見張り番しか目を開けていないような朝早く、一人デッキに立ったイドルフリートは、霧に隠されて見えない島の影と海図とを見比べつつ、ふむと一つ頷いた。 昨夜は遅番だったので起床時刻はいつもより遅く、船員の怒鳴り声など諸々を目覚まし時計にして目が覚めた。船の上の一日は忙しなく、矢のように飛んでいくのが常識である。しかし他と目覚める時刻が違うだけでも多めに休息を取った心持ちになり、いつにない爽やかな気分でコルテスは起き上がろうとした。 が、違和感を感じて首を捻る。ベッドを降りるために動かそうとした両足が、ぴくりとも反応しないのだ。 (寝る前に怪我でもしたか……?) いやそんな筈は、と昨夜の記憶をひっくり返すも思い当たる節はなく。嫌な予感がして、恐る恐る足元へ視線を移す。すると、要因は謎のままだが原因はすぐに発見できた。 ――足首が、ご丁寧に赤いリボンで縛られている。困惑するまでもない、その見覚えのありすぎるリボンは、この船の持ち主である男のもので、それならコルテスの身動きを取れなくした犯人も同一人物だろうということがすぐに理解できた。 そして海の男は総じて“結び”に関しやたらプロである。簡単に解けそうに見えて、きっと自分一人では緩めることも出来ない。 起きてすぐ頭の痛い現状があることにコルテスは痛い場所を抱えたが、天が味方したのか現状突破に成功するのは思ったより早かった。 「しょっ将軍!こんな所にいたんですか!?」 突然扉が盛大な音を立てて開かれ、船員の一人が中に駆け込んでくる。 「いたも何も、俺は今日遅番だぞ……。それよりだな、」 「いや、遅番かどうかはともかく、大変なことが起こってるんです!」 その必死の形相に、コルテスは一瞬で顔を引き締めた。寝起きで緩んでいた表情がぐんと精悍さを増し、お国柄である情熱的な面立ちに無精ひげが渋い美丈夫が現れる。ただし足は縛られたまま。 「どうした」 「それが、俺らにもよく分からなくて」 「はぁ?」 取りあえず来てください!と腕を引っ張られそうになり、コルテスは慌てて船員を制止させた。 「それよりまず、このリボンを解いてくれないか」 コルテスが寝ていた部屋が、実は足を縛りつけた犯人の部屋であることを聞いたのは寝耳に水だった。だから先ほどの発言に至ったわけだ。 しかし昨晩は酒も飲まずに、仕事が終わって自室へ直行した筈で、部屋の扉をくぐった記憶もしっかりある。そうすると、犯人が寝ている自分を移動させて朝起きた時の状態にしたに違いない。優秀な脳みそを残念なことにしか使えない航海士を思い浮かべながら、コルテスは早足で現場に急行した。 デッキに出ると、珍しく朝も遅いこの時刻まで霧が僅かに残っていることに驚く。そして船頭付近では、十数人くらいの乗組員が人垣を作り何かを囲んで騒いでいた。 「お前ら何騒いでんだ」 「将軍!」 「コルテス将軍っ」 救世主が来た!と言わんばかりの視線が一気にこちらへ集まり、コルテスは眉間に皺を寄せる。ろくでも無いことが待ち受けているのは、その視線で一目瞭然だった。 「それが、海賊と名乗る連中がですね……」 その先を言いよどんだ一人に変わり、別の者が「あちらです」と船頭の方を指差した。そこには、船員ではない質素な身なりをした男が三名、何故かシーツだけしか身に着けていない俯いた女性が一名、それぞれ誘拐犯と人質といった体でこちらを見ていた。男のうち一人は女性にナイフをつきつけている。大変どころかかなり危険な事態である。 「女を傷つけられたくなかったら、大人しく船長の身柄と船を明け渡せって言うんですよ!ウチの船、女なんて一人も乗せてないのに」 「奴らは船長の女だって言うんです。でもイドルフリートさんどこにも居ないから誰も証明できなくて」 「取りあえず船長の次に偉い人を呼んで来いって言うから、コルテスさんを呼びに来た次第です!」 矢継ぎ早にまくしたてられた状況報告に、段々頭が痛くなってきた。船長は確かにイドルフリートだが、名目も実質もリーダーはコルテスだ。普段からそのことを全く意識されていないことがよーく分かり、がくりと項垂れた。船員達を阿呆と看破できず、実力行使しないで次の権力者を呼んでくる海賊もどこか抜けていると言わざるを得ない。 そして一番問題なのは、この騒ぎを大きくした張本人だ。 肩まで覆うシーツを胸元で掻き集めて怯えた素振りを見せる女性に、コルテスはつかつかと早足に歩み寄り、徐にその頭に容赦ない一撃を食らわせた。その場にいた乗組員全員があんぐりと顔中を広げる。人質にナイフを突き立てていた男達も口を大きく開いていたが、我に返る前に一睨みすると息を飲んで後ずさったので、コルテスは内心訝しんだ。最近の海賊はここまで弱気だっただろうか。