今にもバチバチと電撃の如く激しい効果音が鳴り響きそうな剣幕で、互いに睨みを利かせる二人。
 そんな二人に交互に目を向けながら、この状況をどのようにやり過ごすのが正解なのかと考えあぐねて、私は深く溜め息をついた。

◇ ◇ ◇

 先週末、私と煉獄さんは初めてのデートを楽しんだ。それからというもの、週を跨いだ後も、私たち二人は仕事帰りによく寄り道をするようになった。
 美味しいお酒を探し求めて飲みに行ったり、お互いに気になっていた映画を観に行ったり、新しくできたブックカフェに入り浸り、閉店まで本を読み漁ったり……と、日を重ねるごとに二人で過ごす時間が増えていっているような気がする。
 相も変わらず仕事は忙しく、疲れ切ってフラフラになりながら帰路に着く日もある。けれど、それでも確実に、煉獄さんとお付き合いする前より、私の心は健やかでいられるようになったと思う。それに、自分でも驚くほどよく笑えるようになったし、以前のように、友人や同僚との会話を楽しいと感じられるようにもなった。こんなに和やかな気持ちで日々を過ごせるようになったのも、全ては煉獄さんのおかげだ。
 煉獄さんを見習って、前向きな気持ちのまま毎日を過ごしていれば、きっとすぐに元カレのことも忘れられるはず。――そんなことを考えながら、今日も私は晴れやかな気分で会社への道のりを歩いていく。
 オフィスへ足を踏み入れる直前のところで、よし、今日も一日頑張ろう! と意気込みを表し、ひとり片手でガッツポーズを作った矢先のこと。その男は、朝一で突然我が社へやってきた。

「あっ。なまえちゃーん」
「げっ」

 出鼻をくじかれるというのは、今この時のような場面のことを言うのだろうか。
 オフィスの入口で私のことを見つけるや否や、弾んだ声で私の名を呼び、こちらに向けて掲げた右手をヒラヒラと振って見せる男の姿。その姿を視界に捉えた瞬間、反射的に自分の顔が歪むのがわかった。
 しかし、仮にも当社の取引先の営業担当を前に、そんな“あからさまな表情”を曝け出し続けるわけにもいかず、私は咄嗟に唇を固く結んで、平静を装う。
 社内で声をかけられてしまった以上、スルーすることはできない。私は慌てて男のもとへ歩み寄り、「いつもお世話になっております」と早口で形だけの挨拶を述べると、そそくさと社内の応接室へ男を誘導した。

 パタン、と応接室の扉が閉まる音が響く。耳を澄ませて周囲に他の社員の気配が無いことを確認してから、私は静かに息を吐き出した。男はそんな私の様子を不思議そうに見つめて、小さく首を傾げている。
 しばらく対面していなかったはずなのに、男の背格好も、些細な仕草すらも、“よく見慣れたもの”として即座に認識してしまうのは、これまで私と彼が一緒に過ごした時の長さを考えれば、当然のことなのかもしれない。そんなことを考えながら、私は改めて男のほうへと視線を移す。

「そんな嫌そうな顔しないでよ」

 私の心の内を知ってか知らずか、凛々しい眉を八の字に下げ、困ったような、曖昧な笑顔を浮かべる男。キラキラと眩しく輝く金色の髪――その前髪の隙間から覗く双眼は、息を呑むほど美しい虹色を宿している。多くの人は彼のその瞳を見ては「美しい」と賛美するけれど、今の私にも“そう見えるか”と問われると、正直、微妙なところである。
 腹が立つほど無駄なく引き締まった彼の長い脚は、相変わらずスーツ姿によく映えている。男の顔から目を逸らすようにして、その足元をじっと見つめていると、気まずそうな空気を醸し出す私のことなんてお構いなしの様子で、彼は遠慮なくずかずかとこちらに歩み寄ってくる。
 手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近付いてきた男から、ほのかに香るオードパルファムの匂い。『香りは時に記憶を蘇らせる』という、所謂プルースト効果とはどうやら本当に存在するようで、彼が愛用する香りが鼻先を掠めた途端に、鮮明に過去の記憶が浮かび上がった。
 私の心臓が、どくん、と鈍い音を立てる。

「会いたかったよ、なまえちゃん」

 優しく甘やかしてくれるような彼の声は、私と別れる以前のそれと全く変わっていない。

「童磨、さん。お久しぶりです」

 引き攣る頬を無理矢理抑えながら、私は敢えて敬称を付けて元恋人の名を口にする。その名を声に出して呼ぶこと自体、久々のことだからなのか、何だか妙な気まずさを感じた。
 小さく会釈をしてから、ちらりと彼――童磨の顔に視線を向ける。人当たりの良さそうな表情も、他人に警戒心を与えにくい穏やかな雰囲気も、何も変わっていない。神様から賜った端正な顔立ちをこちらに向け、優しく微笑む童磨の姿に、意識せずとも胸が苦しくなるのを感じる。
 悔しいけれど、やっぱりこの人は良い男だ。――私の大好きだった人、だ。

