纏わりつくような暑さは、今日も相変わらず続いている。とっぷりと暮れた後でも気温は昼間とそこまで変わらず、まるで昼と夜とで空の色だけが入れ替わったかのような、そんな感覚だった。
 ほんのりと色付くように化粧を施した頬を、そっと風が撫でてゆく。それは虫の鳴き声とともに夏の夜を連れてきてくれているのか、すんと鼻を鳴らすだけで、この季節特有の湿度を孕んだ地面の匂いが嗅覚いっぱいに広がった。

『少し早く着いてしまった』

 ぴこん、と通知音が耳に入り、巾着入りの竹籠のバッグからスマートフォンを取り出して見てみる。ロック画面には、彼からのメッセージが映し出されていた。
 アプリを開いて全文を見てみると、『待ち合わせ場所で待っているから、慌てずにゆっくりおいで』と続けられている。学校の教師を勤めている彼らしいその文面に、思わずくすりと笑みがこぼれた。
 からん、ころんと軽やかで心地の良い音を立てながら、舗装されたコンクリートの道を弾くように歩く。桐の下駄は思っていたよりも歩きやすく、奮発してちょっと高めの物を購入して良かったなぁ、なんて思った。
 フサザキスイセンの花が咲こぼれるかのような絵柄の浴衣は、ほとんど一目惚れして選んだようなものだった。桜の花や紫陽花など、鮮やかで華やかな柄の浴衣も素敵だと思ったけれど、スイセンの凛とした雰囲気が、彼の隣に並ぶ自分をきりりと引き締めてくれるような気がして、気付けばこの柄を選んでいた。
 彼と付き合い始めて、まだ日が浅いからだろうか。浴衣の選定に限ったことではなく、こういったイベントの時くらいは、普段よりも綺麗な姿を見せたいと、どうしても張り切ってしまう自分がいる。

 そう、今日は待ちに待った夏祭りの日。彼と一緒に回る、初めてのお祭り。
 普段は忙しい彼が「久々にゆっくり時間がとれるから」と誘ってくれたこの日を、私は心待ちにしていた。

(杏寿郎さんに褒めてもらえますように)

 身に纏う浴衣を改めて見下ろしながら浮かんだ思いは、まさに乙女のそれである。
 いい大人が乙女を自称するというのも照れ臭さがあるけれど、それが彼に対する正直な思いであることに間違いはないのだから、自分の気持ちに嘘はつかないことにする。むしろ、自分の気持ちを誤魔化すことのほうが、ナンセンスというものだ。
 ふんふんと小さく鼻歌を歌いながら駅からの道のりを歩いていくと、街の中心部に向かうにつれて往来する人は増え、路上に建ち並ぶ屋台がぽつりぽつりと増えてゆく。かき氷やらフランクフルトやら、派手な色合いのどでかい文字が印字されたのぼり旗を目にする度に、幼少の頃に抱いたような“わくわくとした感情”が湧き上がってくるようだった。
 屋台の列を眺めながら、人の流れに沿って道路を進んでいくと、あっという間に大きな通りへ出ることができた。小道から一歩外れただけで一段と喧騒は大きくなり、それに比例するかのように、所々に設置されたスピーカーから鳴り響くBGMも大きくなっていく。

(杏寿郎さん、どの辺りにいるんだろう)

 予め杏寿郎さんと決めていた待ち合わせ場所に辿り着いた私は、きょろきょろと周辺を見回す。キラキラと輝く銀杏いちょう色の髪をした男性を探してみるけれど、辺りは私と同じように待ち合わせをしている様子の人々で溢れ返っており、すぐに杏寿郎さんを見つけることは難しそうに思えた。
 しょうがない、電話してみよう。そう思ってスマートフォンを取り出すべくバッグの中を漁っていると、一瞬、視界の端にチラリと見慣れた色の頭髪が飛び込んできたような気がして、慌てて顔を上げる。
 すると、屋台の灯りよりも一際目立つ、街灯を模した紅色の大きなオブジェの袂で、腕を組んで立っている杏寿郎さんの姿が目に入った。

(わ! か、かっこいい……! ――ん?)

