※現パロ
それは、とある日の昼下がりのこと。いつものようにバイト先の弁当屋の出前に出ていた私は、少しの休憩をとろうと自転車をこぐ足を止めた。
住宅街のど真ん中にある、だだっ広い公園の隅っこに自転車を停めて、すぐ側のベンチに腰を下ろす。
出勤前によく立ち寄るスーパーがあるのだが、今日も今日とてそのスーパーで購入したミネラルウォーター。もうほとんど常温になってしまったそれをバッグの中から取り出して、ペットボトルの蓋を捻り開けた。
乾いた喉を潤そうと、一気に水分を流し込むために頭を傾ける。ふと、その動作のついでに空を見上げると、午前中には全く見られなかったはずの薄暗い雲が、すぐそこまで近付いてきている様子が目に映った。
ああ、これは、降ってくる。直感的にそう思った。
朝の天気予報の通りだ……と溜め息をついて、ベンチから立ち上がる。自転車の後ろに積んだ、専用の保温バッグのポケットをごそごそと漁り、次の配達先の伝票を取り出して、内容を確認する。
からあげ弁当、ハンバーグ弁当、特製カレーライス……と比較的ボリュームのあるお弁当を、計8個。1世帯あたりの注文数としては、なかなか多い方である。一度の注文でこんなに頼んでくれるなんて、配達先のお宅は大所帯なのか、それとも大食漢がいるのか。
保温バッグの開け口からふわりと香るお弁当の匂いに、すかさず“きゅうぅ”と私のお腹が反応する。祝日ということもあり、今日の出前の注文数はとても多かった。いつもは午前中の配達を終えたタイミングで休憩を貰い、昼食をとるのだが、今日はそんな暇も無いくらいに忙しかった。
「甘いものが食べたい……」
さすりさすりと自身の腹を撫でながら、独り言つ。空腹と疲労を同時に感じると、何だか無性に甘いものが食べたくなるような気がする。糖分が体の主要なエネルギーであるというのは本当なのだなぁと、人間の身体の神秘に意味もなく感心した。
次の配達先にお弁当を届ければ、一旦お店まで戻ることができる。時間的に、配達を終えて戻る頃には注文も落ち着いているはずだ。
配達帰りにコンビニでも寄って、ちょっと高めのスイーツを買おう。そして戻ってゆっくり食べよう。そう決意を固めた私は、手元の伝票に記された住所を確認する。
この公園からであれば、配達先までは自転車で15分くらいのはずだ。伝票をバッグのポケットに入れ直し、積まれたお弁当の配置を整えると、私は再び自転車に跨った。
◇ ◇ ◇
これが最後の配達だ、と意気込んだまでは良かったが、嫌な予感とはよく的中するもので、自転車のペダルを漕ぎ出して5分も経たないうちに、雨が降り出してきてしまった。それも、なかなかの激しい雨。ゲリラ豪雨とはこのことかと、必死に自転車を前に進めながら眉を寄せる。
天気予報が雨であることを記憶していた私は、念のため撥水加工が施された上着を羽織って来てはいたものの、バケツをひっくり返したような大雨に対しては最早無意味である。中に着込んでいたトレーナーも、インナーも、ものの数分のうちにぐっしょりと濡れてしまった。
荒ぶる天候の中、ぜえぜえと息を上げながらも、なんとか目的地までたどり着くことができた。
自転車から降りて該当の家屋を確認する。お客様のお名前は『竈門』さん。家屋の入口のすぐ横には、『かまどベーカリー』と書かれた立て看板が置かれている。
「パン屋さん……なんだ」
ぽつりと呟いて、自転車の積荷の保温バッグを開ける。少しでも濡れないようにと、8個のお弁当が纏められた大きなビニール袋の上に、持参していたタオルを被せた。
抱え込むようにお弁当を両手で持ち、かまどベーカリーの扉をノックする。コンコン、と軽く2回扉を叩けば、すぐに中から人が出てきてくれた。
「わっ! びしょ濡れじゃないですか!」
玄関を開けて出迎えてくれたのは、額に傷のある少年だった。ころんと丸みを帯びた大きな目と、両耳にぶら下がる花札のような形のピアスが印象的だった。
