「わっ……わぁぁぁ」
「ん?」

 狭苦しい部屋の中、扉が軋み開く音とほぼ同時に、脱力した声が背後から耳に入った。ひどく間の抜けたその声に、クザンはぴくりと片眉を上げる。
 ゆっくりと後ろを振り返れば、わかりやすく肩を窄め、小刻みに震えるなまえと目が合う。互いの視線がしっかりと交わったのはほんの一瞬のことで、なまえは大袈裟な動作で顔を背けると、そそくさと後退り、部屋の隅へと引っ付いてしまった。いつもなら和やかな雰囲気を感じられるはずの彼女の顔は、今は固く強張り、困惑と喫驚が入り混じった表情が浮かべられている。

「おっ、お着替え中にごめんなさい!! そそその、覗くつもりなんて全く……!」

 なまえは背を壁に付けた体制のまま、たじたじとした様子でそう言った。衣類を脱ぎ、上半身裸の状態で佇むクザンのことを、まずいものでも目にしたかのような顔つきで見ている。
 別に、男の着替えを見たからと言って何になる――クザンは素直にそう思った。日頃から細かいことを気にしていない男が、このタイミングでなまえがあそこまで動揺する意味など即座に理解できるはずもなく、彼は首を傾げた。
 男が人前で着替えるなんて特段不思議なことでもないし……と考えを巡らせつつ、慌てふためいている彼女の目線の先を追っていく。すると、その先にあるものが自分の上半身の一部であることに気付き、ようやくクザンは「ああ」と納得の声を漏らした。

「この傷、なまえはまだ見たことなかったか」

 大きな瘢痕が残った右側の半身を見下ろし、なまえは言った。
 脇腹と、腕の付け根、そして前腕から指先まで広がった火傷――時間の経過とともに動かせるくらいまでには癒えたものの、その傷跡は生涯消えることはない。これらは自分にとっては見慣れたものであっても、他者からすればそうではない。大抵の人間は、この傷跡を見れば“普通ではない”と考えるのだろう。それは彼女だって同じことだ。
 海兵を辞め、各地の島を渡り歩く中でなまえと出会い、共に旅をするようになってしばらく経つが、彼女はクザンが海軍大将の名を捨てるに至った経緯を深くは知らない。過去を知らない他人がこの瘢痕を目にして、驚くのも無理はない。
 クザンからしてみれば、昼過ぎまで宿の中にこもりきりだったので、そろそろ外出しようと何となしに着替えを始めただけだった。しかし、それなら着替えるより先に別室で休んでいるなまえに声を掛けに行くべきだったか、と彼は後悔した。
 怖がらせるつもりなどなかったのに、意図せずとはいえ余計なものを見せてしまったことを、申し訳なく思う。その一方で、「なまえに覗かれるなら本望なんだけどな」――なんて不埒な思考を巡らせてしまう自分もいる。邪念から出たものなのか、それとも自嘲から出たものなのかわからない笑みを浮かべ、クザンは左手で自身の右肩をさすった。

「酷ェ傷跡だろ。なまえと出会う前に、ちょっと色々あったもんで」
「あ、い、いえ……。その、脚の怪我と同じ……ですよね」
「よくわかってるじゃないの。まァそういうことだ。驚かせてごめんな」

 相変わらず部屋の隅から動かないなまえのもとへ歩み寄り、柔らかな質感の髪ごと頭を撫でてやる。すると、少しだけ緊張が解れたのか、彼女の身体からそっと力が抜ける感触が伝わってくる。
 3回、4回と何度か撫でてやると、強張っていた表情も心なしか穏やかになってゆく。そうして幾分か落ち着きを取り戻したなまえのことを見つめて、クザンは静かに安堵の息を吐いた。
 「なまえも一緒に出掛けるか」。そう伝えようと唇を開き掛けたところで、彼の手のひらの温もりを暫し受け入れていたなまえが、徐に頭を左右に振った。またもや言葉なしでは真意を測れない動作を見せられ、クザンは思わず眉根を寄せる。

「いや……えっと、傷のことは何となくわかってはいたんですが……その、」

 大変言いにくそうに、弱々しい語調でなまえは口籠る。その視線はいつの間にか目の前にいるクザンから離れ、逃げるように床へと向けられていた。
 “傷のことをわかってはいた”。つまり、なまえはこの瘢痕を見て驚いたのではない……ということだろうか。
 なまえの次の言葉を待つが、彼女は口を閉ざしたまま、むぐむぐと唇をもどかしく動かすだけである。何かを考えている素振りはあるものの、どうやらその『内容』をクザンに伝えて良いものなのかと、口に出すことを躊躇しているように見えた。
 それに、こんなに近い距離にいるにもかかわらず、『無理矢理見ないようにしている』という表現がしっくりくるほど、あからさまに彼女がクザンから目を背けているのも気になる。何故だ? 彼は考えた。考えた末に、そこまで時間を要することなく一つの結論に辿り着く。
 もしかしたら、自分が出した結論とはまた違った要因があるのかも知れない。でも、今の状況でなまえがこのような態度を見せる理由なんて、他に考えつかない。その結論が自分の自惚れではないことを願いつつ、いかにも“わかったような”口振りをして、クザンは頷いて見せる。

