エイプリルフーラー
「おはようございまーす」
元気よく開けた職員室の引き戸は軽かった。三学期の終わりに大掃除が行われ、その際に油を塗られたのかもしれない。大きな音が鳴らないように気を付けながら閉めて中を見渡すと、そこにはお目当ての人が一人だけ。それも仏頂面でデスクに向かっていて、私が来たのを悟り更にしわが深くなった。
「……まだ春休みのはずだが」
「自主的に登校日を設けたんだから褒めてほしいんですけど」
「登校したってすることないだろ」
相澤先生は一年生の時の担任だ。入学早々多くの生徒とともに退学させられた私は、なんとか再び雄英の敷居を跨ぐことができた。まあ私を退学させたのも復学させたのもこの人なんだけど、それはこの際どうでもいい。
この、傍から見ると何にもやる気が無さそうな変な人(口に出したら怒られる)に私は恋をしている。寮制になったおかげで、正門の鍵が閉まっている今日でも校舎に入れる。今日を逃す手はない。あれほど準備してきたんだから。準備と言っても頭の中で、繰り返し繰り返しイメトレを重ねたのみだけど。
「せんせ」
「なんだ」
「なんでも……」
「じゃあ呼ぶな」
「はーい」
不毛な会話をしながら先生のところに近付く私は、とても緊張していた。その緊張を誤魔化すためにヘラヘラしているのだ。とうとう真横に来てパソコンを覗き込もうとすると、先生はディスプレイの電源を切った。
「忙しい?」
「暇に見えるか?」
「見えない」
「だろうな」
今は生徒の私に見られてはまずいものを見ていた、あるいは作成していたのだと思う。とんだ邪魔に入ってしまった。嫌われたいわけでも邪魔をしたいわけでもないのに。
でも、せっかくの空間で引き下がるという選択肢はない。私はキーボードを押しのけて机に座った。そんなはしたない行動を見て、先生はさすがにぎょっとしている。机に腰掛けた生徒に見下ろされるなんて、きっと初めての経験だろう。
「どういうつもりだ」
「見たまんまです」
先生はぴくりと眉をひそめた。恐らく、私の表情が先ほどまでのへらへらした顔だったなら、ここでもう一度退学を食らっていた。だけどそうしなかったのは、私がド緊張して何かを言おうとしていたからだ。
「先生、あの」
そこまで言って、次の言葉を言うために息を吸うまでにかなりの時間を費やした。先生はその間私から目を逸らさない。「言ってみろ」と言わんばかりの顔だった。
私がかすれた声で「好きです」と言えたのは、数分間の沈黙のあと。先生は私の言葉を恐らく予測していただろう。少なくとも私が机を陣取ったあとは。だから先生はあまり動揺していなかったけど、何と応えるべきかは注意して考えているように見えた。
「……俺が返答に困ることを見越しての言葉なんだろうな?」
「はい」
「それでも言おうと思ったわけだ」
「そうです」
「まいったな……」
思わず「まいった」と口にするほどまいっているらしい。これまで生徒に好意を寄せられたことが無いのだろうか。こんなに素敵な人なのに? それはない。相澤先生の良さを、他のみんなが理解できないはずはない。ただ、私ほど無茶な告白をする生徒は居なかったのかもしれない。
「私、相澤先生が好き」
「一度聞けば分かる」
「ねえ」
「分かったから」
その時先生は、初めて少しうっとうしいような素振りを見せた。困ってるだけじゃなく、私の気持ちを迷惑で鬱陶しいと思っている。もちろん勝算があったわけではないけど予想外で、ショックだった。もうこの人に「好き」という感情を抱くことすら諦めたくなるくらいに。
「……ごめんなさい。嘘です」
力なく言うと、先生はまたぴくりと眉を動かした。
「エイプリルフールだもん」
案外早くにこの手を使う羽目になってしまった。何かあればエイプリルフールを使ってしまえばいいと思って今日を選んだものの、もう少し上手く伝えられれば結果は違ったかもしれないのに。少なくとも、先生に「鬱陶しい」と思われることは無かったかも。
先生はしばらく何も言わなかった。いきなり押しかけてきた生徒が自分の机に座って嘘をついたというのに、怒る様子も呆れる様子もない。やがて一言、低く呟いた。
「そういう嘘はよくないな」
私を慰めるような言い方。あ、これ、振られた? そう錯覚するくらいに優しくて穏やか。私が傷ついてこの場で泣き出さないように配慮しているかのような。このまま「すみませんでした」と言って職員室から居なくなれば、一学期からは何事もなく顔を合わせられる気がした……が。
「で、本音は?」
「え」
「一方的な嘘をつかれたままで居るのは気分が悪い」
先生は私を帰そうとはしなかった。それどころか座っていたはずの椅子から立ち上がり、今度は先生が私を見下ろしている。
「言ってみろ」
先生の姿で陰になって、視界が暗くなる。やっぱり怒ってるじゃん。もしかしなくても、仕返ししようとしてるじゃん。
「……っ、いじわる」
「何もしてないだろ」
「してるでしょ」
「何を?」
「私を……」
そのやり取りをしながらも、先生はぐんぐん身体を曲げて私に近付いてきた。もう先生の顔は文字どおり目と鼻の先だ。たった今告白した相手の顔がそんなところにあるなんて、頭がおかしくなりそうである。
「私の気持ち、分かってるくせに言わせようと」
私の息遣いすらも彼の耳には届いているだろう。先生の片手が机に置かれ、既に私の体重を支えている机がギシリと軋む。こういうのじゃない。こういうのは望んでないのに、先生を押し返す気は起こらない。
「度胸見せろよ。ヒーロー免許持ってるくせに」
「か……仮だもん」
「仮免は免罪符じゃないぞ」
そう言ったのを最後に、私は目が見えなくなった。先生の手が私の視界を覆い隠して、真っ暗闇になったのだ。それでも分かるのは目の前に先生が居ることと、私が少しでも動けば鼻とか唇がくっついてしまいそうなこと。触覚と聴覚が異様に冴え渡る。ついに、私の耳元に何かが当たった。鼻? 口? 頬? なに? 先生の息がすぐそこに聞こえる。ぞわぞわする。へんになりそう。
「……っせんせ……」
暗闇の中、思わずぎゅうっと掴んだのは恐らく先生の服だ。自分でも信じられないくらい強く掴んでしまった、それを境に突然視界が明るくなった。先生が手を離したようだ。
「……なんてな」
「え」
「下らんエイプリルフールは終わり。さっさと寮に戻れ」
先生は椅子を引き、机から一歩下がって私の降りるスペースを開けた。身体中が熱い私はなかなか動けなくて、先生の顔も見れない。今の行動は先生側からのエイプリルフール? あまりにも私の気持ちを踏みにじっている。けど、単純に踏みにじられただけとも感じない。感じたくない。
「……先生」
今のは何ですか、どういうつもりですか。そこまで口にしなくとも彼は分かるだろう。私の聞きたいことくらい。その証拠に、相澤先生は動じる様子もなく私の手を取り机から降りさせた。そして私がドアに向かって歩き始めた時、背中を軽く叩きながらこう言われた。
「仕掛ける日をしくじったな」
私がもう振り向けないのを分かってるくせに、そんなこと言わなくたっていいじゃん。今日じゃなければ結果が違ったかもなんて、そんな夢を見させなくたっていいじゃん。二度と私が告白出来ないようにしておきながら、簡単には先生から気持ちが離れないような手段を取られた。ほんと、仕掛ける日を間違えた。最悪の日だ。
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