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「可愛い可愛いなまえ、俺の傍らから決して離れてはいけないよ」
童磨は笑っていた。宝石のように煌めく虹色の瞳に、劣情に似た何かを宿しながら笑っていた。
まるで赤子をあやすように優しい声色で、童磨は女に語り掛ける。胡坐を組んだ自身の膝元に頭を預け、くったりと横たわる女の頬を撫でてやると、なまえと呼ばれた女は心地よさそうに口元を緩めている。そんな彼女を見下ろしながら、かわいい、かわいいと、童磨はまじないをかけるように何度も言葉を降り注ぐ。
「童磨さま、童磨さま」
「どうしたんだい、なまえ」
「名を呼んでほしかっただけです。だから何でもないの」
「ああ、君は愛くるしいねえ」
感嘆の溜め息と共に、心からの本音を漏らすと、なまえは穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見上げてくれた。
頬を撫でていた手を首元に移し、するすると鎖骨の周りを滑らせる。こそばゆいのか、なまえは瞼を閉じて小さく喉を鳴らした。そんな彼女を眺めながら、あまりの愛おしさに童磨は溜め息を漏らす。
きめ細やかで柔らかな肉質のなまえの一部に触れていると、時折、その身体に牙を立ててしまいたくなる。色素の薄いその皮膚を、艶めかしい血の色で鮮やかに染めてみたくなる。しかし、童磨は鬼であるにもかかわらず、空腹に腹を鳴らすことよりも、人間であるなまえを失うことのほうが嫌だと感じていた。
その思いを何と呼ぶのか、感情というものにほとんど興味がない童磨にはわからない。ただ、少なくとも他の人間に対しては抱くことのない思いであると、それだけは理解していた。
「なまえがここへ来てから、どれくらいの時が経ったかな」
「わかりません。とても長い時のように感じます」
「そうだね。君のことを眺めていると、俺の時ですらゆったりと流れているように感じるよ」
「ふふ、童磨さまと同じ時を刻んでいられるなんて。嬉しい」
「……ああ、君のその目……。初めて君に会った日のことを思い出すなぁ」
恍惚とした表情を浮かべ、愛おしいものを見るように細められたなまえの目は、鈍い光を灯していた。
曇りがかったその光に、童磨は既視感を覚える。なまえの柔肌を撫でながら、この光を一体どこで見たのだろうかと、自身の記憶を辿った。
――そうだ。なまえのことを見つけた、あの夜の月明かりに、よく似ているのだ。
手繰り寄せた記憶を懐かしむように、童磨はあの日の情景を思い起こす。
◇ ◇ ◇ 数年前、なまえは重い病を患っていた。
身寄りがなく、物心ついた時には吉原の中見世で禿として働いていたなまえが、自身を蝕む病の存在に気が付いたのは、散茶女郎としてその名を広げようとしていた頃である。
町医者に診てもらっても医師は首を傾げるばかりで、病を治す術を探すだけでも膨大な金がかかった。加えて病の症状を抑える為の調薬代や、薄暗くなった顔色を誤魔化す為の白粉や紅の代価が次々と必要となり、重い負担となって圧し掛かる。お陰で見世からの給金はことごとく消えていくばかり。
いつか大見世へと移り、花魁として名を馳せて、華々しく吉原を去ってやろう。そしていずれは、のどかな町の茶屋で働くなどして、一般の女として幸せに過ごしたい。そう夢見ていたなまえにとって、病に見舞われた状況はもはや絶望と同義だった。
いくら身を削るような思いで働いても、金はなくなるばかりで、病の具合も一向に良くならない。白粉で誤魔化せなくなるほど顔色はどんどん悪くなり、体はやせ細っていく。その体たらくを目にした馴染みの客が離れていくこともあり、やるせない感情に押しつぶされそうになる。
なまえは考えた。この時ばかりは、学がない自分自身を恨んだ記憶すらある。どうすればこの境遇から脱することができるのか。苦労の循環から抜け出し、楽になることができるのか。
今思えば、病による苦痛と休みのない労働によってすっかり疲弊した頭では、まともな判断を下すことができるはずもなかった。
「はっ、……は、げほっ、……ぅ」
