03
買ったばかりのタピオカドリンクは、乱暴に机の上に置いた。おかげで片方は倒れて中身がこぼれてしまったけれど、それどころじゃない。ぼたぼたと床に落ちていく黒い粒が今は生々しく見えてしまう。そう、とても生々しい状況。俺のせいで女の子が危険にさらされるかも知れない。どんなに彼女の性格が悪くても、生命あるものは護らなくてはならないのだ。それがヒーローの勤めなのだから。
部屋の中を確認しながら急いで仕事用のスマホを取り出すと、俺は依頼主であるマネージャーの連絡先へ発信した。すぐに応答した相手側からは、気の抜けた声が。
『はい』
「鈴木さん! 佐々木さん一緒ですか?」
『えっ? いや……楽屋の中では』
「ごめんなさい! 目を離した隙に居なくなって」
『えーっ?』
鈴木さんはびっくり仰天していたが、それは恐怖と言うよりも呆れた様子の声だった。
偶然そう聞こえただけなのかとも思ったが、恐らくそうではない。鈴木さんという人間には、危機管理能力があまり備わっていないのだと思えた。その証拠に彼は、弱々しくだらだらと続けた。
『すみません……すぐどこか行くんですよあの子……』
「それだけなら良いんですけど誘拐の可能性もありますから。通報しててください!」
『え、誘拐!?』
「何ビビってんすか、だから俺を雇ったんでしょ」
俺より歳上の男に、どうしてこんな説教じみた事を言わなきゃならないのか。思わず怒鳴りつけてしまうのを堪えて、俺はいったん電話を切った。
「平和ボケしてんなぁもう……」
それも仕方のない事だとは思う。どんなに小さな事件でも、何かが起きればすぐに通報されてヒーローが駆けつける世の中だ。鍵のかかった密室でも、高層ビルの最上階でも、たとえば地中の奥深くだって、それぞれ得意分野とするヒーローは必ず存在する。
だからと言って一般人が己の警戒心を解いていいはずは無い。鈴木さんには後から強く言ってやるとして、まずは佐々木さんの捜索だ。
『おかけになった電話は電源が入っていないため……』
鈴木さんに送ってもらった佐々木さんの連絡先を登録し、発信してみるもいっこうに繋がらない。犯人によってスマホを壊されてしまったか、それとも? 最悪の事態を想定しながらも俺は部屋を飛び出して、再び空に羽根を広げた。
「きゃーーっ!」
そしてすぐ近くの繁華街に来た時、耳をつんざく悲鳴が聞こえた。女性のものだ。しかも複数の。声は俺の飛んでいるほぼ真下から聞こえ、見下ろしてみるとざわざわと人の波が蠢いていた。
何か新しい事件があったのか、または佐々木さんの誘拐と関連している事か、どちらにしても見過ごすわけには行かない。すぐに地面に降り立って、人混みをかき分けながら悲鳴の原因を探した。
「どうしました……っ」
「佐々木優里じゃん! ホンモノ?」
「かわいー!」
「フツーに歩いてる!」
俺は驚いた。そりゃあもうすっごく驚いた。肝を冷やして大慌てで探し回ろうとしていたその対象が、元気な姿で繁華街の中心に居たのだ。しかもニコニコと笑いながら、ファンと思しき若い女の子に囲まれて。
「へへ。たまには自由に歩きたくって来ちゃいましたぁ」
「握手握手握手してっ」
「はーい」
わらわらと集まっていく女の子の集団、中には男たちも居る。まだ状況を掴みきれない俺はその中に怪しい人物が居ないかどうかを探してみたが、どうもそんな様子は無く。
ようやく全てを理解したのは、へらへらとファン対応をする佐々木さんと目が合った時だ。「げっ」という苦々しい顔をされ、俺は悟ってしまった。彼女は誘拐されたのではなく、自らあの部屋を抜け出したのだ。
「……あのね、ちょっと……」
「あーっ!!」
佐々木さんに声を掛けようとした時、今度は俺の耳元で大音量の悲鳴が聞こえた。明らかに俺に向けて発せられた声。その声で周囲の人たちはいっせいに俺を見た。何を隠そう俺も、佐々木さんに負けず劣らずの有名人なのである。
「ホークスだ!」
「何してるの!?」
「嘘、え、なにホンモノ」
「なんでなんで!?」
「うわわっ」
これまで佐々木さんに集まっていた人たちも、そうではなかった人たちも、ここにホークスが居るぞと聞こえた人が押し寄せてきた。
参った。俺はここにファンとの交流をしにきたわけじゃない。まだ仕事の真っ最中で、佐々木さんに物申したい事が山ほどあるのだ。こんな人混みの中で言うべきではないから、今はまだ留めているけれど。
なんとか人の間をくぐり抜けて佐々木さんのそばに到着し、俺たちは少しだけ睨み合った。俺と佐々木さん以外の人は、まさか俺たちが「睨み合っている」なんて気付きもしないくらいの一瞬の事であったが。
「すみませんね、ちょっと彼女借りますからね」
「……ちぇ。もう見つかった」
残念そうに口を尖らせる佐々木さんは、それはそれは絵に描いたような可愛らしい表情をしていたけれど、顔以外は可愛いだなんて思えなかった。なにが「もう見つかった」だ。俺は隠れんぼの相手をするために居るわけじゃないぞ。
俺はタクシーを止めてその中に佐々木さんを押し込み、自分も隣に乗り込んだ。羽が邪魔だのなんだの言われたが無視を貫いた。抱えて飛んで帰ればすぐなのに、それをしようとすると「セクハラじゃん」と言われてしまったからだ。
