今日は朝から春の陽気だった。
 ぽかぽかと暖かい気温と、風に乗って飛んでくる草木の匂いに、春初を感じる。休日ということも相まって浮かれ気分だった私は、「洗濯と部屋の片付けを終わらせたらショッピングにでも行こう」なんて思っていた。
 しかし、そんな朗らかな心持ちも、ものの1時間ほどで消し飛ぶことになる。朝の晴れやかな気分から一転して、今の私の心は、浮かれていたことが嘘だったかのように、嵐の如く荒ぶっている。

「杏寿郎なんて大っ嫌い!」

 力いっぱい投げ付けたはずのふかふかのタオルは、空気抵抗によってあっという間に勢いを失い、杏寿郎のもとに届く前に、フローリングの床へ向かって力なく降下していく。
 杏寿郎は、慌てて降下途中のタオルを掴み取ろうと手を伸ばした。ところが、その手は虚しく空を切っただけで、タオルを掴み取ることはできなかった。私の機嫌の悪さにすっかり動揺してしまっているようで、普段より彼の反応が鈍いことは明らかである。

「こら、なまえ。洗ったばかりだぞ」
「…………」
「せっかくふかふかで良い香りになったのだから、床に叩きつけるのは……」
「叩きつけてませんが?! それに日頃から掃除してますので床は綺麗ですけど?!」
「そ、そういうことを言っているのでは」

 私の理不尽な物言いに、普段はしっかりしている杏寿郎が珍しく狼狽えている。行き場をなくした両手をあわあわと揺らし、凛々しい眉を八の字に下げて、見るからに困っている様子だ。
 私はふん! と荒く鼻息を鳴らして、まだ取り込んでいる途中のベランダの洗濯物たちを横目に、自分で放り投げたタオルを床から拾い上げる。
 そのままベランダへ続く掃き出し窓から離れて、リビングのど真ん中で立ち尽くす杏寿郎の真横を通り過ぎ、寝室に続く廊下へ向かって歩いていく。どすどすと音を立てそうな勢いで歩を進めていくと、私の後を追うようにして、杏寿郎も廊下にやって来る気配がした。

「なまえ、落ち着くんだ。ひとまずリビングに戻」
「戻らない!」

 後ろから手首を掴み取られたが、私はそれを思い切り振り払った。
 気の短い人間が相手あれば、「もう知るか!」などと返されて、最悪見放されてしまってもおかしくないくらいの嫌な態度をとっているということは、自覚している。心の広い杏寿郎だからこそ、こうして私の後を追ってきてくれているということも、重々理解している。それでも尚、今の心境で杏寿郎に優しく接することなんて、私には到底できそうになかった。
 私がどんな屁理屈を言っても、いつだって杏寿郎は怒らずにいてくれる。しかし、今日はそんな杏寿郎の態度が癇に障り、尚更腹が立ってしまって仕方がない。

「なまえ、聞いてくれ」
「…………」
「なまえ。……俺は、何故君が怒っているのかわからない。君が理由を話してくれないと、俺は何もわからずじまいで、いつまで経っても君と仲直りをすることができない」
「…………」
「俺は君と仲直りがしたい」
「…………」
「それに、俺が悪いことをしたのなら、俺は君に謝りたい。だから理由を教えてくれないか」
「……っ名刺!!」

 「仲直りがしたい」と言う杏寿郎の表情は、心なしか寂しそうに見える。
 どんなに私が投げやりな態度をとっても、相変わらず真摯な態度で向き合おうとしてくれる杏寿郎。篤実であるとしか言いようのない言葉の数々に、一瞬怯みそうになる。
 しかし、そんな良い男みたいな対応したって誤魔化されないんだから……! と思い直し、私は絞り出すように『例の物』について指摘の声を上げる。すぐそこにある玄関の扉を通り越して外にまで聞こえてしまいそうなほどの己の声量に、自分でも驚いたが、今はそんなことを気にしている余裕もない。
 対する杏寿郎は、そんな私の言葉に、きょとんとした顔をして首を傾げている。

「名刺?」
「あの名刺、何よ!」
「何のことだ?」
「杏寿郎のYシャツの胸ポケットに! 入ってましたけど! “まりん”ちゃん!!」
「……!!!」

 「まりんちゃん」という名前を口に出した途端、杏寿郎はハッと顔つきを一変させた。何かを思い出したのか、つい2秒ほど前まで真っ直ぐに私のことを捉えていた彼の目が、素早く横に逸らされる。私はその様子を見逃さなかった。

