がたん、ごとん。聞こえてくるものは、電車の車輪がレールを鳴らす音と、押し込まれたように密集した人々の衣類が擦れる音、そして車内に時折響く、駅員さんのアナウンス。
 それらの音を跳ね除けて、周囲の乗客の耳まで届いてしまうのではないかと思うほどに、私の心臓もばくばくと鼓動を高鳴らせていた。

「くっ黒尾さん」
「んー?」
「こ……この体制は何でしょう」

 私たちが登校する時間帯は、言わずもがな世の社会人たちが出社するために忙しなく動き出す時間帯と被っているわけで、要するに通勤ラッシュと呼ばれるやつである。その為、本来であればラッシュの時間帯を避けて、今乗っているこの電車より数本早い電車で登校しているはずだった。
 しかし、本日はうっかり寝坊してしまった私のせいで、二人揃って、よりにもよって一番混むであろう時間帯の通学となってしまったのである。
 ごめんごめんと鉄朗に謝り倒しながら乗り込んだ車両には、自由に身動きがとれなくなる程ぎゅうぎゅうに人が乗り込んでいた。そんな密度の高い車内のど真ん中で、私と鉄朗は向かい合う。
 いや、厳密には向かい合わせにさせられた、と言ったほうが正しい。最初は鉄朗に背を向けるようにして立っていたのに、何を思ったのか鉄朗は電車が動き出してすぐに、私の身体を自分の方へと振り向かせると、更に片腕を私の腰に回すようにして抱き寄せてきたのだ。
 驚いたのも束の間、人込みを捉えていた私の視界は鉄朗の大きな体によって遮られ、互いの体がぴったりとくっついた状態になる。そのあまりにも近い距離に、私は緊張を隠し切れそうもなかった。
 相変わらず、周囲はたくさんの人で溢れ返っている。なるべく小声で、目の前の彼に向かって抗議する。

「ちょっ、普通にしてようよ恥ずかしいよ」
「俺は別に恥ずかしくないけど」
「おまっ……いや、てかなんでこの体制なの!」
「近くで顔見たくて」
「なんで今?!」
「だってお前、俺がじーっくり見ようとするとすぐ逃げるじゃん」

 だからこういう時でもないとなぁ、と鉄朗は口角を上げて見せた。
 なんという意地悪な笑みなのだろう。さっきから顔を凝視するように上から見下ろされて、確かにこんなの、通常時であれば照れ隠しから引っ叩くなり何なりして逃れるところなのに……なんてことを考える。だってそんなすぐに、ここまで近い距離感に慣れるわけがないじゃないか。
 と言うのも、私たち二人はまだ、付き合い始めてから現在に至るまでの期間よりも、友達同士という関係性だった期間のほうが長いのだ。
 だからこそ、私は未だに鉄朗との距離のとり方に戸惑ってしまうことだってある。それなのに鉄朗は、そんな私の気を知ってか知らずか、こうしていとも簡単にずいずいと距離を縮めてくるものだから、なおいっそう戸惑ってしまう。
 私は以前テレビで観た、守りの体制に入りたいのにぐいぐいと相手から間合いを詰められ、攻めの一手も出せず、どうしようもない状況に陥っていたプロボクサーの気持ちがわかったような気がした。

 同じ高校の同級生であり、互いに電車通学で登校時によく顔を合わせていた私と鉄朗は、入学当初から仲良くなるのにそう時間はかからなかったのを覚えている。
 もちろん、初めはただの友達としてしか見ていなかったけれど、いつの間にか私は、本当にごく自然な流れで、鉄朗のことを異性として意識するようになっていった。
 幸せなことにそれは鉄朗も同じだったようで、この春から私たちはめでたく交際を始めることとなった。
 それからというもの、双方の家の最寄り駅が同じ路線で数駅しか離れていないということで、私たちはたまにこうして登下校を共にしている。

「ねぇ、ほんと、頼むからあっち向いて」
「なんで?」
「公衆の面前ですし」
「誰も見てないから」
「いやあの、じゃあせめて、……その……、……手、放して」
「やだ」

