「お願い月島勉強教えて」
「僕1年なんですけど」
放課後、部活の練習が始まる少し前のこと。先にコートの準備を進めていたらしい3年生のマネージャー、みょうじさんが、体育館に歩み入った僕の姿を見つけるなりすっ飛んできた。
僕が驚く暇もなく、突然地べたに額を付けるようにして、体を丸め込ませるみょうじさん。その姿勢をあえて言葉にするのなら、簡易的な土下座とでも言えば良いか。その光景を目にして、まず最初に嫌な予感を先に感じ取った僕は、見て見ぬふりでもしてやり過ごそうと思った。
だが、そうする前にみょうじさんが口にした「勉強教えて」という台詞についツッコミを入れてしまった。あっ、と思わず顔をしかめる。仮にも先輩に対して、しかめっ面というあまりよろしくない反応を示してしまったが、地面に顔を伏せているみょうじさんには見えていないだろうと油断したのも束の間、「そんな嫌な顔をせず」と顔を伏せたままのみょうじさんから宥めるような台詞が返ってきて、硬直した。見透かされている。
「そういうのは菅原さんとかに頼めばいいんじゃ」
「3日続けたらウゼェ……って顔された」
「縁下さんとか2年ですし僕より勉強できると思います」
「彼は他の問題児たちで手いっぱいなのだよ」
しょうがないので標的が他の誰かに移るようにと、先輩たちの名前を順に挙げていく。
縁下さんの名前が出たところで、地面に膝を付いたままみょうじさんが顔を上げた。その表情は何故かドヤ顔で、またまたツッコミを入れてしまいそうになるが、そこはぐっと堪える。
問題児たちと言われて僕の頭に浮かんだのは、2年生の騒がしい先輩二人組の姿である。……まあ、何て言うかその、決して間違ってはいないと思うけど。
しかし、自分のことを棚に上げて他人のことをそんなふうに言ってのけるなんて、普通の人ならなかなか難しいものだが……普通の人とは一味違うこの先輩には、そんなことは関係ないようだ。
うちの部員の中で『勉強ができる』部類に入る人間を一通り挙げたところで、自分が推薦できる者を出し尽くしたことに気付き、再び硬直する。――やばい。ここの部員には、まともに勉強できる人間が少なすぎる。しかも、勉強を教えてほしいと懇願してくる当の本人が3年生となると、教えてやれる人間というのは尚更限られてくる。
手詰まりを感じながら表情を歪める僕のことはそっちのけで、きらきらと目だけを輝かせて、僕のことを見上げてくるみょうじさん。こんなにも邪険にするような視線を向けているにも関わらず、そんなことは一切気にしていない様子のみょうじさんは、最早清々しいほどだ。
「では早速明日からでも」
「嫌です」
「なんで!」
「1年生に3年生の勉強を手伝わせるなんて正気なんですか」
「う……っ。現文……現文とかならせめて」
「無理です」
「頼むよおおおテスト期間まであとちょっとしかないじゃんんん」
突き放すような僕の言葉に、みょうじさんはめそめそと泣き真似をする。
ていうか僕だって勉強しなきゃなんですが。ぶつぶつと心の中でぼやいていると、ふと、誰かがこちらへ近付いてくる気配を感じ、後ろを振り返る。
そこで目に映ったものは、急ぎ足で体育館の入口へと向かってくる山口の姿だった。そのまま体育館に入ってきた山口が、僕たち二人の様子を目にするなり、ぎょっと目を丸くする。
みょうじさんと僕に交互に目をやって「え……どうしたの?」と心配そうに声を震わせる山口。そんな山口に対し「いいから先に準備してて」と促すと、続けてみょうじさんも山口に向けて、しれっとしたトーンで「お構いなく」と言った。それを聞いて、あ、山口は戦力外なんだ、と思った。
疑問符を浮かべつつも、コートの準備に取り掛かる山口。その姿を目で追いながら、そろそろ他の部員たちも集まってくる頃だと感じた僕は、再びみょうじさんの方へと向き直る。
「みょうじさん。なにもこの部活の人じゃなくたって、同級生の仲良い人とかに教えてもらえばいいんじゃないんですか」
「目ぼしい人には全員あたった」
「……全滅したんですか」
「ていうか勉強を教えてほしいって言うより、勉強の要領を伝授していただきたい」
「……あー、」
なるほど。納得した。要するに、みょうじさんはただ誰かに、“勉強をするその場”に一緒にいてほしいだけなのではないだろうか。
一人で勉強するのはだるいし、誰かと一緒にやったほうが気分的に捗るだとか、息抜きに駄弁ったりできる相手がいたほうが良いだとか、多分そんな考えなのだろう。この人は、そういう性格だ。
それに、前回のテスト期間後、返却された僕の答案用紙を強奪したみょうじさんが、その回答をまじまじと見つめながら「月島は頭いいねー頼り甲斐あるねー」と意味深に呟いていたことを思い出した。あれはそういう意味だったのか……と更に納得する。
だから、今回うちの部員を含む親しい同級生全員からお断りを受けて、困った末に白羽の矢を向けた相手が、僕だったというわけか。
いやでも、幸いまだ矢は立っていない。ここで強く断っておかないと、明日からノートやプリントを大量に抱えながら僕のもとまでやって来るみょうじさんの姿が、容易に想像できてしまう。
「すみませんみょうじさ」
「ちょっと今きみ私に対して誰でもいいんじゃねーかよコイツとか思ったでしょ」
「…………。いえ」
なんなんだこの人はエスパーかよ。僕の言葉を遮り、またもや見透かしたようなことを言うみょうじさん。その鋭すぎる読心術に若干引きながらも、なんとか平静を装う。
しばらくの間膝立ちの状態だったみょうじさんは、突然すくりと立ち上がると、真っ直ぐな目で僕のことを見つめてくる。
身長の差は大きいはずなのに、自分とあまり大差ないように感じさせられてしまうくらいのこの迫力は、一体何なのだろう。眼鏡のレンズ越しに、見据えるような視線に捉えられて、少し戸惑ってしまう。
「私べつに誰でもいいわけじゃないし」
「……いや、思ってませんし」
「言っておくがねツッキー」
「山口みたいに呼ぶのやめてください」
「私はただ純粋に、同じクラスの人とかよりもきみと勉強したいって思っただけで」
「!」
「もちろん手伝ってほしさもあるけど」
「……。はぁ」
予想外のみょうじさんの言葉に、ぴくりと肩が揺れた。
きっと他意は無いのだろうけれど、特に表情を変えるわけでもなく、さらりと揺さぶるようなこと言ってくるものだからタチが悪い。しかも、変なところで己の願望に忠実になってしまうから良いのか悪いのか。……まったく、調子のいい人である。
これ以上、このやり取りを長引かせてしまえば色々と面倒が起こることを察した僕は、「皆さんが来る前にコートの準備終わらせましょう」と半ば強引に会話を中断させた。
みょうじさんの横を平然と通り過ぎ、コートの方へと歩いていく。その時、背後から「ドライなやつめ……」と捨て台詞のようなものが耳に入り、僕はもう一度だけみょうじさんの方へと振り返った。
「山口も一緒でしたら、いいですよ」
ただし今回だけですからね。そう付け加えて告げると、みょうじさんは一瞬だけ目をまん丸に見開いた後、こくこくと小さく首を縦に振った。その反応を確認した僕は、再びコートの方へと歩き出す。
ポールにネットを掛けようとしていた山口がこちらに顔を向けながら「え、俺が何?」と首を傾げていたので、なんでもない、とだけ返しておいた。