「ほら! 何かやましいことがあるんでしょ!」
「――! 違」
「証拠はあるんだからね! 洗面台の上に置いておいてあげたから、自分の目で確かめてくれば?!」

 私は杏寿郎からの返答を待たずに、嫌味を込めて言い放った。ガチャッ! とわざとらしく音を立てて寝室の扉を開け、中へ入ると、杏寿郎がついて来ないうちに早々と扉を閉める。
 すぐに扉を背にしてもたれ掛かり、開閉ができないようにと体重をかける。その上で扉が押し開けられることを想定して、私はぐっと身構えた。
 ところが、いつまで経ってもドアノブが動く気配がない。背を預けたままそっと扉に耳を当てると、杏寿郎の足音が寝室から遠のいていくのを感じた。
 はぁぁぁ、と私は深く息を吐き出す。

(……ついに、呆れられちゃったかもな)

 扉から離れ、よろよろと力のない足取りでベッドに近付いていく。
 重力に任せて、ぼふん、と顔からベッドの上に倒れ込む。杏寿郎と二人で吟味して購入したベッドのマットレスは、程よい反発力と柔らかさで私の身体を優しく受け止めてくれた。

 この家で杏寿郎と二人で同棲を始めて、早くも2ヶ月が経とうとしている。
 二人で選んだ2LDKの間取りは広々としていて快適だし、直射日光が当たって色褪せたベランダの塗装も、窓を開けると風通しの良いリビングも、全部がお気に入りで、そこにいるだけでウキウキするような、幸せな気持ちにさせてくれる。それはきっと杏寿郎も同じで、彼もこの家で過ごすことで心が満たされているものだと、私は勝手にそう思い込んでいた。
 ――あの名刺を目にするまでは。
 白地の名刺に印字された『まりん』の文字と、その文字の上に重ねるように、見るからにインクではない質感の染料でくっきりと残された、ピンク色のリップマークを思い出す。裏面には「また来てね♪」という一文と、メッセージアプリのアカウントのIDと思われる英数字の文字列が、可愛らしい字体で書き残されていた。
 私はそれを目にした瞬間、正直、ショックを受けた。いくら真面目な杏寿郎でも、社会人なのだから付き合いで“そういった”お店に行く機会はあるだろう。でも、手書きのメッセージ入り、しかもリップマーク付きの名刺をわざわざ持ち帰って来たという事実が、ショックだった。
 それと同時に、このお店に通い詰めるつもりなのかなとか、大人の行為を楽しむお店だったらどうしようとか、そんな想像ばかりが頭を過ぎった。不安や困惑が入り混じり、例えようのないネガティブな感情に支配され、名刺を通して杏寿郎から『二人で過ごす時間だけでは物足りない』とでも言われているような気さえしてくる。
 杏寿郎は決してそんなことを言う人ではないと、頭ではわかっているのに。

「なまえ」

 コンコン、と寝室の扉をノックする音が響く。
 私が返事をせずにいると、遠慮がちに扉が開かれ、杏寿郎が寝室の中へと入ってくる。

「なまえ、俺の話を聞いてくれないか」
「…………」

 私は布団に埋めていた頭を持ち上げて、ベッドに歩み寄ってくる杏寿郎のほうへと顔を向ける。
 私が洗面台に放置した例の名刺を手に持ち、何か言いたそうな表情をして、私のことを見下ろす杏寿郎。しかし、その名刺を見たくもない私は、サッと杏寿郎から視線を逸らすと、再び布団に顔を埋めた。

「君はきっと誤解をしている」
「――はあ……?! 誤解?! それのどこが誤解だって言うわけ?!」
「これは」
「ご丁寧に名刺の上にリップマークまで付けてもらっといて?! 誤解?! 何よ私なんてそんなビビットな青みピンクのリップ似合わないわよ! 悪かったわね!!」

 私はがばりとベッドに沈んでいた体を起こすと、杏寿郎の弁明を遮って、勢いのままに思ったことを捲し立てた。
 唐突に出てきた化粧品の話題に面食らったのか、杏寿郎は目を丸くして、私のことを見下ろしている。
 ぜえぜえと乱れた呼吸を整えようとしている私と、それを待ってくれているかのように押し黙る杏寿郎。全て言い切ってから、我ながらなんて一貫性に欠けた物言いをしているのだろうと、自分自身が嫌になる。
 杏寿郎の視線が痛い。惨めさと恥ずかしさで、どうにかなってしまいそうだ。

