Sand in the palm

焼かれた食パンの上にオレンジ色のジャムが塗られていく。彼女の手が塗っていく。「どれがいい?」と見せられたジャムは他に赤色や群青色があったけれど、味の違いは分からなかったから可愛い色をしていたオレンジのそれを選んだ。
大きな身体を出来る限り小さくして座る僕はその様子をじっと見ていた。何をすれば良いのか分からないから何もすることが出来ず、気まずい。
やがて渡されたそれを受け取りとき、謝ることしか出来なかった。
「ごめんなさい……」
「だから謝らなくていいって。人に優しくするのは当たり前」
ヒト。
そう言われると頭がずきりと痛む。
どうして彼女が僕なんかにここまで優しくしてくれるかだなんて、決まっていたじゃないか。僕が人間だと思われているからだ。
ヒトじゃないんだ。僕はヒトじゃない。そのことを伝えた方がいいのかな。僕がヒトじゃないと知ったらこの人もあの場所の人達と同じことを僕にするんだろうか。
そんなのは嫌だ。けれど彼女が僕をヒトだと思って僕に優しくしてくれているんだったら、そんな彼女を僕は騙していることになる。それも嫌だった。
「僕は、……ごめんなさい、……僕は、……ヒトじゃ。えぇ、と……ヒトじゃない」
「ん?」
必死に絞り出した声は震えていて情けなかった。
お腹の辺りがおかしい。お腹が空いているからかな。何か生き物が蠢いているみたいで気持ち悪い。
「僕はヒトじゃない」
「はっ? 人じゃなかったらなんだって言うの」
「分からない」
最初に見たような鋭い眼差し。其処にあるのは訝しみと不快。その視線を向けられるのはやっぱり怖い。けれどもう逃げられないし、逃げたくない。
言わなきゃ。誰かを欺いて生きるということを僕は知らない。それならば正直に言うしかない。
分からないんだ。僕が何かなんて。けど、普通のヒトは腕からナイフなんて生えないんだよね? たくさん血を流したら死んじゃうんだよね? なら、僕はヒトじゃない。
僕は彼女に出会って自分がどれだけ無知かを知った。どれだけ常識を知らないか、を。
けれど、これだけは中身のあまり入っていない僕の脳でも分かる。僕みたいなことは人間には有り得ないということは。
「うーん……。えっと、……それ、ほんと?」
訝しむ視線。証拠を実際に見せるべきなのかな。ああ、そうしてしまえば彼女はきっと僕を気持ち悪がってしまうんだ。それは仕方のないことだけど悲しい。気持ち悪がられることも、彼女に気持ち悪い思いをさせてしまうことも。
恐る恐る頷いた。
「へぇ……マジでかぁ。ビックリした。……まぁ、いいけど。……それより、早く食べたら?」
「えっ?」
あまりにもあっけらかんとした反応に僕の方が驚いてしまう。手にした食パンも思わず落としてしまった。びちゃ。げっ。彼女が大きく顔を顰めた。さっきよりも嫌そうな顔。
僕はまだ動けずに、「あーぁ」と気の抜けた声をあげる彼女の視線の先にあるべちゃりとテーブルにジャムをつけた食パンを見ても、どうすればいいか分からなかった。
「それ……食べてよね。私、貧乏だから」
そう言われて慌ててパンを持ち上げる。テーブルが汚くて気持ち悪い。そんな風にしたのは自分だというのに、あの場所の何かを思い出させて凄く気持ち悪い。
萎んでしまった食欲を誤魔化すように立ち上がった彼女の動作ひとつひとつを目で追った。
「……あぁ、そういえば」
キッチンの方から何かを持って戻ってきたところで、何かを思い出した彼女が声をあげた。もう何も落としはしなかった。というよりも、先程の彼女の言葉にまだ思考がついていかずに身体も硬直していたという方が正しい。
「きみの名前を聞いてなかった。差し支えなければ教えてよ。呼べないと不便かも」
「……えぇ」
困ってしまった。
名前、と呼ばれてもすぐに出てこないのだ。(一体どれが僕の名前なの)製造コードなのか、シリーズ名なのか、それとも。僕と瓜二つの彼が僕を呼ぶそれなのか。
どれが僕の名前なのか。そもそも名前とは何のこと言うのか。僕を指す幾つもの呼び方は果たして名前なのだろうか。
正直にそう告げると戸惑った顔をされた。先ほどまでの強気な表情がふっと消える。
しかしそれも少しの間だけだった。すぐに彼女は調子を取り戻して苦笑を浮かべる。
「でも呼ぶときに困るね。……なんて呼んだらいいか、とか、ない?」
少し悩んで、僕が考えられる限りで一番「名前らしい」呼び方を教えることにした。
「……アレルヤ」
これは彼に与えられた名前だ。僕と瓜二つの彼が僕を呼ぶ為に付けたものらしい。しかしこの名前で僕を呼ぶのは彼以外にいなかった。
「ふぅん……。アレルヤっていう名前なんだ。アレルヤって呼んでいい?」
「うんっ」
「じゃあアレルヤ、先にお風呂入っておいでよ」
アレルヤ。
彼以外の人に初めて呼ばれた名前。彼のときとは違い、その響きが優しいものに聞こえる。僕はこのとき、生まれて初めて名前が与えられていることに感謝した。




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