薬を服用しても病の症状が治まらず、呼吸が乱れてなかなか寝付けない夜のことだった。
酸素をうまく取り込むことができず意識は朦朧としていたが、なまえは考えることを放棄して、寝衣のまま妓楼を抜け出したのである。
おぼつかない足取りで、目的もなく吉原の街を彷徨う。まるで、死に場所を探し求めるかのように。
目に見えない何かに導かれるようにして辿り着いた場所は、吉原の外れ――貧民街との境にある、
山谷堀。
ほとんど灯りのない、用水路沿いの小道をふらふらと歩いていると、暗がりから不気味な音が響いてくる。まるで人が瑞々しい果物にかぶりつくような、じゅるじゅると小気味悪い音が鼓膜を震わせ、なまえは思わず顔を顰めた。
歩みを止め、音がする方向の暗闇をじっと見つめる。すると、彼女の視線に反応するかのように、ぴたりと音がやんだ。
風によって夜月を覆い隠していた雲が流れ、淡い光が地面を照らし出す。
そうしてようやくなまえの目に映ったものは、人を喰らう童磨の姿だった。
「わぁ! こんばんは。可愛らしい子だねぇ」
「……あ、……」
「こんな夜更けにどうしたの? 君のような女の子が、夜道を一人で出歩くなんて不用心だ」
「…………っ」
「人喰い鬼に、攫わられてしまうよ」
妖しく吊り上げられた口角と、血濡れた口元からちらりと覗く鋭い歯が、月明かりに照らされて闇夜に浮かび上がる。貼り付けたような男の笑顔と異様なまでの雰囲気に、なまえは身震いをするしかなかった。
男の手には人間の脚部と思われるものが握られており、足元には千切れた胴体が転がっている。きっと普通の神経であれば、恐ろしさのあまりに背筋が凍りついてしまうような光景だろう。
しかし、この時のなまえは、恐ろしさなど微塵も感じていなかった。恐怖を抱くよりも、「やっと出会えた」と感涙にむせぶほど、彼女が望んでいたものがそこにはあったのだ。
「あ、あなたは、もしかして、神様……ですか?」
「!」
「汚い人間を殺しに来てくださったのですね。私も……私も、呪いに塗れた身なのです」
「…………。ふむ」
「この身を差し上げます。どうか、どうか私も、その者と同じように殺して……」
崩れ落ちるように膝を付いて、自分のことも殺してほしいと、なまえは泣いて懇願する。
童磨は暫しその姿を黙って見つめていたが、手にしていた人間の死体を徐に放り投げると、一歩、二歩と彼女のもとへ歩み寄っていく。項垂れて嗚咽を漏らすなまえのすぐ側まで近寄り、同じくらいの目線の高さとなるように、地に片膝をついた。
童磨はそのまま血で濡れた手のひらを彼女の頬にそっと添えると、鼻先が触れ合いそうな距離まで顔を寄せる。
「……君のその顔、その身体、病かな?」
「う、うぅっ……」
「ああ可哀想に……息をするのも苦しいだろう。ここまでよく頑張ったね。偉い偉い」
嫣然と微笑みながら、童磨は彼女の頭を撫でてやる。すると途端になまえは顔を歪ませて、ボロボロと大粒の涙を零れ落とした。
童磨は鬼になってからというもの、人を喰らう自分の姿に怯え、恐怖心から涙を流す人間を大量に見てきた。逆に言ってしまえば、童磨が『人ならざるもの』であると理解しておきながら、恐怖以外の感情を含めた涙を浮かべる人間に出会うことが初めてだった。
その泣き顔にひどく心惹かれた童磨は、色とりどりの瞳を輝かせながら、言葉を続ける。
「俺は童磨。神様ではないけれど、万世極楽教の教祖なんだ」
「……ごく、らく……きょう……」
「そう。君のことも、俺が導いてあげよう。名を教えてくれるかい?」
「…………なまえ……」
「うん! 君によく似合う良い名前だね」
屈んだまま、童磨はなまえの体をそうっと抱き寄せる。夜風で冷え切った彼女の体温は、高揚した気分を落ち着かせるのに丁度良い温度だった。
一緒に行こう。童磨はそう笑って、静まり返った暗夜の中、吉原の街からなまえを連れ去ろうと立ち上がる。
童磨と名乗る男の、闇夜に映える金色の髪を見て、嗚呼これが神様に近しいものの美しさなのかと、ただぼんやりとなまえは思うのだった。
◇ ◇ ◇ それから数年の間、童磨は極楽教の信徒からかき集めた情報をもとに、なまえの病の治療のため手を尽くしていた。
