘いもの食べる?」と、蜜璃ちゃんが私のデスクの上に、薄紙で包まれた桜餅をこそっと置いた。甘いものが好きな彼女らしい気遣いが嬉しくて、自然と頬が緩む。
 ありがとうとお礼を伝えて、桜餅を手に取る。包装紙越しにふんわりと香る、和菓子の甘い匂いが鼻先をかすめたその瞬間、私は閃いた。

「ねぇ蜜璃ちゃん。マーケティング部の煉獄さんって、好きな人とかいるのかな」
「ええっ?! 煉獄さん?!」
「しーっ! 本人に! 聞こえる!!」

 ひそひそと尋ねた私の小さな声に相反して、蜜璃ちゃんの大きな声がフロア内に響く。慌てて制止を掛けたが、既に何人かの社員がチラチラとこちらに目を向けていた。
 私はすぐさま立ち上がり、フロア全体を見渡すようにして、話題の本人の所在を確認する。幸いにも、あの獅子ような派手な髪色は見当たらなかった。
 ほっと胸を撫で下ろして、私は再び自席の椅子に腰を下ろす。そのまま蜜璃ちゃんのほうへと向き直り、口元で人差し指を立てて見せる。すると蜜璃ちゃんはうんうんと頷いて、声量を抑えながら、にこやかに話を続けた。

「なまえちゃんの口から煉獄さんのことを探るような台詞が出てくるなんて……。なんだかとっても違和感を感じるわ……!」
「うん、だよね。私もそう思う」

 過去の談笑から私の『好みの異性のタイプ』をそれとなく把握している蜜璃ちゃんからすれば、私が煉獄さんの好きな人を気にするだなんて、それこそ予想外のことだろう。何せ私の好みのタイプと煉獄さんとでは、イメージがかけ離れている。
 社内の恋愛事情に詳しい蜜璃ちゃんであれば、何かしら煉獄さんの色恋に関する噂話を知っているのではないか。私はそう考え浮かんだ。
 しかし、彼女はうーんと暫し考えた後、言葉を詰まらせるだけで、めぼしい情報は持ち合わせていない様子だった。

「私は色っぽい話は聞いたことないなぁ……。あ、でも、女子社員の中には彼を狙っている人もいるみたい」
「へー……そうなんだ」
「なまえちゃん、煉獄さんのことが気になるの? 彼氏さんと喧嘩でもしちゃった……?」

 またもや心配そうな表情を浮かべる蜜璃ちゃんに、ずきりと胸が痛む。ああ、またその話題を自ら引き寄せてしまった。
 ここは正直に別れたことを報告すべきタイミングだと、頭では理解している。けれど、報告してしまえば優しい蜜璃ちゃんのことだから、さらに私のことを気にかけてくれるに違いない。私を励ます為にあれこれ考えて、目一杯気を遣ってくれる蜜璃ちゃんの姿が、容易く想像できてしまう。できれば彼女にそんなことをさせたくはない。
 蜜璃ちゃんに元カレと別れたことを報告するのは、私自身がもう少し立ち直ってからにしよう。立ち直ってからであれば、きっと心配をかけることもなく、何なら笑い話にだってすることができるはずだ。

「喧嘩、ではないかな? だから大丈夫」
「本当?」
「うん。さっき休憩中に煉獄さんに会ってね、そういえば男前なのに浮ついた話聞かないなーって、ふと思っただけ」
「そっかぁ……よかった。なまえちゃん、最近元気がないように見えたから。心配してたの」
「!」
「何かあったら言ってね。話すだけでも楽になれることってあると思うし……私で良ければ何だって聞くんだから!」
「ふふっ。……ありがとう。すごく嬉しい」

 煉獄さんに言われたことと同じような言葉が、蜜璃ちゃんの口からも発せられる。
 彼女の目にも、近頃の私の様子は、いつもとは違う印象で映っていたのだろうか。申し訳ないことをしてしまったという気持ちと、ちょっとした様子の変化に気付くくらい、自分のことを見ていてくれている人がいるという嬉しさが重なり合って、何とも言えない感情になる。
 蜜璃ちゃんの眩しいくらいの笑顔と思いやりに、心からの感謝を告げて、私はすっかり滞ってしまっていた業務を再開する。仲の良い同期との会話のおかげで、いつの間にか少しの冷静さを取り戻せていたようだ。

 事情通の蜜璃ちゃんが、煉獄さんの“そういった話”を聞いたことがないのであれば、少なからず『私が鈍感であるが故に彼の気持ちに気付けなかった』……ということはない、と思う。それに、煉獄さんが以前から私のことを好きでいてくれたと仮定するには、これまでの煉獄さんの私に対する言動は、あまりにも自然で普通すぎる。
 まずは先ほどの「付き合おう」という言葉の真意を煉獄さんから聞き出して、詳しい話を聞いてみよう。その上で、丁重にお断りしよう。うん、そうするべきだ。そうでないと、煉獄さんに失礼だ。
 私はひとり意志を固めると、定時までに仕事を片付けるべく、パソコンの画面と向き合った。

 そのように決めたとなれば、煉獄さんと業務外で、しかも割と繊細な類の話をしなければならない。その状況を想像するだけで、一度は落ち着いたはずの心拍数が再び上がっていく。
 早まる鼓動を誤魔化すように、私は蜜璃ちゃんから貰った桜餅を口に含み、続けて煉獄さんに買ってもらったコーヒーに口を付けた。意外にも、なかなか悪くない組み合わせである。


Title by 英雄
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