「元気だった?」
「……元気、と言えば元気だったけど」
「そっか、良かった。なまえちゃん、見事にラインも電話も無視してくれちゃってさ。酷いよなぁ」

 童磨はそう言って肩を竦めて見せる。本気で言っているのか、はたまた冗談で言っているのか区別がつかない「酷い」という言葉。その言葉に苛立ちを覚えた私は、自分よりもずっと大きな背丈を見上げて、キッと彼の顔を睨みつける。
 酷いのはどちらだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに愛想のない声色で「本日のご用件は?」と来訪の理由について訊ねる。私たち二人の問題はさておき、童磨が朝一でうちの会社にやって来たということは、仕事絡みの用件があっての来訪なのだろう。であれば、下手に突っ掛かって二人きりの時間を長引かせるよりも、用件を聞き取ってとっととこの場を立ち去るほうが賢明だ。
 ところが、まるで私の目論見を見透かしているかのように、童磨は人差し指を私の口元に当てて、私の言葉を遮った。指先が触れた唇から微かに彼の体温が伝わってきて、思わずその一点に意識を集中させてしまう。

「ねぇ、なまえちゃんは、なんで俺からの連絡を無視するの?」
「……っ」
「君の口から理由が聞きたい」
「……付き合っている人がいるからもう連絡しないって、この間ラインで送ったでしょ」
「うーん、まず俺はそこに納得していないんだよね」
「別に、貴方に納得してもらわなくたって結構です。この話はこれでお終いね」
「俺は君と別れるつもりなんてなかったのに」
「……童磨、さん。ここは仕事場ですよ。プライベートなお話は、」
「仕事が終わってからなら、俺とお話してくれるのかな?」

 びり、と空気が揺れる気配がした。
 つい先ほどまで穏やかだったはずの童磨の雰囲気が、がらりと一変した。有無を言わせぬ気迫を纏い、私の言葉を待つことなく、被せるようにして問いを投げかけてくる。
 唇に触れていた指が、私の輪郭をなぞるように下降してゆく。肌を撫でながら移動した指先が、今度は顎を掴んだかと思えば、童磨は私の顔を上方に傾かせた。
 半ば強制的に彼の顔を見上げさせられ、視線と視線が絡み合う。視線のすぐ先にある童磨の顔は、笑みを浮かべているはずなのに、虹色を宿した目だけが全く笑っていない。
 『普段穏やかで優しい人ほど、激情を露わにした時の迫力は倍増する』――以前、誰かがそんな話をしていたことを思い出した。目の前の男が抱くものが果たして激情と呼べるものなのか、私には判断がつかないけれど、どちらにせよこの雰囲気は怖いよなぁなんて、まるで他人事のように思った。
 同時に、以前、恋人である私に向かって「お互いにもっと魅力を感じられる相手がいるのではないか」なんて酷いことを言っておきながら、今になってここまで執着を見せる意味がわからない、とも思った。

「……いいから」
「ん?」
「いいから、早く用件を教えて。誰と約束をしてここへ来たの」
「えぇー。今のこの状況で、なまえちゃんはまだ俺の質問を無視するの?」

 童磨は目を丸くすると、「すごいなぁ」と感心したように呟いた。
 彼が放つ重苦しい圧力にも、背丈があり、力もありそうなその図体にも、怯んではいけない。だって、今の私には煉獄さんがいるのだから。あんなに真っ直ぐで、誠実に私と向き合ってくれている煉獄さんに誤解されるような行いなんて、したくない。
 いい加減、揺らぐ気持ちに区切りをつけて、『童磨はもう過去の人だ』と自分自身に強く言い聞かせなければ、私はいつまで経っても過去に囚われ続けることになってしまう。

「何と言われても、私から貴方に伝えることはありません」
「ふーん、そう。悲しいなぁ。4年も一緒にいたのにね」
「…………」
「俺は、今でもなまえちゃんのことが大好きなんだぜ。毎日のようになまえちゃんのことを考えては、胸が苦しくなっているよ」
「……っじゃあ何で、」

 あんなことを言ったの。そう続けようとしたのに、できなかった。瞼を下げ、力なく笑う童磨の悲しそうな表情が目に映り、途端に言葉が出てこなくなる。
 実際に対面してしまえば、このような会話に発展するであろうことは想像に難くなかった。だからこそ、できればもう童磨には会いたくないと思っていたのだ。しかし、そのように思う一方で、本当はもっと彼と話し合うべきなのではないかと、そんな馬鹿みたいな思考を巡らせようとする自分がいる。
 この数週間のうちに、あらかた整理整頓を終えたと思っていた頭の中が、再びごちゃごちゃと散らかっていく――そんな感覚に襲われる。惑いが五感を支配していく中、冷や汗が首筋を伝う感触だけが、やけに鮮明に感じられた。
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