「もうやだやだやだ」
「なまえ」
「杏寿郎なんて大嫌い」
「なまえ!」

 どさり。杏寿郎に肩を押され、音を立ててベッドに倒れ込む。背中に感じるマットレスが沈む感触に気を取られていると、杏寿郎に両手首を押さえつけられてしまった。例の名刺が杏寿郎の手から離れ、はらりとシーツの上に落ちる。
 組み敷かれるような体制で動きを封じられ、改めて感じる圧倒的な筋肉の質量の差に、私は狼狽した。反応に困って硬直していると、不意に唇を奪われて、言葉を発することさえも制される。杏寿郎の舌が、私の舌を追い回すように蠢き、静かに音を立てながら唾液ごと絡め取られてゆく。
 そんなことを数十秒間も続けられてしまえば、荒ぶった心も一時は落ち着きを取り戻す他なかった。
 閉じていた瞼を薄っすらと開いて、杏寿郎を見上げる。杏寿郎は、大層傷ついたような、とても悲しそうな顔をしている。

「そんな悲しいことを言わないでくれ」
「……っ」
「君に嫌われたくない」

 再び唇を重ねられ、すぐに口内に入り込んでくる杏寿郎の舌に、翻弄される。まだ足りない、とでも言いたげな、息継ぎの暇もないほどの執拗なキスだった。
 長い口付けからようやく解放され、はぁ、と小さく息を吐き出した私に、杏寿郎は優しい口調で問い掛ける。

「落ち着いただろうか」
「…………。少し……」
「そうか。それでは誤解を解くとしよう」

 そう言って杏寿郎は私の手首を解放すると、ごろん、とすぐ隣に倒れ込んだ。
 私のほうへ体を向けたまま、杏寿郎がシーツの上に放り出されていた例の名刺へと手を伸ばす。杏寿郎はそのまま名刺を掴み取って、私の顔の前まで持ってくると、ひらひらと揺らして見せる。

「“まりん”さんは男性だぞ」
「………………。はい?」

 杏寿郎の言葉に、私は呆けた声を発する。

「昨晩、所謂ゲイバーという店へ連れて行ってもらった」
「……ゲイバー?」
「最初は女性に接客してもらう店に行くと言うから、俺は遠慮すると断った。そしたら宇髄が、ならば男性に接客してもらう店に行くと言い出してな」
「…………」
「よくわからずついて行ったのだが、行き先がまさかゲイバーだとは思わなかった」
「…………」
「スタッフの皆さんは話題が豊富で、終始楽しく飲めたのだが、例のまりんさんというスタッフの方に、俺だけやけに気に入られてしまってな! 連絡先の交換を迫られ、断るのが大変だった! よもやよもやだ!」
「見る目があるな、まりんさん……」

 昨晩は確か、仕事場の同僚たちと飲みに行くと言っていたはずだ。
 杏寿郎の同僚たちには、以前、会わせてもらったことがあった。各々の内面の癖は置いておいて、容姿に関しては揃いも揃って美男子であることに、驚愕した記憶がある。
 そんな杏寿郎の同僚たちが一緒にいる状況で、さらにその面々の中でも際立って美しい容姿をしている宇髄さんがいたにもかかわらず、誰よりも杏寿郎のことを気に入ったという“まりんさん”に、図らずも関心してしまう。
 それと同時に、私はほっと胸を撫で下ろした。杏寿郎の心が、私から離れてしまったわけではなかった。私は杏寿郎の手を掴み、本当に良かった……と声を漏らしながら、その手を力強く握り締めた。

「良かったぁぁ……。杏寿郎、浮気してなかったぁぁぁ」
「するわけないだろう!」
「うっうっ……もうダメかと思った……」
「しかし、今思えば性別など関係なかったな。客と従業員がそれぞれ好意を持ってしまうかもしれないという点では、女性がいる店であろうとゲイバーであろうと同じことだ」
「…………」
「まりんさんには申し訳ないが、この名刺は宇髄にでも頼んで、返しに行ってもらう。不安にさせてすまなかった」

 そう言って名刺をヘッドボードの上に置くと、杏寿郎はそっと私の頭を撫でてくれた。
 どんな人に対してでも、誠実な気持ちで向き合おうとする杏寿郎の言葉。そして、慈しむような優しい手つきと、どこまでも温かい彼の声色に、事情も知らないまま強くあたってしまったことへの罪悪感が込み上げてくる。

