―― 運命に愛されたスピカ 普段なら特別なときにしか着ないような和装もここでは普段着だ。私の元々着ていた服は家に保管してある。 その家も私のものでなければ家族のものでもないのだが。 「名前ちゃん、いつもお疲れさまやねぇ」 声を掛けてきたのは顔見知りになったおばさん――確か小間物屋をやっていたと記憶している――だった。 「慶ちゃんも女の子放っといて」 「仕方ないですよ、それは」 慶ちゃん――慶次は京の都ではかなりの有名人だ。それは私も実際に体感した。 通りを歩けば多くの人に名前を呼ばれ、なんだいどうかしたのかい、と返す。こうやって今、私に声を掛けてくれる人がいるのも慶次がそういった人気者だからであり、私が慶次に拾われた子どもであるからだろう。 「最初に名前ちゃん見たときは慶ちゃんのいい人やと思ったわ」 「まさかぁ。ただ面倒見てもらってるだけですよ」 どうして前田慶次が見たこともない女の子を連れて歩くようになったのか。 『前田慶次が連れている少女に血縁関係はない。彼が南の方を旅していたときにたまたま賊に襲われている彼女を見つけ、両親も既に殺されたという彼女を憐れんだ慶次が前田家に住まわせることにした』 それは表向きの理由だった。私と慶次の間で決めた外聞の為の言い訳。 ――違う世界から来たなんて誰も信じねぇよ。 そう言ったのは慶次で頷いたのは私だ。 本当は、私は21世紀の人間で戦乱の世なんて見たことはない。日本史の教科書、テレビや本で聞いたことがあるくらいだ。 どうしてこんな時代に来ることになったのか、重要なことなのに自分でも分かっていない。気が付いたら森に放り出されていた。 そんな夢のような私の言葉を慶次は信じてくれた。なんて大らかな心の持ち主だろうと驚いたが、とても嬉しかった。 「私は拾ってもらえて感謝してるんです。慶次にも、前田家の人達にも」 本音だった。彼らに会わなければ、きっと私は死んでいただろうから。 「何かお礼がしたいって言ったら、奥様が慶次のお目付け役だなんて言うから」 「まつ様らしいわぁ」 朗らかに女性が笑った。まつ様が好かれているのがよく分かって、嬉しくなって私も笑った。 あたたかい、優しい、場所と人。 戦乱の世だなんて実感出来ない、この街が好きだ。不穏な噂は幾らでも聞くけれど、それでも良い場所に来たと思っている。ただ目を逸らしているだけだと言われてもその通りだ。 (現実って思える方がムリだ) だって、私はいつか帰るつもりなのだ。慶次に付いているのも何か手掛かりがないか探しているからで、いつだって帰る方法を探している。 (此処は私の世界じゃないし) 私には一生懸命生きるなんて無理だ。なんとなく生きてきた高校生に“生き延びる”といった言葉は無縁過ぎてリアリティーがなかった。 (所詮、私は異端だから) どれだけ優しくされても返せるものなんて何もない。そんなことを知らずに優しくしてくれる人達には感謝と申し訳なさでいっぱいだった。 「京に来ても、皆さんに構ってもらってほんと幸せです」 「嬉しいこと言ってくれるねぇ」 ――いつか帰る日が来たら、 私はその日を待ち望みながら怯えている。 その日の京は何処か違った。 雰囲気が、街の様子がよそよそしいというか。ぴりぴりしているというか。 そのことに慶次は気付いているのかいないのか、今日もお姉さん達との遊びに興じている。私はというと店先でぼんやりと行き交う人波を眺めている真っ最中だ。 こんな街中にこんな子ども……アンバランスだろう。けれどこういったことも初めてではないので、周りの人は気にすることを止めていた。 「暇だぁ、あ……あぁ、眠い……寝そう」 この世界に来てから早寝早起きをするようになったからか、夜になるとやけに眠くなる。 涼しい風が心地好い。私は風と相性が好いんだろうか、と考えてしまう。そういえば、一緒にいる慶次も風を扱っているのを前の喧嘩で見た。 (喧嘩って、そう楽しいものかな……?) 戦が嫌いだ、と慶次は言う。それには私も同意するが、喧嘩なら好きだという彼の言葉には頷けない。私は争いごとを見ることがそもそも嫌だ。 けれど慶次の言いたいこともなんとなく分かっている。争いごとで命が散っていくの嫌なんだ、と思う。彼にとって喧嘩はただの力比べ、けれど戦は命を奪うから。 (戦乱の世なんて) 名前ちゃん、と呼ばれた。 「はい?」 「慶次はどうした?」 「遊んでます、上で」 いつものように世間話かなぁ、なんて思っていたがどうやら様子がおかしい。 通り掛かりのおじさんは言いにくそうに、言葉を選ぶように、周りには聞かれたくなさそうに、私だけに聞こえる声で言った。 「早く慶次と帰り」 「え?」 「武家さんがおるよ」 ――戦だ。 真先に思った。戦が始まるかもしれないから外に出ない方が良い、恐らく彼もそのつもりで言ったのだろう。それから、その理由に思い至る。 (気遣われてるんだ、私が) 両親は殺されたと言ったから、もう同じような恐怖は味合わせないようにと。 京にいて戦に巻き込まれることはないだろう。けれど、戦が人々の生活を蝕むのは想像に易い。事実、私が感じていた奇妙な不快感もそれなのかもしれない。 「そうなんですか……ありがとうございます」 そうは言っても、今は慶次が帰ってくるまで此処を動けないのだけれど。 (慶次は呑気だよ、ほんと。そういうところも好きなんだけどさ) わざわざツンデレのようなことを言おうとは思わない。私は慶次が好きだ。拾ってもらった恩もある。けれどそれだけではないと思っている。顔も好きだ、変な言い様だが馬に乗るときにしがみつくとき(私は一人で馬に乗れない)に感じる頼りがいのある身体も、ふわふわと柔らかい長い髪も、裏の無さそうな笑顔も、どれも好きだ。 「じゃあ慶次に言って、今日は早く帰ります」 「気ぃ付けなぁ」 人混みに消えてしまった親切なおじさんを見送って、ぐるりと振り返って店の奥を覗いた。帰ってくるまでまだ暫くはかかるなぁ、そう思った。 しかしその期待は裏切られて、慶次は思ったより随分早く帰ってきた。 「慶次、どうしたの?」 その表情は何故か険しい。女の子達と遊んできたとは思えないほど。 「嫌な感じが……」 「それなら私もした」 嫌な風、どこか薄気味悪い空気、まとわりつく不快感。 この世界には人口の明かりなんてない筈なのに、空がいつもより明るいような気がした。それが何を意味するのか。誰かが叫んだ。 「明智様がご謀反やて!」 「本能寺が」 「いきなりこんな、戦」 「織田様」 騒然となる街の中、私は一人だけ元いた世界の記憶を掘り起こしていた。――明智光秀の謀反、本能寺の変。 「本能寺の変……?」 「…………」 慶次はただひたすらに無言だった。何か考えている様子で、私も何も言うことがないまま、いつものように宿に帰った。 宿の布団にもぐってからおじさんとの会話を思い出したけれど、もう手遅れだと思う。 (この日本に逃げ道なんてない) |