金曜日の終業後、煉獄さんから週末デートのお誘いを受けた。
 宇髄さんが私の元カレの話なんかを不用意に口に出すものだから、あの後、私と煉獄さんの間には『何だかよくわからないけれどお互いに深く踏み込まないほうが良いのではないかと遠慮し合っているような微妙な空気』が漂ってしまっていた。
 だから、煉獄さんがいつもの態度でデートに誘ってくれた時は、正直ほっとした。
 以降、元カレの詳細について、煉獄さんからの言及は特にない。もしかしたら煉獄さんは私に直接聞くことを躊躇っていて、後になってラインか何かで問い詰められるのでは……なんて嫌な想像をしてしまったりもしたけれど、ドがつくほど直球な煉獄さんに限って、そのような聞き方をしてくることなどあるはずもなく。付き合い始めたばかりで煉獄さんのことを完璧に知ることができていないとは言え、少なくともこの一週間は驚くほど誠実に接してくれていた人に対し、大変失礼な想像をしてしまったと、私は猛省した。
 直接のみならずメッセージツールやSNSをも駆使して問い詰めてくるなんて、それこそ“あの男”でもあるまいし……と考える。不本意ながらまたもや元カレのことを思い出してしまった私は、思わず口元を歪めた。

(煉獄さんとのデート中に、何が悲しくて奴の顔を思い出さなきゃいけないのよ……!)

 雑念を掻き消すように、ぶんぶんと勢いよく頭を振る。今はそんなことを考えている場合ではない。
 隣を歩く煉獄さんを横目で盗み見ると、周囲を行き交う沢山の人々には目もくれず、真っ直ぐ正面を向いて歩いている。その凛々しい横顔に、不覚にもどきりと胸が高鳴る。

 今日は煉獄さんと二人で過ごす、初めての週末。コーヒーが好きな私の為にと、表参道にある美味しいコーヒーが自慢のお店に連れて行ってくれるらしい。
 表参道なんて久しぶりに行くし、一応初めての休日デートなのだからと、今日の私は自然と気合が入ってしまっていた。もういい大人なのだから、本当はもっと余裕を持って臨みたいというのが本音だけれど、何歳になっても初デートというものには心が浮き立ってしまう。
 今朝は、久しぶりに気を遣って服を選んだように思う。メイクをする時だって、出社前に使っている化粧品たちにはほとんど手を伸ばすことなく、代わりにシアーな質感をしたお気に入りのアイシャドウをメイクポーチの奥から引っ張り出してきたりもして。煉獄さんならもしかしたら褒めてくれるかな……なんて勝手な妄想を膨らませながら、姿見に映る自分の姿を再三確認していたことを思い出し、図らずも赤面しそうになる。とにかく、今日の私は少々浮かれ気味なのだ。

 けれど、私が心を弾ませている一方で、今日の煉獄さんはどこか上の空である。

「さすが休日、人が多いですね」
「…………」
「煉獄さん?」
「! どうした?」

 彼の名を呼び掛けたことで、ようやく煉獄さんはこちらを向いた。普段と変わりない太陽のような瞳に自分の姿が映り、私はほっと安心する。
 煉獄さんは決して私の言葉を無視をしていたというわけではなく、本当に『耳に入っていなかった』という様子に見えた。

「良かった。やっとこっち向いてくれた」
「!! すまない。少し考え事をしていて――」

 煉獄さんはその場で立ち止まると、慌てた様子で身体ごとこちらへ向き直る。
 「やっとこっちを……」なんて意地悪な言い方をしてしまった私も悪いのだが、勢いよくこちらへ向き直った煉獄さんがあまりに動揺しているものだから、ついつい笑みをこぼしてしまう。これまで私のほうを向いてくれなかったからといって、そんな立ち止まってまで向き直ってくれなくたって良いのに……と思いながらも、煉獄さんの誠実さが垣間見えるその反応に、なんだか無性に愛おしさを覚えた。
 くすくすと笑い続ける私の意図が読めず困惑しているのか、煉獄さんは訴えかけるように私の右肩に手を伸ばす。しかし、その手は躊躇うように、肩に触れる寸前のところでピタリと止まった。

「――っ、」
「わ、……な、何ですか。何で固まってるんですか」
「いや、その」
「……煉獄さんが考え事をしていたことなら、別に怒っていませんからね」
「そうか、それは良かった! …………と、そうではなくてだな」

 煉獄さんは伸ばした手を遠慮がちに引き戻すと、ほんのり赤く染まった顔を誤魔化すかのように、口元を手で覆った。

「会社で会う時よりも雰囲気が華やかなものだから、触れて良いものなのかと躊躇ってしまった」
「え゛っ」
「その服、とても似合っている!」

 不意打ちの如く装いを褒められて、思わず変な声が漏れる。煉獄さんが顔を赤らめているところなんて、初めて見た。
 そんな煉獄さんの表情を目にした途端に、恥ずかしさと嬉しさが綯い交ぜになったような感情が込み上げてくる。今朝の妄想が現実となったとも言えるこの状況に、私は両手で顔面を覆い隠し「ありがとうございます……」と小さな声でお礼を言うことしかできなかった。

