死んだように眠っていた。
やたらと重いくせに、一度開いてしまえばうまく閉じることができなくなる、自分の瞼を恨めしく思う。どうして、そして一体いつから、私はこのような体質になってしまったのだろうか。
目に映るものは薄暗い部屋の天井と、そこからぶら下がる無灯の照明のみだった。
ふと、この部屋は誰の部屋だったかなと、ぼんやりとした頭で考える。
ああ、そうか。
「エース、の、へやだ」
ひとりごちた言葉に、何を当たり前のことを……と思わず乾いた笑いがこぼれる。
そうしてようやく気がついたが、私の喉はからからだった。最後に水を飲んだのはいつだっただろう。そもそも私は何故、この部屋で寝ていたのか。それすらも思い出すことができない。
複雑に絡み合ってしまったかのように、なかなか機能しない思考回路を、ゆっくり、ゆっくりとめぐらせて、私がここでぼうっとしている理由を手繰り寄せる。
そうしていくうちに、段々と視界が滲んでいくことに気がついた。それが涙のせいだと認識するまで少し時間がかかったが、間違いなくそれは私の涙だった。
別に悲しくもないし、今この状態で何かに感動するわけでもない。この涙は、自分の意思をすっかり無視して出てきているようだった。
「……なまえ」
がちゃりと部屋の扉が開く音が耳に入り、誰かが私の名を呼んだ。
声の主の方へ目を向けなければ、と思ったが、頭の中でそう思うだけだった。どうしたことか眼球を動かすことすらが億劫で、面倒臭い。
自身の目線は変わらず室内の天上から逸れることはなく、動こうとしない。しょうがないので「だれ、」と小さく問うてみる。
扉の前に立つ人物に向けて発した声が、空気を伝って自分の鼓膜を震わせたとき、私ってこんな声だったかなと思った。まるで死期が迫った人間のような、生気の無い声色。そんな貧相な声が相手の耳までちゃんと届いたのかはわからないけれど、そんなこともすぐにどうでもよくなる。
こんなにも怠慢な脳味噌になっているなんて、私の心身はどうなってしまったというのだろう。
「おれだ……、マルコだ」
「……マルコ」
「お前、いつまでそうしてるつもりなんだよい」
声の主は、我らが一番隊隊長のマルコだった。
いつまでと言われても、まずいつから“こうしているのか”すらわからないのだから、その質問は私にとって愚問である。
それよりも、マルコという名を耳にして、自分の脳がその存在を忘れかけていたことに驚いた。私の頭はそこまでおかしくなってしまったのか。――これはさすがにまずい、と危機感を覚える。
ひとまず思考を安定させるために、天井を見つめたまま、そして流れ落ちてゆく涙を止められぬまま、私はやっとのことで瞼を閉じる。目に溜まった水滴がぼろりと溢れ出し、頬骨のあたりをいっそう濡らしたが、その感触に何を思うわけでもなかった。
休息をとるように、ゆっくりと深く息を吸い、ゆっくりと吐き出してみる。
そんな私を見て、マルコがぎりりと歯を食い縛った音が聞こえた。たとえ目を瞑っていても、なんとなく彼の様子を感じ取ることはできる。それはきっと私がマルコの下で長いこと航海を続けてきたからであり、沢山の出来事を互いに共有してきたからこそだろう。
でも、この場所に横たわる私の姿を見た彼が、何を考え、何を感じて悔しそうな様子を醸し出しているのか、その理由まではわからなかった。わからないというより、ただ私がわかろうとしていないだけなのかも知れないが。
「なまえ、目を開けねェか。こっち見ろよい」
「…………」
「おい、なまえ!」
もう、返答する気もおきない。ただただ虚無感のようなものに覆い尽くされる。私の心と体は、随分と前から疲弊しているようだった。
反応の無い私に痺れを切らしたのだろう。怒りにも似た感情を露わにしながら、マルコがベッドの側へと歩み寄る気配がした。そして枕元で足を止めると、彼はその場に静かに両膝をついた。
彼のほうへ顔を向けるわけでもなく「なに、」と目を閉じたまま呟く。すると、力なく投げ出されたままの私の手にマルコの手が重ねられ、そのままぎゅうっときつく握り締められる。その手を握り返すわけでもなく、私はマルコの体温を感じるだけだったが、久しぶりに伝わってきた人の温度に、ほんの少しの安堵を覚えた。
弛緩し切った体に少しばかりの生気を与えてくれるようなその温度のお陰なのか、私は薄く目を開いて、体温の持ち主のほうへと首を傾けることができた。
視線と視線がぶつかり合う。今日はじめて視線を合わせた彼の目は、怒っているような、それでいてとても悲しそうな色を宿していた。マルコがあまりにも苦しそうな面持ちで私のことを見つめるものだから、止まりかけていた涙がわけもわからず再び滲み出す。
それを目にしたマルコは、思い詰めたように、そして搾り出すようにして私の名を呼んだ。
「なまえ……。なまえ」
「手、いたいよ、マルコ」
「……ッ!」
「ねーマルコ。エースはいつ帰ってくるのかな」
「――!! ……くそっ!」
ふとした疑問を口にした瞬間、ぎゅうう、と私の手を握るマルコの手に力が篭った。いたい、と再び呟くようにして言い放ってみたものの、握られたその手の力が緩められることはなかった。
そして、そのままマルコは私から視線を逸らすようにして俯いてしまった。
そんな彼の様子を目にして、私は不思議に思う。エースの話をすることは、そんなにつらいことだろうか。ちょっと前までは、私がエースの話をすれば、マルコは楽しそうに聞いてくれていたのに。「なまえはほんとにエースのことが好きなんだな」って冷やかすように笑ってくれていたのに。マルコはもう、あんなふうに笑ってはくれないのだろうか。
様々な思いが頭の中で交差する。しかし、断片的な記憶ではそれらを綺麗に結びつけることはできなかった。
掠れた声でマルコ、と俯く男の名を呼んでみたけれど、彼は顔を上げようとはしない。
「もう、何度も、言ったろい」
「……。……何だっけ」
「……エースはもう、帰ってこねェんだよい……」
言い聞かせるようにそう吐露したマルコの手は、震えていた。
俯いたままの彼をぼんやり見つめて「そっか」と、それだけ呟いたが、そこから返ってくるものは沈黙だけだった。
静かな空間の中、握られたままの手の温もりが心地よくなってきて、ゆったりとした眠気に襲われる。今日は考えることに疲れてしまったから、もう一眠りしたらまた考えよう。段々と薄れゆく意識の中で、私はそう思った。
私はずっと知らないふりをして待っている
Thanks 依存 , 或子