B




遠ざかっていくシエルの足音が、俺に諦めろと激励する。
喉が震える。足がすくむ。自然と回れ右しかけた俺の身体を止めたのは、駆け寄ってきたイヴェールの腕。気がつけば背後からその檻に捕えられていた。


「っ、離せっ!」

「離すとこの前みたく飛び出してくだろ」

「当たり前だ!離せよ、セクハラ野郎っ」

「セクハラでも良いから。もうちょっとこのまま、」


そう言い終えたイヴェールは腕の力を強くした。その拘束に抵抗しようとしても、意思に反して喉の奥から沸き上がってくるものが、許してくれない。ちょうど肩の位置からから伝わる懐かしい鼓動に、会わないでいた時の比ではない切なさと、愛おしさとでも呼ぶべきものが湧き出てくる。湧き出るだけじゃ飽き足らず、俺の逃げようとする意志さえにもがんじがらめに巻きつく。腰にまわされた腕が伝える温度が違う体温に、くらくらと眩暈さえした。

結局俺はこの男を忘れられない。その事を改めて突きつけられたみたいで愕然とした。呆然を通り越して腹が立ってくる。ならその怒りにまかせに肘打ちかましてでも逃げようか。実際に身構えた所で、目ざといイヴェールは俺の腕そのものを掴んだ。


「肘打ちかまそうなんて考えるなよ」


あっさり自分の行動がばれて冷や汗が流れる。なんだこいつ、人の心が読めるのか。


「か、考えてねぇよ!」

「…見くびるなよ、お前の考えてることなんて大体察しがつく」


なんせサンは馬鹿だから。

思わず唸る。言われたことは非常にむかつくことなんだけど、耳元で熱っぽく囁かれて陥落しない女はいるだろうか、いやいない。
そうだよ、どうせ。イヴェールの言うとおりだ。俺はどうしようもない馬鹿。惚れたほうが負けって酒場の男たちが歌うように、俺はイヴェールのことではどんどん馬鹿になる。
肩に埋まった口が、何度も何度も俺の名前を呼んだ。それだけで、滑車で出来ている俺の心臓は、加速してうるさい音を巻き散らす。もちろん、からから回してもてあそんでるのはイヴェールだ。たちが悪いことに、その滑車が引き上げるものは俺の理性。最悪だ。もうすぐこいつが他の女のものになってしまうことなんて関係なく思えてくる。だって今、こんな傍に、この一週間嫌でも思い浮かべてしまっていた存在が居るじゃないか。他の女の所じゃなくて。くるりと体勢を反転させられて真正面から抱き寄せられる。今度は抵抗しなかった。


「勝手に先走りしやがって。僕をふるんだったら、ちゃんと人の話を聞いてからにしろ」

「……今、聞く」

「なら、逃げ出さずにちゃんと聞けよ」


イヴェールは苦笑した。顔は見えないけど何となく分かる。イヴェールは苦笑いする時、大体よくつりあげる目の端を困ったように歪めて、しょうがないなとでも言わんばかりに口を緩ませる。今も多分そんな表情をしているだろう。そこまで分かってしまう自分が恨めしい。
イヴェールの話は、俺を抱き締めたまま静かに始まった。


「まず、頼みたいことがある」

「…なに」


少し緩まった力に顔を上げると、真剣な眼差しとぶつかった。珍しい組み合わせの両目にじっと見つめられて、思わず喉が鳴る。その視線と同じような声が、イヴェールの声音で歌うように紡がれた。



「僕をサンの仕事仲間に加えてくれないか」













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