「目当ての店は、もうすぐ近くだ。おいで」

 顔を覆い隠していた私の手を、今度は躊躇うことなく掴み取り、そのまま手を引いて歩き出す煉獄さん。されるがままに、私は煉獄さんの半歩後ろをついて行く。
 そこで私は、ほんの少しの違和感を覚えた。風に靡く煉獄さんの後ろ髪を見つめながら、ひとり首を傾げる。
 煉獄さんが私に掛けた言葉はいつものように真っ直ぐで優しくて、どれも本心から出た言葉だということは伝わってくるのだけれど、やっぱり今日の煉獄さんはどこか引っ掛かる。何と言うか、私との会話に集中していないような気がしてならない。
 目的のお店までの道中、私はずっと妙な違和感を拭えないまま、悶々としながら歩を進めていた。

◇ ◇ ◇

 煉獄さんが連れてきてくれたお店は、大通りから少し外れたカフェ。細い道路に面した路面店で、オープンテラスの席が数席あるようだ。
 店内はバスウッドのような明るめの木材と、重厚感のある石畳を基調とした、現代的でお洒落なデザインで統一されている。道路に面する壁はほとんどガラス張りで、店内の落ち着いたライトの光と、外から店内に差し込む光が良い具合に重なり合って、温かみを感じられる。
 自家焙煎の豆を、独自の比率で配合しているブレンドコーヒーが自慢のメニューとのことで、二人でそれを注文する。少ししてからテーブルに運ばれてきたそのコーヒーは、鼻腔が喜ぶような良い香りで、何よりびっくりするほど美味しかった。あまりの美味しさに、私は感動を露わにせずにはいられなかった。

「お、美味しい……!!」
「うむ、うまい!」

 コーヒーカップを両手で包み込み、中で揺れるコーヒーをまじまじと見つめる。見た目は何の変哲もないコーヒーなのに、何故ここまで違うのかと、不思議に思えて仕方がない。私自身、とってもコーヒーに詳しいというわけではないけれど、本当に奥が深い飲み物なのだなぁ……と感心する。
 またもや美味しい飲食店に連れて来てくれた煉獄さんに、改めてお礼を伝える。

「喜んでもらえて良かった」

 煉獄さんはそう言って、笑みを浮かべて見せた。
 ――けれど、やっぱりおかしい。対面する席に座ったおかげで、正面から煉獄さんの様子を観察できるようになった私は、その違和感が自分の気のせいではないことを確信する。
 試しに、話題を変えながら煉獄さんにいくつか話を振ってみる。すると、最初のうちはしっかりと意思のある回答が返ってくるのだが、話を続けていくうちに段々と口数が減り、ところどころ「ああ」「そうだな」といった空返事が返ってくるようになった。
 これはおかしい。明らかにおかしい。自分からデートに誘ってくれた煉獄さんが、意味もなくこのような態度をとるわけがない。

「…………」
「煉獄さん」
「…………」
「煉獄さん?」
「…………」
「煉獄さんったら! 私の声聞こえてます?!」
「むっ」

 3回目の呼び掛けで、ようやく煉獄さんははっと視線を上げた。そして、再び上の空となっていたことを自覚したのか、申し訳なさそうな表情で「すまない」と呟いた。そんな煉獄さんの謝罪に対し、私は言葉を返すことなく、黙って煉獄さんのことを見つめる。
 煉獄さんの違和感については、勿論心当たりがあった。だって、この一週間で煉獄さんの様子が変わるような“何か”があったとするなら、どう考えたって『あの時』しかないのだから。

「もう、まどろっこしいので単刀直入に聞きますね。煉獄さん、気になってるんでしょ。あの話」
「……あの話とは何のことだ?」
「いやいや、あの話ですよ! 宇髄さんが言っていた、私の元カレの話!」
「!」

 私がドン、と片手の拳をテーブルの上に乗せると同時に、煉獄さんはぴくりと肩を揺らした。
 できれば自分から話題にすることは避けたかった、この話。でも、とっくに終わった関係性の男の存在を気にして煉獄さんとぎくしゃくしてしまうことのほうが、もっと嫌だと思った。
 私の問いに煉獄さんは否定も肯定もしなかったけれど、それが答えのようなものだろう。ずい、と前方へ身を乗り出して煉獄さんとの距離を詰め、真正面からその視線を捕らえる。そして答えを促すように、私は語気を強めてもう一度問いかけた。

「さっき言っていた“考え事”って、そのことですよね?」
「む……」
「私の予想は当たっていますか?」
「……驚いた。君は鋭いな」
「何言ってるんですか。私じゃなくてもわかるくらい、違和感がありましたよ」
「そうか。俺もまだまだ甘いな!」
「もう、気になるなら聞いてくださいよ!」

