2. 泪の前触れ

テスト一日目ということで学校は午前までだった。
地元の駅は平日の昼間であるため駅員もおらず降りる乗客も少ない。見せる必要の無くなった定期券は中身のほとんど入っていない鞄に戻し、人影の疎らな駅前を抜け出した。
一直線に家には帰らず、あのときの本屋を通り過ぎて公園沿いの道を辿る。
名前は、今日のように時間に余裕のある日は一週間前に彼を見つけた公園へ寄り道をしている。けれど彼を、彼のような人を見たという話も聞いたことはなかった。
今日も結果としてただ遠回りしただけであり、家に着いたときにはすっかり正午を過ぎていた。
「ただいまー」
共働きの両親が名前の帰る時間にいることは稀だ。それでも名前は挨拶は欠かさないようにしている。
「おかえりなさい」
「っ……!?」
息が詰まる。呼吸が止まった。心臓も止まったかもしれない。
誰かいることに驚く。鍵は確かに名前が回して開けた筈だ。合鍵も家族が持っている分で全部であるのに。
そんなことを考えているうちに声の主が視界に入りこむ。眼鏡、長い黒髪、緑色の着物は時代錯誤も甚だしい。
あのときの彼。けれど、何故此処に、どうやって入ったのか。
「なん、どうして」
「見つけましたよ」
「えっ?」
「本当に普通なんですね、アンタ」
人の話を聞く気はないようだ。そして何か名前に用事があったらしい。だが、言っている意味が分からない。部屋の方から彼が歩いてくる。廊下を一直線に、こちらに向かって近付いてくるのを、本能的に怖いと感じた。そこで気付く。彼の手にしているものが、有り得ないものであることに。
「なっ……?!」
刃物だ。長い柄の先に刃物が付いている、薙刀といったか。本物か、偽物だと云うのならば刃に付いた赤色は一体。そこまで理解して名前は後退した。
(殺される!?)
背中を扉に強打するが、そんな痛みに構っていられない。逃げなければ。
「来ないで、来ないで下さいっ!」
笑っている、その表情が怖い。心から笑っていないのがよく分かるし、笑みの裏にあるものが嫌悪なのか侮蔑なのかよく分からない。とりあえず友好的なものではないだろう。
上手く扉が開けられない。振り向いて開けてしまえば良いのだろうが、彼に背中を向けたらその時点で殺される気がする。
「それを置いて下さい! いやだ、来ないで!」
「あぁ、無駄な抵抗はしない方が良いですよ」
焦った手ではノブを回すことも出来ず、お互いが手を伸ばせば触れてしまいそうな程近くに彼は来てしまった。
いっそ彼の横を抜けてリビングから抜け出そうと考えたが、それを実行している隙も無かった。
「あっ」
一瞬で間合いを詰められ、身動きが取れなくなってしまった。少年の睫毛まではっきりと見える程近い距離なのに、彼の視線が何を見ているのかは分からない。
「とりあえず来て下さい」
有無を言わせない、それは命令だった。突然そんなことを言われて頷ける筈がない。けれど、首を横に振ればそのまま首を刎ねられてしまいそうで、動かないようにするだけで精一杯だった。
それに、きっと彼はこちらの意思なんて気にしないだろう。威圧感と自信を隠すこともなく立ち塞がる彼は、支配者か蹂躙者のようだ。
「……何も言わないんですか。前とは大違いですね」
嘲笑を含んだ言葉に、(あのときは武器なんて持ってなかったし)と心の内で反論し、口には出さないようぐっと耐えた。
まさに俎の上の鯉だ。自分の命がどうなってしまうのかが彼に掛かっている。それなのに、そんな状況であるというのに、名前は徐々に冷静な思考を取り戻していた。
「何を、言えば良いか分からないんです」
もともと名前は自分から行動するより人の行動に追従することが多い。
今も諦めているのだ。抵抗しても無駄だと、自分に言い聞かせるまでもなく納得していた。死ぬのは怖いし痛いのは嫌だ。けれど、もうそれ以外に道がないのならば仕方ないだろう、と同時に思ってしまう。
「あぁそうですか」
落胆するような響きだった。つまらなさそうな、憐れみ蔑むような。彼の期待に応えられなかったのだと分かった。
不思議なことに、名前の頭には彼の期待に応えられなかったことに対する罪悪感か過ぎった。
それは本能的なもので、理由を考えることも出来なかった。
(あっ――)
見えたのは彼の手が此方に伸びる光景。その勢いではきっと、と思うより早く腹部へ衝撃が襲う。
痛い。眠い。目の前が暗くなるのを止めることも出来ず、名前は扉に身体を預けた。
がくりと崩れ落ちていく力の失った身体を、少年は片手で支える。
そうして、自らの得物から手を離しその身体を抱え直すと、意識の失った少女を見つめ、にやりと笑った。




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