浅い眠りの中、風に吹かれたシャボン玉のように多くの場面が浮かんでは消えていく。それは他愛もない昔のことを映したものばかりで、意識はどこにも引っかからず漂い続ける。しかし目の前一本の大きな木が現れ、何か見覚えあるなと思いつつ横目に過ぎ去ろうとした途端、一気に身体がそこへ吸い込まれ、その瞬間、太陽と月が頭の上から笑いかけてきたような気がした。

――唐突に目が覚めたことに驚いて、掠れた視界を呆然と見つめる。寝苦しかったわけでなく、悪夢にうなされたわけでもない、直前に見た光景もどこか曖昧で、身体だけが現状を知っていると言わんばかりに気だるさを訴えていた。まだ夜は明けていないようで、見慣れた家具は輪郭を残して闇に包まれている。そこで輪郭が見られる位の灯りが部屋に灯っていることに気づき首をめぐらせると、布を被せたランタンを頼りに相方が手紙を書いている姿を認めた。ソファーの手すりに厚い雑誌を置き、その上に紙を乗せて寝そべりながら器用にもペンを動かしている。シャワーを浴びてそのまま放置したのか、横顔を隠す銀髪が好き放題に跳ねていて、うす明りを細かく反射する。暖色の煌めきが寝覚めの目には眩しくて顔を動かすと、思ったより衣ずれの音がよく響いて、当然すぐに気がついた相方と目が合った。

「悪い、起こした?」

首を振って今の時刻を尋ねれば、日付を僅かに超えた数字が返ってくる。今日、というか昨日はささやかな夕食をとった後すぐに眠ってしまったから、道理でこんな中途半端に目が覚めるわけだ。夜明けまではまだ時間がある。もう一度眠気が来ないだろうか期待してベッドの上を転がりながら往復してみるも、安いベッドが軋んだ音を立てるだけで、益々まぶたは軽くなるだけだった。

ランタンの置いてある小さな机にペンを置いて、イヴェールはこちらに身体を向けた。狭い寝室に無理矢理ソファーを入れたから、当然ベッドとソファーは向かい合わせで距離も近い。

「あー、目、覚めたし」
「珍しいな。いつも一度寝たら緊急時以外起きないくせに」
「だよな。お前は今日も夜更かしか、美容に悪いぞ」
「妹に手紙を書いてたんだよ。美容について語るなら、そのよだれを拭いてから出直してこい」

慌てて口の端を拭けば、イヴェールは息だけを震わせて笑った。寝そべりながら喋るのは新鮮で、そんな息まで掛かりそうな距離に今更恥ずかしくなる。口を尖らせて再び背中を向けると、誠意のない謝罪をされた。

「ごめん、ミジンコ並みでも立派な名誉を守るために黙っておいた方が良かったよ。お詫びに、ぐっすり眠れるよう子守唄でもうたってやろうか?」

余計な御世話だと怒鳴る前に、こちらこそ珍しくイヴェールは上機嫌に歌をうたいだした。勿論、夜を壊さないよう密かに紡がれるそれは、皮肉にも優しく聞えて本当に子守唄のよう。元々あまり披露されることのないイヴェールの歌はとても好きなので、素直に聞き耳を立ててしまう自分に余計腹が立つ。しかし。

「……なんだよその選曲」

メロディーはごく聞きなれた有名な歌だった。その歌詞だけが謎の響きで、聞きとれない。短く締めたイヴェールを背中越しに見やると、運悪く奴の口の端が上がる瞬間を目撃してしまった。

「この歌、どこぞの詩人の作品を元に替え歌作ったらヒットして、諸外国ではこっちの方で通ってるそうだよ」
「へぇ」
「題名も内容も可愛いし、子どもに人気だって。まさに子守唄にぴったりだよな、嬉しい?」
「嬉しいわけねぇし、子守唄うたってもらって喜ぶ年齢じゃねぇ、よっ」

努めて静かに怒りを表すため、素早く体の向きを整えイヴェールの脛に蹴りを入れる。睡眠をとっていないイヴェールの動きは鈍く、避ける間もなしに景気良く決まり、綺麗な顔が痛みに引きつった。そのことにより若干溜飲を下げて、ふと先程の歌について興味がわき上がり、未だ無言で耐えているイヴェールに尋ねる。しかしイヴェールは聞いちゃいなかった。

「絶対痣になるぞこの脛、ああ、どんなに暑くてもずっと足を隠して夏を過ごさなきゃいけなくなった」

仕返しに振りあげられた武器に、慌てて半身を起し後ずさった。

「謝る、謝るからランタンだけは凶器にすんなよ!下手したら火事になって、二人仲良くこの世とさようならだ!」
「…二人仲良くって、嫌だ」

嫌なのはそっちなのかよ。そう内心つっこみながら、降ろされた腕に安心する。代わりに、こちらのベッドに乗りこんでまで伸びてきた相方の利き腕を好きにさせて、思う存分頬を引っ張られてやった。案外強い握力が容赦なくやるものだから、かなり痛い上に顔の面積が広くなってしまったかもしれない。

「もう気が済んだだろ、で、結局あの歌は何?」
「お前、期待を裏切って頬固いよな。絶対もっと柔らかいかと」
「どんな期待してんだよ。それよりそろそろ俺の話を聞こうぜ!」

力は抜けても未だにそこを触ってくる手を払えば、イヴェールはまだ遊び足りない子どものような表情をして、軽く舌打ちする。子守唄が必要なのはイヴェールの方なのではないか、ぼんやりそう思っても口に出すと更に頬を抓られるので、瞬時に黙った自分は賢明だと思う。イヴェールは渋々口を開いた。