少年は私の姿を見るや否や、驚きに目を丸くする。しかし驚きながらも、少年は私の肩に手を添えると、すぐに「どうぞ中へ!」と室内に入るよう促してくれた。
「ありがとうございます。お待たせしてすみません。きめつキッチンの配達に参りました」
「とんでもない! この雨の中、ご苦労様です。こんなに沢山重かったですよね」
うちは家族が多いから……と呟きながら心配そうに眉を下げる少年に、いえいえそんなことはと首を横に振る。
伝票を読み上げて注文の品を確認し、お弁当を手渡す。上にかけたタオルを受け取って、ほんの形ばかりではあるが、びしょ濡れの上着を拭いた。
「これ、お金です」と少年から代金を差し出され、ぺこりと頭を下げて受け取る。
「代金丁度ですね。頂戴しました」
「お弁当、すごくおいしそうな匂いがしますね」
「ふふ、ありがとうございます」
「……あれ?」
「え?」
「お姉さん、どこかで……」
少年の言葉に再び顔を上げると、綺麗な赤色の目と視線がかち合った。
脈絡のないその発言に、私は首を傾げる。
「あ! いつも、出荷先のスーパーで……!」
「……スーパー?」
「はい。お姉さん、3丁目のスーパーでお買い物していませんか?」
「えっ」
「あ、いや! その、決して後をつけているとかじゃないんですけど……! ほら俺、家で作ったパンをあのスーパーに卸しているので……!」
「あ、ああ」
しどろもどろな少年の言葉だが、何となく、言いたいことはわかったような気がした。
つまりここ『かまどベーカリー』は、私がよく行くスーパーのベーカリーコーナーに商品を卸していると。ほぼ毎日、しかも大体同じ時間帯に例のスーパーに足を運んで水やら昼食やらを購入している私であれば、卸業者に顔を覚えられていても仕方ないかもしれない。
「すっ、すみません! 見ず知らずの男に突然こんなこと言われても、驚きますよね」
「あ、いえ。あそこのスーパーに置かれているパン、好きですよ」
「えっ」
「ここのベーカリーのパンだったんですね。また買います」
「!」
「では、また」
「ち、ちょっと待って!」
再び頭を下げて店を出ようとする私を制止し、少年はバタバタと店の奥へと引っ込んでいってしまった。制止の意図がわからず、疑問符を浮かべながらも少年の行き先を目で追う。
少しの間をおいて、少年はすぐに店の奥から戻って来た。私の元へ駆け寄ってくる少年の手元には、クロワッサンの絵がプリントされたビニール袋が握られている。
「これ、試作品なんですけど。ほとんど完成形だし、おいしく焼けたので、よかったら食べてみてください」
「え! い、いいんですか」
「はい! 雨の中、お弁当を届けてくれたから」
「わあ……ありがとうございます」
「いえ! それで、もし気に入っていただけたら……できればまた来てほしくて」
はにかむ少年の笑顔につられて、私もついつい笑みを浮かべてしまう。
手渡されたビニール袋に目を落とすと、中からふんわりと甘く香ばしいパンの香りが立ち昇ってくる。先ほど感じた『甘いものを摂取したい欲』が刺激されて、私はごくりと生唾を飲み込んだ。とてもおいしそうだ。
「俺、炭治郎っていいます」
「あ、私は……なまえ、です」
「なまえさんかぁ。素敵な名前ですね」
「えっ、あ、ありがとうございます」
「……また、会えると嬉しいです」
唐突に自分の名前を褒められて、私は再び顔を上げる。不意打ちを食らったような状況に思わず声を裏返らせてしまい、慌てて口元を手で押さえ込んだ。そんな私の様子を見て、炭治郎と名乗った少年は嬉しそうに目を細めている。
少年から向けられた笑顔の糖度があまりにも高くて、私は頬が熱くなるのを感じた。“疲れた体に甘いものが染み渡る”とは、まさにこのことかもしれない。
2021.01.29 これでよろしくて?様の『Secret party』にて提出(※一部加筆)