 濃灰色のうかいしょくの生地に、がただろうか――涼しげでシンプルな柄の浴衣が、はっきりとした顔立ちの杏寿郎さんによく似合っている。襟から覗く首元は遠目から見てもわかるほどにくっきりと筋が立っていて、その色めいた男らしさに、自身の顔面が沸き立つような勢いで熱くなるのを感じた。
 私の彼氏はあんなにも格好良いのか……としみじみ思いながら見惚れていると、杏寿郎さんのすぐ側で、楽しげに笑う二人組の女性が目に入る。
 たまたま近くで待ち合わせをしている赤の他人かと思いきや、よく見てみると、何やら女性たちは親しげに杏寿郎さんに向かって話し掛けている様子だった。
 え? え? と困惑しつつ、人混みに紛れながらそろそろと杏寿郎さんのもとへ近寄って、耳を凝らしてみる。

「お兄さん、めっちゃかっこいいねー」
「一人なの? あたし達、女だけで来てるんだけどさあ。一緒に回らない?」

 杏寿郎さんと数メートルの距離まで近付くと、ようやく話し声を聞き取ることができるようになった。
 しかし、傍にいる女性の「一緒に回らない?」という予想だにしない言葉が耳に入り、私はぎょっと目を見開く。

(え゛……?! こ、これはもしや、いわゆる逆ナンというやつ……?!)

 杏寿郎さんに話し掛けている女性たちは、二人とも、ぱっと目を引くような可愛らしい色合いの浴衣に、小麦色の肌と明るめの髪色がよく映えている。同性の私から見ても「美女」としか言いようのない二人組が、冗談交じりとはいえ、楽しそうに笑い声を上げながら杏寿郎さんをお誘いしている様子を目の当たりにして、私は激しく動揺する他なかった。

(ど、どうしよう。これは彼女として私が止めるべきか……?! でもいざ止めるとなると、それはそれで何て言えば良いのかわからない……! “私の彼氏に手を出さないで”?! いやそれはセンスないな!)

 どうにか『それらしい断り文句』を捻り出そうとしても、口に出すにはちょっと恥ずかしいような台詞しか思い浮かばず、自分の想像力のなさに絶句する。
 どうしよう、どうしようと一人動揺しながら頭を抱えていると、不意に強い力で腕を引っ張られ、ぐわりと視界が揺れた。想定外の動力に身構える暇もなかった私は、もたつく足を立て直そうとするだけで精一杯だった。
 腕を引かれるがまま数歩足を進めたところで、とん、と何かが肩に触れて、私の身体は静止した。恐る恐る顔を上げると、きゅっと引き上がった口角がチャームポイントの、杏寿郎さんのお顔が目に入る。

「すまない。気持ちは嬉しいのだが、この子がいるので勘弁してもらえないか」

 私の肩を抱き寄せながら、普段通りの声のトーンで、二人の女性に向かって杏寿郎さんはそう言った。
 理解が追いつかない私は呆然とその様子を眺めていることしかできなかったが、女性たちの「えー残念。彼女いるのかー」という言葉によって、ようやく我に返る。
 自分の腕を引いた人間が杏寿郎さんだということを悟り、同時に、杏寿郎さんが女性たちからの誘いをきちんと断ってくれたということを認識した私は、慌てて背筋を伸ばし、女性たちに向かって深々と頭を下げる。