しかし男達を抑えて素性を聞き出すのは後からでも出来るので、今は目先の問題に取り組むべきだと思い直す。コルテスは腕を組んで言い放った。 「で、お前から何か他に言うことは?船長殿」 周囲を微塵にも気にせず、怯えていた筈の女性はにっこり微笑み、その口から女性にしては野太い声を発する。 「特に何もないぞ、コルテス将軍」 同時にシーツから伸びた足が、自らを拘束していた男の急所を後ろ蹴りで仕留めた。横の二人も、片方はコルテスが手刀で、もう片方は最初の一人と同じ要領(回し蹴り)で昏倒させられる。 間髪入れずコルテスが縄を持ってくるように指示している間、謎の女性が何気なく顔を隠していた金髪を横にどかし、海に数人分の悲鳴が上がっることとなった。陰になって見えなかった部分に、長い航海上見慣れてしまった男が隠れていたのだ。密かに美人そうな女性に目を付けていた何人かは、床板に膝をつけて男泣きする。女っ気の皆無なこの船では無理もない。コルテスはそちらに哀れみの視線を送った。 「流石将軍、一発で見抜けるとは」 「俺にとっては見抜けないほうが分からないがね」 「……だから君がすぐこちらへ来ないようにしていたのに。はぁ、つまらん」 「つまらんで済む問題じゃねぇぞ」 「あのー、素朴な疑問なんですが、船長の胸についてるのは……?」 全くお前はいつもいつも!コルテスが目の前の女装航海士にいつもの説教をするために声を張り上げようとしたのを遮り、船員のひとりがおずおずと挙手した。 コルテスは怒りを飲み込み、そこで漸く天変地異に気づいた。そう、謎の人質女性に身を扮したイドルフリートの胸には、シーツ越しに柔らかそうな隆起が二つ、前日まではぺったんこだったそこへ鎮座していたのだ。この魅惑の膨らみの為に、誰もが彼女の正体を見抜けなかったと言えるかもしれない。イドルフリートはふふんと笑って、腰に手を当てながら胸を強調する。 「ああ、良いおっぱいだろう!今朝起きたら生えてたんだ」 成程ありうる、という流れになりかけていたが、コルテスは無言でそこへ手を伸した。シーツの上部を持ち上げると、ざざっと音を立てて膨らみが二つとも降下する。それは臍の位置で止まり、船の沈黙を誘った。 「コルテス、ノリが悪い中年は嫌われるぞ」 イドルフリートは観念し、膨らみの元である物を胸元から取り出してコルテスに差し出す。それは、やや大きめな熟した二つの桃だった。 「偽乳ではしゃぐいい歳した野郎もな。せめてもっと完成度上げてから出直してこい」 どこか生暖かい桃を二つ手の上で転がしながら、コルテスは盛大な溜息をつく。 折角目覚めは気分が良かったというのに、朝っぱらからこんな事態になるとは、今日一日の行方が思いやられると言うものだ。 まずは遅れが出てしまった作業の帳尻を合わせる為各自に指示を飛ばし、この場でシーツを脱ぎはじめる男を室内に蹴飛ばした。 日が暮れると風が出てきたようで、波と船を撫で揺らして去っていく。コルテスは事務処理を進める傍ら、自分で剥いた例の桃をつまみながら部屋主よりもくつろいでいるイドルフリートの話に耳を傾けていた。歳は一回りも下で態度に難がありまくるが、海の話題になると彼の方が一枚も二枚も上手なのである。 「この海域に、朝霧に隠れて船を乗っ取る少人数の海賊が現れるというのは、前の港で聞いたのさ。今日一番に天気を観たら霧が濃かったから、もしかしたらと思って一番船長室みたいなコルテスの部屋で張ってみた。まさか本当に引っかかるとは……いやあ、面白かった」 イドルフリートの待ち伏せ方法については、これ以上疲れるのを避けるために言及しない。 点在する小島の住人が数人で組んで大型船を乗っ取る話を、イドルフリートは知っている限り話し始めた。霧で姿を隠して獲物の横につけ、少人数のフットワークの軽さで気づかれることなく乗り込み、船長室におわします権力者を拘束することで船の支配権を得るのだという。実際に同じ手口で何件も被害が出ているらしい。 「少人数の彼らは、ほとんど貧しい農民の人間。農作業よりこちらの方が稼げるのは分かるが、今回は大型船を襲う話に興味を持った近くの島の数人が実行したようだね」 「興味本位で、か。海賊も堕ちたもんだな」 「広い海の上で、何を海賊行為とするかは船によって違うだろう。それに、新大陸への確固とした航路を切り開いてしまえば、これからそこを行きかう船を狙っての私掠船が今より増える。そう、我々がこの海から、人災のないある意味の平和を奪うんだよ」 数か国が共同して、海の上での略奪行為を一律して海賊行為と見なし、禁止する法律を作る動きもあるようだが、果たして未開の地に眠る黄金に目が眩んだ奴らにどこまで利くだろう。 イドルフリートは大げさに肩をすくめて嘆いて見せた。 