Vain Days

「ハレルヤ?」
「久しぶりだなぁ、アレルヤ」
「え……?」
僕の言葉を聞き返した名前の声がハレルヤの声と重なった。丸くなった目が一層大きく見開かれる。
突然現れた来訪者に動くことが出来なかったのは僕も名前も同じだった。僕の視線はハレルヤへ、彼女の視線は僕へと固定されている。
けれどハレルヤが窓の桟を越えた瞬間、僕の身体は無意識の内に動いていた。
彼に近い場所にいた名前の身体を力任せに引き寄せると後ろに隠して前に出る。
気が付いたら僕はハレルヤと対面していた。
彼女の悲鳴が聞こえて、思わずそちらを振り向きそうになるのを堪える。目の前のハレルヤは笑っている。けれど僕の記憶によるとこの笑い方はハレルヤが不機嫌のときにするものだった。
「いい加減にしろよテメェ、いくら探しても見つかんねぇと思ったら女のところかよ」
やはり彼は不機嫌だった。刺々しい声がぎりぎりと僕を締め付ける。
僕には返す言葉もない。どうして此処へ、なんて今更な問いだ。彼が此処にやって来る理由なんて明確だ。
「来い。今ならてめぇをぶん殴るだけで許してやる」
その命令に対する選択権は与えられていない。それは今更なことだ。僕には与えられたものに対する拒否は許されない。疑問を持つことすら。
僕と彼の間に言葉は要らなかった。脚が一歩、彼女から彼へと近付く。自分の意志があるようでない、まるで絡繰り人形のような動作。
「アレルヤを傷つけないでよ」
低めの声。僅かに震えているけれど凛とした彼女の声は、いつだってどんな音よりもアレルヤの耳に届いた。
けれど、アレルヤはもうその声に応えることは出来ない。ハレルヤの言いたいことが正確に理解出来たからだ。
(僕が傷つくだけで許してくれる、だなんて)
それは普段のハレルヤを思えば信じられないほどの甘さだった。自分があの場所に戻って暴力を甘んじて受ければ名前には何の危害も無いというのだから。
その意図は分からない。けれど彼の気が変わる前に動いて悪いことにはならないだろう。彼女には僕が何者だったかなんて説明することは出来ない。振り返って別れを告げることすら出来ない。そうすることで良いことなんて一つもない。
二人で過ごした一ヶ月にも満たない日々はとても幸福な、夢のような時間だった。
(僕にとっての夢みたいな時間。名前にとっても夢であればいい)
また明日から二人違う道を歩けるように。たとえ彼女が過ごした時間を忘れてしまうことになっても、風化していっても構わない。
そう、思っている筈なのに「さよなら」の一言も言えない。声に出すことも、心の中で呟くことも。
これが永久の別れであることを願っている自分と別れを告げることを躊躇っている自分が――まだ甘ったれな自分が――いる。
「アレルヤ、アレルヤ。どうしたの。なんで、いきなり、この人」
「…………」
振り返りたい。
振り返って、名前の元へ行って、彼女の目を見つめて最初から説明したい。
「本当は行きたくなんてないんだ。ここにいたいんだ」と、そう言いたい。
そして足を止め身体を硬直させてしまった僕を、目の前のハレルヤは苦虫を噛み潰したような表情で見つめた。
その視線は僕の瞳を射貫き、ふと逸れる。
「てめぇは入ってくんじゃねぇ」
ハレルヤの視線が僕をすり抜けるのが分かった。
不快感。敵意。悪意。それらがはっきりと色づいて僕の横を駆け抜けていく。
「やめろっ」
叫び声を上げたその一瞬で僕の腕がナイフと変わった。人工皮膚を突き破って金属が顔を出す。
ハレルヤの攻撃の軌道ははっきりと名前に向けられていた。
横から止めにかかった僕の攻撃を防御せざるを得なくなった彼は、力で僕を負かすこともなくあっさりと手を引く。
けれどそれで終わってなんかいない。
無意識の内の行動は功を成した。しかしそれは同時にハレルヤが名前を殺すことを決定したも同然だった。
「何故だ、ハレルヤ! どうして彼女を殺す!?」
「馬鹿だなぁお前は。殺さないとでも思ってたのか?」
思い込んでいた訳ではない。けれど信じていたかった。
確かに、ハレルヤにしてみれば組織のことを知られている可能性のある名前は消しておくに越したことはない。少なくとも、彼女を生かしておくメリットは一つもないのだ。
けれど信じていたかった。それは僕の甘さでしかないのに。
(名前は殺させない、殺さないで)
鈍い金属音。ぶつかり合った僕の腕と彼の腕。
拮抗する力。気味が悪いほど似ているのは僕が彼を元に造られたから。
「あっ、ア」
途切れ途切れに聞こえる名前の声は悲鳴のように思えて、それを振り切るように目の前の攻防に神経を集中させる。
それほど広くない一人暮らし用の部屋。テーブルの上の書類は宙に舞っては引き裂かれ、散乱していた衣類は踏み荒らされ汚れた。
夢のような空間が目に見える形で壊れていく。否、壊しているのは僕自身だ。
天国から地獄へ変わるように、夢から現実へと変わっていく。
生まれて初めての――そして恐らく最期となるだろう――僕の心からの願いは、結局何に届くこともなく散った。




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