「ごっ、ごめんなさい! そうなんです、私たち待ち合わせをしていて……」
「なんで彼女さんが謝るのー。あたし達こそ、邪魔しちゃってごめんね!」

 女性たちから返ってきた反応は、思っていたよりもあっさりとしていた。
 頭を下げる私に制止をかけて、「そんなことしないで!」と屈託のない笑みを見せる二人。向けられた笑顔がとても眩しくて、不覚にも、同性である私のほうがときめいてしまいそうになるほどだった。
 良い人達で良かった……と胸を撫で下ろしていると、「じゃああたし達もう行くね」と女性の一人が言った。こちらの返事を待たずに、私と杏寿郎さんにひらひらと手を振りながら、二人は屋台の並ぶ大通りの方向へと向かっていく。
 去り際に「おねーさん、かっこいい彼氏と楽しんでねー」なんて大きな声で言うものだから、周辺の人々の視線がチラチラとこちらに向けられて、注目されることに不慣れな私は、隠れるように身を縮こまらせるのだった。

「では、俺たちも行こう」

 さっき腕を引かれた時よりもずっと優しい手つきで、杏寿郎さんが私の手を握る。杏寿郎さんのどこまでも紳士的な振る舞いに、私は手を引かれながら「好き……!」と心の中で何度も繰り返していた。

◇ ◇ ◇

 少し歩くと、提灯やら投光器やらによって、眩しさを感じるほどに明るく照らされた大通りに辿り着いた。
 夜であることを忘れさせるような賑わいっぷりと、久しぶりに肌で感じる“お祭りの空気”に、自然と気分は高揚していく。

「わあぁ、すごい! 賑わってますね〜!」

 ドンドンと鼓膜を震わせる鼓の音と、風情を感じさせる篠笛の音色を背に、暖色の光を放つ提灯の下、周囲の賑わいを楽しみながら杏寿郎さんと歩き進む。
 ここに来るまでに見たそれとは比べものにならないほどに、ずらりと建ち並ぶ屋台の数々。通りに面した位置に飾られたお面や綿飴を眺めながらはしゃぐ私を見て、杏寿郎さんはくすりと小さく笑みをこぼした。

「祭りにはしゃぐ人の姿というのは、いつ見ても、こちらまで嬉しくなるものだな」

 懐かしむような口調でそう言った杏寿郎さんは、普段よりもずっとやわらかな表情を浮かべていた。その表情を目にして、私はふと、過去の記憶を思い起こす。
 以前、杏寿郎さんの家族の話を聞く機会があった。その時、私は初めて杏寿郎さんに弟がいるということを知った。兄弟のことを話す杏寿郎さんは「素直で心優しい、自慢の弟だ」と笑っていて、実の兄にそんな誇らしそうな顔をさせてしまう弟さんに、いつか私も会ってみたいなぁ……と思ったことを覚えている。

「杏寿郎さん、もしかして、弟さんをお祭りに連れて行ってあげたりしてました?」
「ああ。弟が小さい頃なんかは、よく一緒に来ていた。ヨーヨーを取ってほしいとせがまれたりもしたな」
「あはは、楽しそう。良いお兄さんですね」

 小さな弟を隣に連れて、一生懸命ヨーヨーを取ろうとしている若き杏寿郎さんの姿が頭に浮かぶようだ。傍から見たらさぞ愛らしい兄弟だったのだろうなぁなんて、想像するだけでつい頬が緩んでしまいそうになる。
 杏寿郎さんはというと、当時見た景色と重ねているのだろうか。射的の前で盛り上がっている青年達や、くじ引きをしたいと親にねだる子供を目にする度に、目を細めて笑みを浮かべていた。

「それと、昔、一度だけ教え子を連れてきたことがある」
「えっ、そうなんですか」
「前々から祭りに行ってみたいと、よく騒いでいたからな」

 杏寿郎さんのその発言に、私は一瞬、言葉に詰まってしまった。
 それはつまり、過去にお祭りに行ったことがないと言う生徒の願いを、杏寿郎さんが叶えてあげようとした……ということだろうか。
 確かに、彼だったらそうすることも不思議ではないだろう。普段の業務だって大変そうだし、学校行事やらテスト期間やらで忙しい時期も多いはずだけれど、それでも生徒のためにと時間を割こうとする杏寿郎さんの姿を、私は容易に思い浮かべることができる。杏寿郎さんはそういう人だ。たった一言からでも意思を汲み取って、人のためにと行動できるその姿勢が、杏寿郎さんらしくて素敵だと思った。
 杏寿郎先生と一緒にお祭りに行った教え子は、果たして喜んでくれたのだろうか。――きっと喜んで、心から楽しんでくれたのだと信じたい。密やかな願いを込めて、「その教え子さんも、はしゃいでいましたか?」と杏寿郎さんに問い掛ける。