「嘆いてる割には、今日の奴らに寛大な処置を申し出たな」 コルテスは男達を即海に投げ捨てるつもりでいたが、その前にイドルフリートの制止によって、彼らを縄で縛ったまま小舟に乗せて波の気まぐれにまかせて流したのであった。ペンを一度置いて、青年の真意を読み取ろうとコルテスは目を眇める。倒れないように固定されている蝋燭の光が、青年を蜂蜜色に染めていた。 「明日の昼以降、大風の影響で波が高くなる。余程運が良くなければ、海に落とすのと変わりないと思うのだが」 対してイドルフリートは、何でもないことのようにとんでもないことをさらっと述べた。 「……明日の帆の当番に指示は」 「勿論、出してあるさ!もっと様子を見なければいけないが、現在の風の向きであれば一気に距離が稼げられるぞ、コルテス」 「イド。出来ればな、それは前もって俺に知らせてくれ……!」 コルテスは今まで認めていた書類をくしゃくしゃに丸める。内容は、明日の船の操縦を担当する者達への指示書だった。大風なら数日は影響されるだろうし、指示も担当する顔ぶれも変わってくるので、大幅な変更が必要になる。 増えた仕事に徹夜を覚悟したコルテスを、イドルフリートは「がんばれー」とやる気のない応援で励ます。その顔は明らかにコルテスへの心配よりも桃の方に集中していた。船長のくせに手伝おうとする素振りは皆無で、コルテスは腹を括る。海図と戦うのは別として、彼は事務処理を面倒くさがる人物だ。手伝いを頼もうとした所で逆に邪魔される可能性大である。 コルテスが再びペンを取ってからも、イドルフリートの指は桃を消化するためせっせと往復する。黄色のそれを口に運ぶ時だけ僅かに目元を和ませるのを見て、そういえばイドルフリートが昔から桃を好んでいたことを思い出した。 「お前、桃は美味そうに食べるよな」 懐かしむように独りごちると、今まさに口の中に消えようとしていた一切れがそのまま静止した。態々唇が閉じられ、じとりとした視線を向けられる。そこには多少なりとも険が含まれていて、コルテスは瞬時に何処の地雷を踏んだかを考えなければいけなかった。 奇天烈な性格をしているイドルフリートには、踏んではいけない物が多く散らばっている。下手にそこで躓くと、如何にコルテスと言えど暴走を止められるかどうかは微妙だ。 しかし、予期に反しイドルフリートはそれ以上機嫌を損ねることもなかった。つまんだままの黄桃をエメラルドグリーンに映し、次いでコルテスの方に向き直る。二種類の黄色系に凝視されて、妙な迫力を演出していた。 「……覚えてないのなら、私が君を責めるのは道理じゃないか」 「何か言ったか?」 「いいや、何も。それより君も食べるかい、偽乳」 勧められると同時にその一切れがこちらへ突進し、無理やり口内にねじ込まれる。反射的に口が開いて、それを確認したイドルフリートに桃をぽいっと投げ込まれた。 「ぐっ!が、いひなりはへろ!!」 「せめて人間語を話してくれないか、低能め」 危うく丸のみしそうになった固まりを寸前に奥歯でキャッチし、抗議しながら咀嚼する。重みのある甘さと酸味が胸を焼き、思わず呻いた。よくこんな濃厚なものを食べ続けていられるなと、変な方向に感心を抱いてしまう。イドルフリートは最後の桃を自分の口に放り込み指についた汁を舐め取ると、満足したのかベッドに転がった。 「何でそこに転がる」 「君は徹夜だろう。私と睡眠時間被らないなら別にいいじゃないか」 「待て待て待て、ここで寝る理由になってないぞ」 「それじゃあお休み、良い夜を」 お休みと言っておきながら、いつの間にか取り出した本を広げる航海士は、これ以上の言葉に聞く耳を持たない。自由気儘とやりたい放題の堺を器用に渡り歩くイドルフリートと共に仕事をする過程で諦めを覚えたコルテスは、溜息を噛み殺して、少しでも睡眠時間が取れるよう作業に戻ったのだった。 黄昏に染まった港で、子どもがじっと波を見つめていた。その子どもが空きっ腹であることに気づいた通りすがりの青年は、持っていた紙袋から果物を一つ取り出し、無表情のままの子どもに手渡す。 「お前の髪がコレと同じ色してて面白いから、やるよ」 その色は、当時は鏡も見たことがなかったから知らなかったけれど、実際はもっとその果物より薄い色をしていた。けれど沈む夕日に浸かった子どもの髪は濃く染まり、青年が手渡してきた果物にそっくりだった。やがてその青年とも別れ、子どもは暗くて狭くていつも揺れている元居た場所に戻る。そっとその果物を取り出して、子どもは皮を剥くことも知らないまま噛り付いた。 捏造するなら今のうち今のうち。TNGに出てくる桃はトマト若しくはOSIRIの比喩だったりするかもしれないですが、普通の桃を美味しそうに食べてるファーティーも可愛いです。 |