己の力ではすっかり稼ぐこともできなくなったなまえの代わりに、治療に必要な金も、信徒から収められる布施で工面した。
なまえの病が悪化して、餌として味が落ちてしまう前に、早々と殺して喰ってしまったって良かった。にもかかわらず、童磨は人間であるなまえを失わない為に、わざわざ手間をかけ時間も費やした。まるで“鬼として”ではなく“人のように”なまえのことを思い、いつしか心からなまえの体調の回復を願うようになっていた。
童磨の献身的な看病の甲斐あって、少しずつなまえの病状は良くなっていった。回復の兆しが見えてくると、なまえはよく喋り、よく笑うようになった。
「童磨さま」と顔を綻ばせながら童磨の名を呼び、飼い主に懐いた犬のように自分の後を付いて回るなまえ――童磨を慕い、彼と生きる時間そのものに幸せを見出しているかのようななまえの姿を見て、この人間の娘と少しでも長い時を共に過ごしたいと、童磨はそう思うようになっていった。
「なまえ」
「はい、童磨さま」
「君の病はじきに回復する。体も随分と思う通りに動くようになったね」
「はい! 全ては童磨さまのおかげです」
「……病が治った暁には、君はここを去ってしまうのかな」
この場所から、…………俺のもとから。
童磨は心の中で呟いた。
それは素朴な疑問であり、口に出すことが躊躇われる問い掛けでもあった。
なまえの病が治癒していくに連れて、童磨の考える機会は多くなっていった。彼女が己の意志でこの場所を去ると言い出した時は、どのような術で食い止めようか。極楽教の信徒でもない人間の娘の心を、どうすれば自分に繋ぎ止めてくことができるのか。
冴えた案は特に思い浮かばないまま、実際に問う時がきてしまったと、童磨は哀感に眉を下げる。しかし、なまえの答えは童磨の予想に反するもので、彼のことをとても驚かせた。
「私の生涯をかけて、童磨さまのお側で、ご愛顧に報いるべきだと思っています」
「……! いいのかい?」
「あ、勿論その……童磨さまさえよろしければ、ですが……」
「嫌なわけないよ!」
ほんのり頬を赤らめて俯くなまえ。自分よりもずっと細くてたおやかなその体を、童磨は力強く抱き寄せる。
よしよしと愛でるようになまえの頭を撫でて、そのまま柔らかい首筋に顔を埋める。体温の上昇とともにふわりと香るかぐわしい匂いに、童磨は思わず生唾を飲み込んだ。そのままちろりと赤い舌を伸ばし、なまえの首筋に這わせると、驚きからか彼女の身体が腕の中で大きく跳ねた。
「んっ」
「可愛いなまえ」
「い、いけません、童磨さま」
「ずっと俺の傍にいておくれ」
祈りを込めて、なまえの耳元で囁く。互いに表情が見えない体制の為、童磨がどのような表情をしてそう囁いたのか、なまえにはわからなかった。ただ、鼓膜を震わせる童磨の声があまりにも優しげな声色だったので、なまえはついうっとりと瞳を潤ませる。
そんな彼女の肩越しに童磨は笑っていた。とても愛おしいものをこの場所に縛り付けておけるようにと、呪いにも似た祈りを込めて、童磨はなまえの名を囁くのだ。
◇ ◇ ◇「童磨さま、どうされたのですか。ぼうっとして」
「!」
「……お疲れでしょうか?」
「大丈夫だよ。少し、君と出会った時のことを思い出していたんだ」
膝元に横たわったまま、心配そうに眉を曇らせ、童磨のことを見上げるなまえ。童磨はそんな彼女の頬を再度撫でてやりながら、心配はいらないとにこやかな笑みを浮かべる。
なまえは安心したのか、ほっと表情をゆるませると、頬を撫でている童磨の手に自身の手を重ねた。彼の大きな手のひらに、すりすりと頬を擦り付けていると、それだけで言いようのない安心感に包まれる。
なまえが安らぎを得ている様子を愛おしそうに見つめていた童磨だったが、ふと、何かを思い出したかのように手を止める。
「あぁ! そう言えば、今日は俺に何か話があるんだったね」
「あ……そうでした。ごめんなさい、つい幸せに浸ってしまって」
「構わないよ。なまえと過ごす時間は、俺も幸せだから」
童磨の言葉に、なまえはつい頬を緩ませる。
暫し童磨に委ねていた体を起こし、向かい合うようにして座り直すと、なまえはその場で正座を組んだ。