「ああ! はしゃいでいた! 任務続きだったから、たまには息抜きも必要だと――」
「……任務?」

 杏寿郎さんはハッとした表情を浮かべると、口元を片手で覆い隠した。
 私が聞き慣れない単語に首を傾げていると、杏寿郎さんはふるふると首を左右に振って、自身の発言を訂正する。

「失礼。部活の間違いだ」
「あっ、剣道を教えているって言ってましたもんね」

 以前、そのような会話を交わしたことを思い出した私は、胸の前で両の手のひらを重ね鳴らした。
 剣道まで教わっていたと言うのなら、その教え子というのは、杏寿郎さんとの接点が特段多い子だったのかもしれない。会ったこともない杏寿郎さんの教え子の姿を思い浮かべながら、私はその幻影に『頼りになる先生がいてくれて良かったね』と心の中で笑いかける。
 来し方を振り返るように「あの頃は毎日のように竹刀を振り回して……」と思い出を語る杏寿郎さんの横顔を、そっと横目で盗み見る。お祭りの夜を彩るように飾られた提灯の、やわらかな光に照らされた杏寿郎さんの横顔は、なんだか少し陰りがあるように見えた。

「…………」
「? どうした、なまえ。歩き疲れてしまったか?」
「あ、い、いえ!」

 何故だろう。時折、杏寿郎さんがどこか遠くを見ているような気がしてならない。
 今この時だって、煌々と輝く大きな瞳が映し出しているものは、行き交うたくさんの人たちでもなく、祭りの夜の騒がしい景色でもない。ここからずうっと遥か遠くにある、“私には見ることのできない何か”を映し出しているような――そんな気がしてならないのだ。
 唸るほど考えてみたところで、杏寿郎さんの心の内側を知ることは決して叶わない。他人の心を覗く術なんて、存在するはずもない。そんなこと、もう随分と前からわかり切っているはずだった。それなのに、知りたいという欲はいつまで経っても私に付き纏ってくる。
 「杏寿郎さん、何を考えているの?」――口にしかけた言葉を飲み込んで、もやもやとした感情を振り払うように、半ば強制的に話題を変える。

「それにしても、杏寿郎さんって勇気がありますよね」
「? どういうことだ?」
「さっきの女性二人に声を掛けられていた時、お誘いを断ってくれたでしょう?」

 待ち合わせ場所での出来事を思い出し、毅然とした態度でお誘いを断ってくれたことが素直に嬉しかった私は、改めて杏寿郎さんにお礼を告げる。「すごく嬉しかったんです。ありがとう」とはにかんで見せると、杏寿郎さんは不思議そうな顔をして「当然のことだろう」と言ってのけた。異性からお誘いを受けても、浮つく様子もなく、平然とした態度でノーと言える人が自分の恋人であることは、誇らしいことこの上ない。
 それなのに、私はというと、余計なことばかり考えてしまっている。
 杏寿郎さんが心の内側で何を思っていたとしても、こうして目で見える形で誠意を表してくれていることは間違いないのだから、私はただそれを信じていれば良いだけの話なのに。

「私はどちらかというと、ハッキリ断ったりすることが苦手なほうでして……。毅然とお断りしている杏寿郎さんを見て、すごいなぁって思ったんです」

 疑心暗鬼にも似た感情。その感情を誤魔化すように、私は言葉を続ける。隣から杏寿郎さんの視線を感じたけれど、目を合わせることはできなかった。
 一方的に気まずい空気を作り出したまま、ふと思い浮かんだ疑問を杏寿郎さんに投げ掛ける。