 ぎゅう、とより強い力で抱き寄せられる。
 私に触れるその手の反対側で、鉄朗のもう片方の手はしっかりとつり革を握っている。周りの人間から見れば、私はただ鉄朗に支えられているだけのように見えるのかもしれない。
 でも、実際は、人込みに埋もれて見えない所でこんな、抱き合っているに等しい体制をとっている。この状況に私はさっきからずっと緊張しっぱなしだというのに、ちらりと鉄朗の顔を盗み見ても、彼のその表情には特に何の変化も見られない。
 ……ただ、私が過剰に意識し過ぎているだけなのだろうか。
 思えば、鉄朗と付き合うに至るまでにも、そのように感じることは多々あった。昨年のクリスマスも、今年のバレンタインデーだって、何かしら行動に移す度に私は顔から火が出そうなくらい恥ずかしがっていたものだけれど、対する鉄朗からは、そのような緊張感が伝わってくることはなかった。
 つまり、やっぱり私が過剰に意識し過ぎているだけで、この状況だって私以外の人間からしてみれば、きっと何ともないことなのだ。
 ――と、そう言い聞かせつつも、今だって私の顔に触れる鉄朗の胸板が思ったよりもずっと厚くて、いくらバレーを続けてきたとは言えこんなにも男っぽい身体つきをしているとは……とドキドキしている自分がいる。妙な羞恥に駆られて、息苦しさを感じるほどだった。

「も……む、むり……。いろんな意味で窒息しそう」
「……なまえ」
「……なに」
「ちょっとムラっとくるな、この状況」
「…………健全な高校生男児っぽくてよいのでは」

 鉄朗のふざけた台詞は受け流して、もやもやとした考えを振り払いつつ、息苦しさから逃れるようにすうっと空気を吸い込む。こんな酸素の少ない場所からとっとと離れて、早く外の空気を吸いたいと思った。
 けれど、深く息を吸うと同時に、鉄朗の匂いが空気と一緒に私の中に入り込んできて、不覚にもときめきを感じてしまう。好きな人の匂いと、相変わらず慣れることのない距離に、なおも顔に熱が集中する。さらに、電車内で人が密集したときの独特の温度と、触れ合う私と鉄朗の体温が相まって、ない交ぜの熱が私の身体を蝕んでいく。
 じんわりと滲む汗に「そろそろ夏がくるなぁ」なんて、今のこの状況とは全く関係のないことが頭に浮かんだ。その時だった。

「……制服さ、」
「――ん?」
「夏服になったな」
「? うん」
「電車なんてただでさえ人多いし、少しぶつかるくらいしょうがねーことだけど。それでもあんまり触らせたくねぇし」
「え、な、何を」
「二の腕とか、脚とか。……なんか、全部?」
「…………鉄朗の二の腕ってこと?」
「なんでそうなるんだよ」

 鉄朗の手が一旦腰から離れて、するりと私の二の腕を撫で下ろしたかと思えば、再び腰元に戻っていく。その動きに、私はまるで「この腕のことだよ」とでも言われているような気がして、言葉が出てこなくなる。
 鉄朗のことだから、もしかしたらただ単に触ってみたくなっただけなのかもしれない。でも、もしかしたら、そういう意味なのかもしれない。そうだとしたらすごく嬉しい――だなんて、絶対に面と向かって本人には言えないけれど。

「……。そんなこと、考えてたの?」
「まあ。健全な高校生男児ですからね」

 頭上から降ってきたその言葉に、胸の高まりが激しさを増す。
 戸惑いながらも見上げた鉄朗の顔は、やっぱり普段と何ら変わりない。けれど私のことを抱き寄せる鉄朗の腕に力が込められたのを感じて、その言葉が私をからかうために出たものではないということを、なんとなくではあるけれど理解する。理解すると同時に、どうしてかじわりと目頭が熱くなった。
 鉄朗のことを見上げる私の視線に気がついたのか、彼も視線を合わせるようにして、私の顔を見下ろしてくる。
 既に恥ずかしいという気持ちを通り越して、自分でもよくわからなくなった感情のまま「だからってこんな体制……」と小さくぼやく。そんな私に鉄朗は「彼氏の特権」と言って、いつものようににやりと口角を上げて見せた。

「友達同士じゃできなかったことって、いっぱいあるよなー」
「……そ、そうで、すね」
「夏が楽しみだな。なまえチャン」


Thanks 草臥れた愛で良ければ , アラスカ
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