 やはり、私の読みは当たっていたようだ。張り詰めた糸が緩んでゆくかのように、煉獄さんの表情が和らぐ。
 煉獄さんはふう、と一呼吸置くと、手元のコーヒーに口を付ける。私が相変わらず身を乗り出したままその動作を見つめていると、圧を感じたのか、煉獄さんは「みょうじがその話題を避けていたように見えたから、早々に俺から切り出すのもどうかと思ったんだ」と困ったように笑った。
 煉獄さんは少々押しが強いところもあるけれど、自己中心的な意思や意見を強引に押し通そうとするのではなく、こうして相手の心を汲み取ろうとしてくれて、その上で踏み込んで来てくれる。だからこそ、私からも煉獄さんに歩み寄らなければならないと思った。

「私も、自分から切り出すのはどうかと思ってしまっていたんです。でも、それが却って裏目に出てしまったのかもしれません。気にさせてしまってごめんなさい」
「謝らないでくれ。俺は最初から気にするつもりなど毛頭なかった。のだが」
「だが?」
「取引先の企業に勤める男だとは、考えも及ばなくてな。よもやよもやだ!」
「そうですよね。隠していたつもりはないのですが……」

 わざわざ伝える必要がある話なのか、なかなか判断もつかず……と言葉を濁していると、煉獄さんは「わかっている」と言って私の台詞を遮った。
 恋人の過去が全く気にならない人なんて、きっと少数派なのではないだろうか。だからと言って自ら探りを入れたり、逆に自分から明け透けに過去を曝け出すことをしても、恋人との関係が良い方向へ向かうとは限らない。私も、煉獄さんも、心の奥底にそのような考えがあったからこそ、互いに踏み止まってしまっていたようだ。

「ただ、意図せずとはいえ君がまたその男と対面するかもしれないと思うと、良い気はしないというのが本音ではある」
「……ご、ごめんなさい? ……いや、そこに関して私は悪くないな」

 仕事場で元カレと私が対面する可能性については、不可抗力だからどうしようもないよな……と頭を捻る。私が言わんとすることが伝わったのか、煉獄さんは同意せざるを得ないといった様子で、首を数回縦に振った。
 「そこは素直に納得してくれるんですね」と思わず笑みをこぼすと、つられたように煉獄さんも笑みをこぼした。

「まぁ、どうせ未練は断ち切らせるつもりだ。例えその男が目の前に現れようと、俺はみょうじのことしか考えないようにしようと思う!」
「そ、それはどういう……?」
「俺が大切にしたいものは、君の過去よりも、君との未来だからな」
「あ、……ふふっ。いつもそんなふうに考えてくれて、ありがとうございます」

 至極真面目な表情で決意を表明する煉獄さんに、自然と顔がほころぶ。
 いつだって前向きで、明るい言葉を投げかけてくれる煉獄さん。意を決して元カレの話題に触れて良かったと、そう思わせてくれるほどの彼の器の大きさに、私は何度救われるのだろう。救われる度に胸が熱くなるようなこの感情を、何と呼ぶべきなのだろう。

「うむ! 考え事が解決したら、途端に腹が減ってきた!」

 疑問の答えを求めてぐるぐると思考をめぐらせていたところで、不意に煉獄さんが声を上げる。ちらりと店内の時計に目を向け、針の位置を確認すると、いつの間にか結構な時間が経過していることがわかった。
 そう言えば、私も安心した途端にお腹が空いてきたような気がする。

「あっ。それなら、この後ご飯でもどうですか? 実は行ってみたいお店があって……ハンバーグが美味しいらしいんですけど」
「ハンバーグか! 良いな!」
「やった! じゃあ行きましょう。先日のお礼を兼ねて、食事は私がご馳走します!」
「むう……それは……」
「ここのお代も出してくれたんですから、一食分くらい良いじゃないですか。ねっ」

 残ったコーヒーを飲み干し、空になったカップをテーブルの端に寄せて、席を立つ。
 煉獄さんはまだ何か反論したそうな様子だったが、その言葉を遮るように、今度は私から彼の手を取る。煉獄さんは一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにいつもの表情に戻って、手を引かれるがまま私の隣に並んでくれた。
 「ありがとうございました」と店員さんが見送ってくれる中、店を後にする。美味しかったからまた来たいな……とぼんやり考えていたタイミングで、煉獄さんが「二人でまた来よう」なんて言うものだから、反射的に首を大きく縦に振る。再び二人でこの店を訪れる未来を、煉獄さんが当たり前のように考えてくれていることが、何だかとても嬉しかった。

 ――この時の私は、浮かれていたということもあり、煉獄さんと元カレが実際に対峙するさまを想像することができていなかった。
 ましてや、まさかこの後そう時間を置かずに煉獄さんと元カレが対峙することになるなんて、思ってもみなかったのである。


Title by 草臥れた愛で良ければ
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