「杏寿郎さんって、怖いものとかあるんですか?」
「怖いもの?」
「はい、ちょっと気になって。杏寿郎さんはいつも堂々としていて、格好良くて、……そんな杏寿郎さんの怖いものが、私には想像がつかないから」

 ふと浮かんだとは言え、それは心から抱いた疑問だった。
 思えば、私はまだ杏寿郎さんのことをほとんど知らない。普段の生活や仕事の話は聞いたことがあっても、どんなものが好きで、何が苦手なのか、どんな時に心を動かすのか、……知らないことがたくさんある。
 私の問いに対し、すぐに言葉は返ってこなかった。おずおずと隣にいる杏寿郎さんを見上げると、彼は歩きながら腕を組み、少しだけ首を傾げて、考える素振りを見せている。

「そうだな」
「はい」
「強いて言うなら、忘れ去られてしまうこと、だろうか」

 杏寿郎さんにしては珍しく、抽象的な答えが返ってくる。
 それは私が想像していた答えよりも、ずっと意味深いもののように思えた。

「……忘れられること、ですか」
「そうだ」
「卒業していく生徒さんたちに?」
「生徒に限らず、だな」
「……」
「理解し難いか?」
「あ、いえ……そんなことは。ただ、杏寿郎さんみたいな素敵な人を忘れちゃう人なんて、いるのかなって思って」
「ああ。いる」

 躊躇いもなく、杏寿郎さんはハッキリと言い切った。つまりそれは、実体験に基づいた言葉なのだろうと考えざるを得なかった。
 一瞬、杏寿郎さんの過去の恋人の面影が頭を過ぎる。杏寿郎さんの過去の恋人なんて、見たこともなければ、話を聞いたことすらない。しかも、“それ”が女性の話だなんてひとことも言われていないというのに、無意識のうちに過去の恋人の話へと変換しようとしている自分自身の思考に、嫌気がさす。

 お祭りの景色を捉えていたはずの目線はいつの間にか下を向いていて、石畳と自分の足元だけが視界に広がっていた。
 そのまま歩き続けること、数分。気がつけば、大通りの端っこまで辿り着いてしまっていた。
 周囲の人通りは少なくなり、すぐ側の車道を通る車の音と、地面を踏む時の下駄の音だけが、やけに大きく響いている。

「でも、俺は待つぞ!」

 唐突に、杏寿郎さんの声が沈黙を打ち破った。
 大きな声に驚いて顔を上げると、既にこちらを向いていた杏寿郎さんと目が合う。

「……え?」
「例え忘れ去られてしまったとしても、いつか思い出してくれることを信じて、俺は待つ。こうしてまた、君と出会えたのだからな」

 彼が言っていることの意味が理解できず、私はその場で歩みを止めた。
 「こうしてまた、出会えた」? まるで杏寿郎さんと私が再会を果たしたかのような言い回しに、眉を寄せる。
 すると、杏寿郎さんは大きな目を何度か瞬かせてから、私の顔にそっと両手を添えた。両側の頬を潰すようにして軽く力を込められ、視線を逸らすことができないように、顔を固定される。

「俺のことを忘れ去っている人間とは、君のことだぞ。なまえ」
「へ……。私、以前どこかで杏寿郎さんとお会いしていました……?」
「ああ、会っている」

 頬を潰されながら、私は「えっ」と上擦った声を上げる。杏寿郎さんは相変わらず口角を上げたまま、私の瞳をじっと見つめている。
 杏寿郎さんの目は、嘘を言っているようには見えなかった。だからと言って、私に思い当たる節はこれっぽっちもない。できるところまで記憶を辿り、過去に埋もれてしまっているかもしれない杏寿郎さんの姿を探すけれど、全くと言って良いほど見当がつかない。
 一つの混乱がまた新たな混乱を呼び、すっかり脳内が錯乱してしまった私は、しどろもどろになりながらも杏寿郎さんにヒントを求めた。