誰がセクハラするんだっつーの、俺は高校生に手を出すほど落ちぶれていないし困ってもいない。……が、そんな事を言えばますます彼女の癇に障るだろうし、とにかく無言で耐え抜いた。
「はい。タピオカです」
元いたビルの控え室に連れ帰ると、俺は頼まれていたタピオカドリンクを差し出した。片方はあいにく倒れて床にこぼれているので、もちろん無事なほうを。とは言え時間が経って氷は溶け、味は薄くなっているだろうが。
佐々木さんはそのタピオカと、床に落ちたタピオカを交互に眺めて言った。
「いらなーい。今おなかいっぱい」
「……そーですか」
今すぐ右手に持ったタピオカの容器を握り潰して投げ付けてやりたい衝動にかられるが、なんとか耐えておいた。佐々木さんが要らないなら俺がいただこう。俺の金で買ったんだから。
生まれて初めて体験したタピオカの味は溶けきった氷のおかげで薄く、あまり美味しいとは思えない。おまけに苛々しているので味覚だって鈍くなっている。今夜はやけ酒、やけ食いかもしれない。
全部を飲み干したのに下のほうに溜まったままのタピオカを、吸い上げる気力はもう無かった。もう一度それを机に置いて、次に目に入ったのは佐々木さんが持っていた袋だ。さっき抜け出した時に買ったらしい。中身が見えた時は憎々しくってどうしようかと思ったが、つまり、佐々木さんも佐々木さんでタピオカドリンクを買っていた。俺に買いに行かせておいて、どう言うつもりだこの女。また筋がキレそうになるのを我慢して、俺は佐々木さんの買ってきたタピオカを手に取った。
「あっ、ちょっと何すんの」
「お腹いっぱいなんでしょ?」
「ソレは飲みたいの!」
「駄目です」
なにが「駄目」なのかうまく説明するのは難しい。俺は今、頭に血が登りかけているからだ。だけどたった今タピオカを飲んだばかりなので、すぐにもう一杯飲めるはずもなく。キャンキャンと文句を言う佐々木さんの声を抑えるためにも、彼女のタピオカは元に戻した。
そして、それとともに冷静さを取り戻すため深く呼吸をした。感情のままに言い争ったのでは仕事にならない。彼女に自分の危機的状況を理解させなければ。
「あなた殺害予告されてんですよ。分かってるんですか?」
俺はきわめて冷静に、対等に接するよう心がけながら訴えた。こういう子は子ども扱いされるのを嫌うはずだから。
しかし俺の言葉はあまり届かなかったらしく、佐々木さんはツンケンしたままで答えた。
「分かってるよ。だからアンタが居るんでしょ」
「それなら俺のそばから離れないで下さい」
「取り逃がすそっちが悪いんじゃないの?」
俺は大人だ。相手は子ども。大人は我慢しなきゃならない。大人だから。仕事の依頼主だし、この護衛任務が無事に終われば報酬を貰って退散し、その後は一生関わらなくてもいい相手。だから怒ってはならない。この子に力で勝る俺が、男の俺が年下の女の子に怒るなんてあってはならない事だ。
頭の中で呪文のように言い聞かせながら深呼吸をし、俺は佐々木さんに怒鳴るのを耐え抜いた……が。
「いい加減にしなきゃ怒るよ」
やっぱり俺はまだまだ甘い。なんの反省もしないでスマホを触る佐々木さんの腕を強く掴んでしまった。びっくりしてスマホを取り落とした彼女は鋭い目で俺を睨み上げる。だけど俺も佐々木さんを睨んでいた。俺は怒るのは我慢したけれども、彼女を「叱る」のは我慢できなかったのである。
「……ナニソレ」
佐々木さんは吐き捨てるように言うと、俺の手を振り払った。
その時の彼女の瞳はほんの少し恐怖していて、戸惑っているかに見えた。きっと俺の言いたい事を、頭では理解しているのだ。素直に聞き入れる心が無いのかも。それはそれで問題だけど俺はちょっぴり安心した、佐々木さんは人の心を忘れた冷たい女の子ってわけでは無さそうだから。ただ、とてつもなくヒネクレているだけで。
「優里ー、お待たせお待たせ」
気まずい空気が流れる部屋にノックが聞こえ、鈴木さんがひょっこりと入り込んできた。「勝手にどこかに行っちゃ駄目だよ」と宥める鈴木さんは、佐々木さんが般若のように俺を睨み付けていたのは気付いていないようだ。
しかし第三者の声で少しだけ我に返った佐々木さんは、自分で買ったタピオカと鞄とを手に取って立ち上がった。次の現場に移動しなければならないようだ。
「じゃあ行きましょうか、ホークスさんも……」
「あ、はい」
「ちょっと待って」
一緒に移動しようとする俺を制したのは佐々木さんだった。部屋の入口で仁王立ちをし、硝子のような瞳で俺を見ている。そして、その目はみかづき型に細められた。勝ち誇ったように、嫌味ったらしく。
「ホークスはソレ、片付けなきゃだよ」
ソレと言いながら彼女が指さしたのは、床に散らばったままのタピオカたちであった。
それはそうだ、俺がこぼしたのだから。俺がやったんだけど。誰のせいだよ。きみが買って来いと言ったもので、きみのせいで慌ててこぼしてしまったんだろう。
……と鈴木さんの前で取り乱したくもなかったし、何より佐々木さんに感情的な姿を見せたら負けな気がして、「そうでしたぁ」と笑って返すのに尽力した。殺害予告のあった「一ヶ月以内」が終わるまで残り三週間、俺は堪忍袋の緒を保つ事ができるだろうか。
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