イヴェールの名前の話だ。夜に目覚めるこの人形には最初、名前がなかった。



丁度一年半前に遡る。

昼間のアトリエは、自由に行き来できるよう、既に許可は取っておいた。今日の父親は珍しく人形の作業をしていて、丁寧に磨いたサファイアをはめ込む工程を後ろからじっと眺める。日に照らされた人形の髪は、銀を織り込まれたかのようにきらきら光った。そういえば、「長くて鬱陶しい」と言っていたのを思い出す。ローランサンは幼馴染から髪を括る紐を借りられないか頭の中で算段して、思い出したように父親に声をかけた。

「この人形の名前は?」
「ああ、そういえばまだないね」

窪んだ眼窩に現れた蒼い煌めきは、美しい人形の造詣も相まって、見る者を惹きつける魅力を生み出す。けれど何となく、夜に笑う彼の方が良い、とローランサンは漠然と思った。

父親は手を止めて、顎に指を掛け思案する。名付けも、芸術家には重大な仕事で、作品に命を吹き込む行為なのだ。しかし父親は、緩やかなウェーブの長髪を揺らし、溜息をついた。

「似合う名前が出てこないな……」
「オギュでもそういうこと、あるんだ」
「よくあるよ」

ローランサンの頭を撫でた芸術家は、そうだ、と内緒話をするように小声で提案する。

「ローランサン、君がつけないか、この人形の名前」
「…良いの?」
「良いさ。私とローランサンの、初めての合作だね。良い名前を考えておいで」
「分かった」




提案されたローランサンは、数分そこそこで考え付く筈もなく、手っ取り早く本人に聞いてみることにした。月が空を歩きだしてすぐ、部屋を抜け出し、一晩をそこで過ごしながら、太陽が出る前に戻る。ここ半年の日課になった行動だけど、今日は夕方頃にはアトリエで人形が目覚めるのを待っていた。起きだした人形は、呆れた声で、「親に不審がられないのか?」とつけられたばかりの肩目を細めた。それをローランサンはすっぱり無視する。

「お前、名前ってあるのか」
「名前か……知らない。気がつけば、ここに居たんだから」
「ふーん。何か、俺が名前つけるって話になってるんだけど。希望とかある?」
「ローランサンが?」

ふわ、と微笑んだ彼の顔に、血管ごと心臓を掴まれた。サファイアが、奥深い蒼を心地よげに瞬かせて、青年の姿のはずなのに子どものような印象を与える。ぎこちなく頷けば、嬉しそうに「良いよ、お前の好きにして」と答えられた。

名前がない、ということはこの世界に落ちついてない証拠で、少し不安なものらしい。名前という鎖をつけることで、彼をこの場に留めることができたなら、一瞬でもそう考えてしまいローランサンは首を振る。半年ばかりかけてローランサンの中では、人形の存在が思ったより大きいものになっていた。自分より頭一つ背の高い、でもびっくりするくらいその体躯は繊細につくられている人形。見あげて、じっとその右目に入る筈のルビーを想像しながら名前を模索すると、唐突に、彼の背後に雪の幻想がみえた。

彼を運んできた風。雪を含むかのように、冷たかった。

「冬、とか」

ぽつりと言葉に出し、響きを聞く。するとそれ以外はない気がしてしまい、困ったローランサンは暫定イヴェールを見あげた。彼は、軽く目を見開いて、手を胸に当てると何度も冬、と繰り返す。

「冬、じゃあ僕はこれから冬だ。ローランサンがつけた、イヴェール」

イヴェールになった人形が、ローランサンの手をとって、人間なら本来心臓のある位置へ押しつけた。たったいま、聞えない鼓動が鳴り始めたのを確認するように。

ローランサンは、この人形には、心臓もつくられるんじゃないか、と愚かな夢想をしてゆっくり目を閉じた。










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