「え、え?? うそ……全っ然記憶にない……。も、もしかして子供の頃? とかですか?」
「どうだろうな!」
「えぇ?! いやいや、そこは普通に教えてくださいよ!」
「それはできない!」
「なんで?!」
「なまえから思い出してくれることに、意味があるんだ」

 言い聞かせるように、彼はそう言った。
 頬に添えられた大きな手に自分の手を重ね、じたばたと身を捩って引き剥がそうとするが、杏寿郎さんがそれを許してくれない。どう考えたって不細工な顔になっているはずなのに、杏寿郎さんはそんな私の顔を見ても引いてくれる様子はなく、それどころか、より近い距離まで顔を寄せてくる。
 やばい、近すぎて心臓がもたない。――そう思って咄嗟に目を瞑ると、こつん、と額に暖かいものが触れた。

「無理に思い出さなくたって良い。幸い、これからは時間があるのだから」

 ゆっくりと瞼を開けると、鼻先が触れ合ってしまいそうなほどすぐ近くに、杏寿郎さんがいる。
 お互いの額が触れ合っているということに気付いた時には、既に身体中が火照っていた。まるでキスをする時のような距離感とその体制に、緊張を通り越して、意識を手放してしまいそうになる。
 触れ合っていないはずの箇所からも、じわじわと熱が伝わってくる。それが彼の体温なのか、夏の空気なのか、今の私には判断がつきそうにもない。唯一わかることと言えば、私の頬に杏寿郎さんの髪が触れて、くすぐったいということくらいだ。

「過去のことより、今は祭りを楽しもう。君も楽しみにしてくれていたんだろう?」
「……っ」
「違うのか?」
「そ、それは、その通りですけど……」
「屋台がある通りまで戻るぞ。早くしないと、花火の時間に間に合わなくなってしまう」

 そう言って、杏寿郎さんは静かに額を離すと、ようやく私の顔を解放してくれた。すぐそこにあった温もりが、名残惜しそうに離れていく。杏寿郎さんの体温の代わりに、夜風が額を撫でてくれたような気がした。
 私が言葉を詰まらせているのをいいことに、杏寿郎さんは早々に話を切り替えてしまう。まだ聞きたいことがある私は慌てて口を開いたけれど、「俺はなまえと花火が見たい!」と元気良く言われてしまえば、不思議とそれ以上を聞く気にはなれなかった。
 再び私の手をとり、先導するように少し前を歩き出す杏寿郎さん。その後ろ姿を見つめながら「杏寿郎さん、なんだか楽しそう」と呟くと、こちらを振り返った杏寿郎さんは、至極満足そうに顔をほころばせていた。


其処は彼となく
珠音様へ
『万華鏡キラキラ』は初めて聴く曲だったのですが、リクエストを送っていただいた後、すぐに夜道を散歩しながら聴いてみました。その時に、なんて美しい曲なのだろう……と鳥肌が立ったのを覚えています。
「ゆらぐ夏」「ことのはヒラヒラ」など、素敵な表現が多い歌詞ですよね。夏の風景どころか、過去の思い出や匂いまでもが浮かび上がってくるようでした。
一番最初に思い浮かんだストーリーは報われない……と言いますか、もっと『片思い』を全面に出したようなお話だったのですが、何度も曲を聴いているうちに「やっぱり煉獄さんには幸せになってほしい…!」と思う気持ちが生まれ、このようなお話にたどり着きました。ただ、あの歌詞から読み取れるようなちょっぴり切ない気持ちも忘れずに表現できていたら良いなぁ…とも思います。
もしかすると、このお話は読む方によって解釈が違ってくるかもしれませんが、珠音様の解釈で楽しんでいただけましたら幸いです。
この度は、素敵なリクエストをありがとうございました!
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