「……あー、そういうこと」
「へ、な、なに」

 うっすらと上がった口角を隠すように、片手で口元を覆いながらなまえを見下ろす。すると、戸惑った様子で顔を上げた彼女と視線が絡み合った。
 焦心に揺れる2つの瞳が視界に入り込み、嗜虐的な感情が背筋を震わせるが、それには一切気付かぬ振りをして言葉を続ける。

「男の身体はそんなに見慣れねェか? なまえ」
「そっ! そ、んなことはない……と思う、けど……」

 語尾に向けて段々と小さくなっていく声。
 思いも寄らない彼女の反応に、クザンは無意識のうちに顔を顰めていた。彼女が口にした言葉は、彼が「こう返ってくるだろう」と予想していた幾つかの言葉のどれにも当て嵌まらなかったからだ。
 「男の身体を見慣れていないわけではない」といったニュアンスの言葉を返されると、彼女の過去の男性経験を嫌でも連想させられてしまう。クザンは少し考えて、すぐに思考を遮断させた。そんなものは想像したくもないし、何なら考えるだけで腹が立ってくる。無論、大人気ないので決して表面に出すつもりはないが。
 少し揶揄ってみるだけのつもりが思わぬ反撃を受け、クザンは押し黙った。なまえに悪意がないことはわかり切っているため、何も言えずにじっと彼女のことを見つめる。
 すると、何を思ったのか、なまえの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。鼻先から耳まであっという間に茹で上がり、この子の体の中で血液が沸騰したのではないかと心配になるほどだった。

「男性の身体が見慣れないと言うか、ク、ザンさんの身体がと言うか……」

 ごにょごにょと気まずそうに呟かれた言葉に、クザンの口から「あらら」と気の抜けた声が漏れ出る。ひとりでに緩む口元を、うまく抑えることができない。
 湧き上がる感情を制御するのに数秒かかったが、クザンはすぐに平静を取り戻す。

「こんな顔真っ赤にしちゃって。可愛いじゃないの」
「――え」
「可愛い」

 色付いた頬に、指先で触れる。同じように赤く染まった耳へ向かって指を滑らせ、弱い力で耳朶を撫でると、なまえの身体が大きく跳ねた。彼女は反射的に後退しようと身動きしたが、背には壁があり、目の前にはクザンがいる。とっくに逃げ場を失っていたことに気付かされ、なまえは息が詰まったような表情を浮かべる。
 クザンはなまえに触れていた手を離すと、彼女をさらに追い詰めるかのように、すぐ真横の壁へと手のひらを押し付けた。

「まってクザンさん、ちょ、近い……」
「おれのこと、嫌い?」
「んん? きらい、じゃない……です……?」
「あーこらこら、なんで疑問系なのよ、まったく……。んじゃ、どう思ってんのか聞かせてよ。良い機会だ」

 なまえの顔を覗き込むようにして、目線を下げる。
 追い打ちをかけられていることを悟ったのだろう。彼女は少し俯いて、僅かに唇を噛み、押し寄せる羞恥に必死に耐えているようだった。
 噛むのは良くない――とでも言いたげに、クザンは壁についていないほうの手で、そっと彼女の唇に触れた。なまえは再び大きく身体を跳ねさせたが、クザンはその反応を敢えて無視して、言葉を続ける。

「ただのオッサンだと思ってる?」

 彼の問いに、なまえはふるふると左右に首を振った。

「なら、どちらかと言えばスマートなオッサンって感じか?」

 冗談混じりに口にした二つ目の問いには、なまえは小さく首を傾げて見せる。
 良い調子だ、これなら上手いこと誘導できそうだ――と、性悪な独り言が頭の中に浮かび上がり、ついつい苦笑しそうになる。でも、示された反応の先に、自分が欲しがっている彼女の思いがあるような気がして、「今日だけで良いからもっと追い求めてみたい」と、そう思ってしまった。
 脳内で慎重に言葉を選び取り、次の一手を考える。
 しかし、つき詰めて考えられた彼の言葉は、なまえの発言によって強制的に喉の奥へと押し戻されることとなる。

「この状況で死にそうになるくらいには、かっこいいと思って……る」

 今にも目を回してしまいそうな顔をして、なまえはそう言った。クザンは呆気に取られ、声を失う。面食らったとはまさにこのことか。
 「もしや都合の良い幻聴が聞こえただけなのではないか」と自分の耳を疑いそうになったが、ふるりと小さく肩を震わせる彼女を見て、これは幻などではなく、現実なのだと突き付けられる。

「……なァ、もう一回言ってくれる?」
「…………や、やっぱり何でもないです」
「……」
「……」
「おれをその気にさせることを言ったからには、覚悟しなさいよ」
「え、あ、」

 自分の手よりも随分と小さな顎を、クザンはそっと掬い上げた。
 ようやく真正面から捉えることができた彼女の瞳の奥には、ゆらゆらと揺れる艶かしい光が見える。光を覆い隠すようにそっと閉じられた瞼を追って、クザンはなまえの身体に影を落とした。
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