「実は、童磨さまにご相談があって」
「うん、どうしたんだい?」
「その……少しの間、ふもとの町の茶屋で働いてみようと思うのですが」
その言葉に、童磨は目を見開く。
なまえが自分からそのようなことを望むのは、ここへ来てから初めてのことだった。
自由に動き回れるようになるほど病状が回復しても、童磨は、なまえを外へ働きに出すようなことはしなかった。むしろなまえが外へ出ることそのものを嫌がり、入用な物は全て寺院の従者に用意させ、なまえが欲しがる物は出来る限り取り寄せ与えていたほどである。
その環境下において、なまえが不満を漏らしたことはこれまで一度もない。それなのに何を今更と、童磨は静かに視線を落とす。
「俺が渡している金では、不足かな」
「あ、い、いえ。生活には何ら問題ありません」
「ならどうして?」
「それは…………」
童磨に何か贈り物をしたい。長らく世話になっている童磨に、自分で稼いだ金で。
頭の中でそう考えてはいたものの、どうしてかと問われてなまえは言葉を詰まらせることしかできない。童磨に内緒で贈り物を用意し、喜んでもらいたかったからだ。
誤魔化すための言葉が浮かばずに言いあぐねていると、先ほどまでとは打って変わって重々しい空気を纏った童磨が、身体の芯から凍り付くような笑みを浮かべた。口角は上がっていても、その目に光は無く、恐ろしいほど冷たい色を宿している。
「残念だけど、それは許してあげられないよ」
「……? 何故、ですか?」
純粋な疑問から、首を傾げるなまえ。彼女は童磨が醸し出す空気の変化に気づくことができなかった。
その疑念の無い瞳に、どうしてか童磨は胸がざわつくような感覚に陥る。
どくり。自身の血の巡る音が、耳まで届いた気がした。
「!! う゛っ」
胸の奥から込み上げる衝動に抗うことなく、童磨は目の前にあったなまえの首元を掴み取り、勢いのまま力任せに持ち上げる。計り知れないほどの握力と重力によって気管を抑え込まれ、なまえの口からは鈍い叫びが零れた。空気を求めて身を捩っても、童磨の腕はびくともしない。
細い首の筋肉がぎりぎりと軋むような感触。手のひらにその感触が伝わっても尚、童磨は力を弱めることなく、なまえに向けて静かに語り掛ける。
「君が人間の男どもから色欲を孕んだ目を向けられるのかと思うと、虫唾が走るよ」
「――ッあ゛、」
「ましてや汚らわしい手で触れられるかもしれないと言うのに」
「ぐ、がっ……ァ……ッは、」
「わぁ、歪んだ表情も可愛いねぇ。吉原で出会った時の君も、そんな顔をしていたね」
恍惚とした表情を浮かべる童磨を目に映して、なまえは揺らぐ意識の中で「ああ、なんて綺麗な瞳をしているのだろう」とぼんやり思った。
ちかちかと視界が白んで、どこか遠いところへ意識を飛ばしてしまいそうになった頃、ようやく童磨の手から解放される。なまえは力なく床に倒れ込むと、不足していた酸素を取り込む為、肺を鳴らしながら空気を吸い込んだ。
童磨はなまえのすぐ傍らでしゃがみ込むと、彼女の頭を優しい手つきで撫でてやる。
「なまえはどこにも行ってはいけないよ。約束しておくれ」
「は……ッ、ぁ、……っ……は、い」
「そうしないと、独占したいと思うあまりに俺は君を殺してしまいそうなんだ」
殺したまま傍らに置いておきたいくらい、愛おしいんだよ。地べたに倒れ込むなまえの姿を見下ろしながら、童磨は奇怪な言葉を降り注ぐ。ぞっとするような声風とは裏腹に、その面持ちはいつも以上に優しかった。
天使にも悪魔にも見えるような童磨の笑みを視界の端に捉え、なまえは恐怖を抱くよりも先に、幸福であることを噛み締めた。そんな自分の感覚に、ずれが生じているかのような違和感を覚える。しかしそれも一瞬のことで、火花のようにすぐに散ってなくなる。
先刻までそうされていたように、優しい手つきで童磨に頬を撫でられると、それだけで彼以外の全てに対する興味が薄れていく。そんななまえの姿を俯瞰しているもう一人のなまえが、心の中で自分自身に語りかけてくるようだった。「お前の心は、もう人になれない」と。
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