「“きらきら星”」
「きらきらぼし?」
「そう、きらきら星。恋に戸惑う女の子の歌は、どんな経過を辿ったのか知らないけど、空に輝くお星様の歌になった」

きらきら星、その言葉にふと強烈に惹かれた。まぶたの裏に先程の夢の残滓が現れる。虹色のシャボン玉、目の前に立っている大きな一本の木、そして夢では見なかったその木の上からの丘の景色。少し近くに感じる星の群れ。

「俺、その歌知ってる」

鮮やかなイメージと断片的な記憶がパズルのピースになって、頭の中にはめ込まれていく。イヴェールが歌った謎の歌詞の意味が、今になって理解できた。記憶の倉庫から引っ張り出してきたばかりのパズルの完成図をなぞって、小さく“きらきら星”を歌う。二色の瞳が丸まって、意外そうに瞬いた。勿論、「相変わらず音痴だな」と余計なひと言も忘れずに。

理由を問うような相方の視線に従って、完成したパズルを披露するように昔話を始めた。

「まだ餓鬼だった頃、住んでた施設の近くにでっかい木があって、ずっとそこへ登ってみたいと思ってたんだ」

危ないからよしなさい、と止める大人たちを無視して何度も登ろうとしていた。それも夜に限って。身寄りのない子どもを集めて養っていた施設は元々高い丘の上に建てられていて、高い所から下を見おろす光景には飽きていたのだろうか。夜にだけ現れる多くの星が自分を魅了していたのもあって、星が綺麗な晩になる度抜け出して木の下へ向かっていた。ただし、毎回お節介焼きな幼馴染に止められていたけれど。

「それときらきら星に何の関係がある?」
「ここからが関係あるんだよ。今思えば、かなり危うい思い出だけどな」

絶対いつか頂上まで登って誰よりも近くで星を見ていたいと、虎視眈眈、機会を狙っていた当時。幼馴染が眠りについた頃を見計らって、いつの間にか施錠されるようになった扉も鍵をちょろまかしておいて、その晩は絶対いけると確信した。いつも幼馴染に止められるくらいの高さまで登っても、誰の気配もなくその高さを超えられた。幹が段々細くなるにつれて、頂上に近づいてると興奮し、全力でしがみつく四肢がはやる。その結果、自分もあの頃は未熟だったとしか言えない。うっかり右手を滑らせて、落ちかけたのだ。

「流石にあの時は、骨折じゃすまないって焦った」
「案外冷静に焦ったな」
「まあそこは、うん。俺、喧嘩ばっかりしてたし、色々やらかしたから大けがの常習犯でさ、慣れてたんだそういう事態」
「……」
「で、結局何とか助かったの。助かった、っていうか助けられたんだけど」

黙りこくったイヴェールに、続けて思い出を語る。

垂直に伸びていた幹を登っていたのだ、落ちるスピードは半端なく、咄嗟にも受け身を取れなかった自分を助けたのは、見慣れない格好をした大人だった。地面に叩きつけられる衝撃がいつまでもやって来ず、恐る恐るつぶっていた瞼を開くと、最初に飛び込んできたのは、腰をついて痛みに顔をしかめる上品な顔立ち。最初は何が起こったか把握出来なかった頭が回りだすと、次に認識できたのは季節じゃない黒いコート、それを縁取るこれまた暑苦しいふさふさしたもの。大人は叱り飛ばすことはしなかったが、無謀な子どもの行動を少しだけ咎めて、その後少しだけ肩を並べて話をした。

「そいつにその歌を教わったんだよ。君の所の言葉じゃなくて申し訳ないけど、お星様ならこれだって」
「…思いっきり不審者と何やってるんだ」
「その頃の俺はまだ純真だったから、命の恩人に不審者って叫べないって」

イヴェールに笑って返したが、そういばあの大人は不思議だった。気配にいくらか敏かった自分はその接近に気づかなかったし、季節感丸無視の格好、いつどうやって別れたのかなんて全く思い出せない。それに、どことなくこの相方と似ている雰囲気を持っていた、ような気もする。

「というわけで、俺は今でも五体満足に生きてて、“きらきら星”が歌えるわけ。分かった?」
「ああ、ホラーとしては星一個の半分かな」
「おい」

イヴェールは人の思い出話をあっさりホラーにして切り捨てると、こちらのベッドに乗りこんできた。ソファーに戻るのが面倒くさくなったのだろう。狭いと抗議をすれば力ずくで隅に追いやられる。あっという間に寝る体制を整えた相方は、少しだけ身をよじらせ、こちらに背を向けた所で落ちついた。結わえていないふわふわした銀糸が顔を擽ってきてこそばゆい。――夏は便利だ。相当暑くなければ、冬と違って一枚の布団で喧嘩をすることもなく、ベッドを共有できる。そんなことを考えていると、かなり喋っていたことである程度疲れたのか、急激に睡魔が忍び寄ってきた。

「ホラーとしては星一個の半分だったけど、お前が珍しくお前自身の話をしてくれて嬉しかったよ、おやすみ」

半分瞼が閉じかかった状態を見計らったように告げられた言葉は、やはり夢半分の状態でしか伝わってこない。何を言ったのかもう一度聞き直したかったが、かろうじておやすみ、と返すので精一杯だった。


その晩も、夢をみた。

ベッドの淵に座ったイヴェールが、“きらきら星”を歌っている。歌い終えたその顔には、いつもなら絶対にありえない表情を湛えていて、再び告げられたおやすみと一緒に、両頬に浮かんだ太陽と月が笑った。


















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