「私のほうこそ、ごめんなさい。頭ごなしに怒っちゃって……本当にごめん」
「気にするな。誤解が解けて良かった」
「う゛っ……杏寿郎が優しいぃぃ……」
「それにしても、心外ではある」
「……え?」
「確かに名刺を持って帰ってきた俺も悪かったが、君は、俺の不貞を疑っていたのだろう?」

 図星を突いてくるような問い掛けに、私は慌てて杏寿郎の顔を見上げる。見上げた先では、杏寿郎が意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「そもそも俺が、なまえ以外の人間に欲情すると思うのか」
「……っ?!」
「こんなにも、君に焦がれていると言うのに」
「こがっ……?!」

 私の身体を組み伏せるように、杏寿郎が再び覆い被さってくる。すぐ目の前にある彼の顔つきが、先ほどまでの優しげなそれとは打って変わって、いつの間にか“男”を意識させるものへと変化している。
 煌々と輝くその瞳に、威圧感に、私はごくりと固唾を飲む。顔を背けても、絡み付くような杏寿郎の視線に追われ、まるで「逃がさない」とでも言われているような気がした。

「そっ、んなこと、言われても、」
「言われても?」
「ふ、不安になる時はなっちゃうんです」
「ふむ。女心というものは難しいな!」

 口では「難しい」なんて言いながらも、杏寿郎は勝気な表情で笑みを浮かべている。私はそれが無性に悔しくて、少しだけ抵抗を試みることにした。

「……私のどこが好きなのか言ってみてくれたら、不安じゃなくなるかも」
「む」
「……言えないの?」
「言えるに決まっているだろう。ただ、沢山あり過ぎてどこから伝えれば良いものか……。そうだな、例えば先ほどまでの泣きそうになっていた顔も」

 大きな片方の手のひらで、するりと頬を撫でられる。
 頬を撫でた手は、そのまま私の体の線を沿うように下降してゆく。首筋と鎖骨を往復するように触れられて、体が無意識にぴくりと跳ねる。

「この胸も、腰も、脚も」
「……っ、んっ」

 優しい手つきで服の上から胸と脇の間をなぞられ、そのまま弱い力で胸の膨らみを揉まれる。ふにふにと感触を確かめるように何度も力を込められて、緩んだ口元から艶のある声が漏れた。
 杏寿郎は私の部屋着の裾から手を差し込むと、腹部と腰元を行き来させながら撫で回してくる。その手は時折胸元まで這い上がり、かといって胸の頂に触れることはせずに、再び腹部へと下りてゆく。
 焦らしているかのようなそれらの動きによって、みるみるうちに私の体温は上昇する。せっかく平常に戻った呼吸も、気がつけば、みっともないほどに荒くなっていた。

「なに、それ……っ、みっ、見た目ばっかり……」
「そんなことはない」
「か、肝心の中身はどうなの……」
「聞くまでもないだろう」

 全て愛している。耳元でそう囁かれ、ぞわりと皮膚が粟立った。
 水気を感じる音が鼓膜を震わせ、杏寿郎に耳を舐められていると気付いた時には、私はもうほとんど何も考えられなくなっていた。そこからは、脳に直接響くような艶かしい音と、大好きな人の声に支配されるがままである。
 せっかくの休日だけれど、今日はもう出掛けられないだろうから、ショッピングはまた来週にしよう。ぼんやりと白んでいくような意識の中で、私はそう思った。


フラミンゴ色の午後
ちー様へ
『SUNDAY』は初めて聴く曲でしたが、ザ・ベイビースターズさんがこんなスイートなラブソングを歌われているなんて……!と不覚にもときめいてしまいました。(個人的に、某海賊アニメの主題歌のイメージが強かったもので……!)
ちー様がおっしゃっていた通り、歌詞が可愛らしくて印象的だったので、作中の登場人物の台詞の一部は、曲の歌詞を参考に考えさせていただきました。
書き初めはもっと甘々でラブラブな二人を書こうと思っていたのですが、最終的にちょっと大人な方向へ進ませたくなってしまい……。こんな煉獄さんと付き合ってみたいなぁ…なんて、妄想を膨らませながら楽しく書かせていただきました。
ちー様にも楽しんでいただけましたら、幸いでございます。
リクエストありがとうございました!


Title by 草臥れた愛で良ければ
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