A glasswork

(硝子細工は綺麗が故に壊れやすく、それは二度と直らない)


逃げた。
逃げる場所なんて何処にもなかったし逃げて何がしたかった訳でもない。
ただ逃げたかった。あそこにはいたくなかった。人を殺したくはなかった。
だから、僕が人を殺さなくていい場所に行きたかった。
けれど結局僕に行くところなんてなくて、疲れ果てた僕は屋根の下を見つけてそこに腰を下ろした。


「きみ、大丈夫?」
あの場所から出て初めて人に声を掛けられた。
人気のない建物、その最上階である四階の廊下の突き当たりに僕はしゃがみこんでいたところだ。
びくりと大きく肩を揺らして見上げた。此処まで人に近付かれるまで気付かないなんて、自分で思っている以上に疲れているようだ。
そこにいたのは僕より年上に見える女性。黒髪が長い。背丈は小さい。けれど視線が鋭く僕を見下ろしていて少し怖かった。
「へ? あ、……うん」
「家出か何か?」
「ん……」
家出という言葉の意味が分からなかった。僕のやっていることは脱走という言葉が近いと思うんだけど。
「とりあえず一日ホームレスな感じ?」
「うん?」
またもや聞いたことのない言葉に首を傾げる。
そのまま何も返せないでいると、彼女は暫く何かを考えてからこう言った。
「一日だけなら泊まってっていいよ」
彼女が指差した先を目で追って、僕は漸くここが彼女の住んでいる場所であることを理解した。まさかこんな古びた建物に人が住んでいるとは思わなかった。口にはしなかったけど。
それにしても、「とまっていってもいい」だって。その言葉が何を意味しているのか咄嗟には分からず、僕はまたしても間抜けに口をぽかんと開けていた。
「え……?」
「だってきみ、今日帰れなさそうな顔してる」
図星だ。
そんなに顔に出やすいのか、それとも彼女が鋭いのか。
彼女は初めて見たときの無表情を少し崩し唇を緩ませて微笑んだ。
その笑顔は無表情のときよりも幼く見えた。同一人物なのに、おかしな話だ。
「ねぇ、間違ってるならそう言って」
「……、間違っては、ない、よ……」
「じゃあ入っていいよ。私の部屋の前にいられても困る、でもだからって放り出すのも私の都合だし。私、別に困らないから」
廊下の突き当たりが彼女の部屋、らしい。確かに僕に声をかけざるを得なかったんだろう。迷惑を掛けてしまった、そう思うと心に重いものがのし掛かった。
けれどそのときの僕の判断能力は大分鈍っていたんだと思う。そして当てもなく逃げ続けることに嫌気が差したんだろう。
彼女に向けたのは大きな期待の籠もった眼差しだった。
「いいの……?」
「今日一日なら、ね。明日は土曜日で学校ないし」
部屋の扉を開けた彼女は中に入ると、その場から動かない僕をじっと見つめた。
「入って。鍵閉めるから」
「うん…」
促されるまま中に入る。彼女を真似て靴を脱ぎ、ついていく。
初めて入る誰かの家、部屋。これが普通の匂い、光景、音。全てが僕から遠い場所にあるものだと思っていたもの。
薄暗かった部屋にはすぐに蛍光灯が灯りを点して明るくなった。足の踏み場が何処にもない、柔らかそうな部屋だった。自分の部屋を見て「うわ汚い。恥ずかしい」とぼやいた彼女だが、僕には比較するものがないから気にしないでいいのに。
彼女は手に持っていた物をどさりと床に置いて元来た道を戻っていた。立ち止まったのはキッチン。棚を開けて何かの容器を取り出す。
僕はその様子をただ突っ立って見ていた。
「寒いからあったかいものいれるけど、コーヒー飲める?」
「コーヒー?」
「……飲んだことない?」
「うん」
そのときの彼女の驚いた顔は忘れないだろう。
(飲んだことないなんてきっとおかしいんだ)ということはしっかりと分かった。まるで僕を不可思議なもののように見る視線は、実際に僕がそういったものであるにも関わらず、とても痛い。そんな風に見られるのは嫌だった。
「そっか、苦いの苦手か。じゃあココアにしようか。甘いの平気?」
その問いには自信をもって頷いた。どうせ今まで出された食事は全部残さず食べてきたんだから今更平気も苦手もない。ただここで「苦いのは苦手じゃないからこーひーも飲めるよ」とは言えなかった。
そうして、暫くして差し出されたのは容器に入った焦げ茶色の液体。初めて見るその不思議なものに目を丸くさせながら受け取った。毒じゃない、というようよちは毒であっても構わない、という気持ちだった。
「はい、どーぞ」
「あっ……、えっと」
こういうとき何て言ったらいいんだっけ。聞いたことがあるような言ったことがあるような、記憶が曖昧だ。
頭の中に散らばる記憶の断片からうっすらとぼやける一つの言葉を拾った。
「ありがとう?」
「うん、どういたしまして」
淀みなく繋がった会話でその言葉が間違っていなかったことに安堵した。
彼女が自分のものに口をつけるのを見てから一口それを飲んでみる。ざらりとした舌触り、確かに甘い、初めての食感だった。やはり自分には平気も苦手もない。ただ、この初めて味わった甘い飲み物には「平気」だとかより、もっと相応しい言葉がある。
その言葉を僕は知っていた。
「おいしい……」
思わず零れたその一言は相手を笑わせてしまった。
笑うとさっきまでの大人っぽさが少し消えて幼く見える。かわいいなぁ、そう思ったけれど言うのは止めておいた。この言葉が好意なのか罵倒なのか分からなかったから。
「あー……もしかして何も食べてない? よっぽどお腹空いてるんじゃない?」
その言葉も事実だったので頷く。
彼女は表情を一転させて僕を見た。さっきまでの笑顔が一瞬にして消える。そんな表情をさせてしまうなら頷かなければ良かった。
無表情になってしまった彼女に最初に出会ったときのような恐怖を感じる。けれど彼女はそんな僕に気付かないまま。
「マジで? じゃあ何か食べる? 食パン焼くぐらいしかないけど」
「えっ……。い、いらない……」
「遠慮しない。大したものじゃないんだから」
こんなにも誰かに親切にされるのは初めてだったから、喜びより戸惑いが先にくる。何の見返りもなく与えられるものがあるなんて、しかもそれが温かいものなら尚更に、僕が素直に受け取れる筈もなかった。
初めて見る外の世界への驚きはじんわりと恐怖と興奮を滲ませた。
こんなヒトも世界にはいるなんて、すごい。おかしい。どうして。僕みたいな化け物に優しくしてくれるヒトがいるなんて。
「ごめんなさい……」
「いいよ。人には親切にする奴だから、私」
人には――
その言葉に僕は大きくショックを受けた。
僕は、人ではないのに。





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