ディミヌエンド ※『ヒロインがもしも澄百合学園に編入せずに零崎と戦闘を繰り広げながらも和気藹々していたら』というIF設定 扉に掛けられた「Closed」の看板を初めて見たとき、そういえば定休日を聞いていなかったと思った。 名前が此処に来ている間はいつも店は開いていた。 しかし実は月に一度や二度程の休みがあったりしたのかもしれないし、もしかするとあの気ままなオーナーな気まぐれで休みなのかもしれない。 そう、そのときはただ、そんな事だと思っていた。 その日から通い続けて三日、さすがにおかしいと思った。 学校の友達に尋ねても皆そろえて首を傾げるばかり。 その時ようやく、自分はあのオーナーの事を何も知らない事に気付いた。 どこに住んでいるのか、本名は何か、他に仕事はしているのか。 聞いておけば良かった。聞く機会はいつでもあった。 聞いておけば、今こんなにもやもやする事はなかったのかもしれない。 本当に些細な後悔だったけれど、確かに後悔した。 (オーナー。どうしたっていうんですか……) その翌日、つまり店が閉まってから四日目の放課後。 今や、時間があれば通っていたその習慣は消えず、足は自然とクラッシュクラシックへと向かう。 それはまるで呪縛か、呪いのようだと、オーナーが帰ってこない今なら思う。 諦めと願いを胸の片隅に置きながら見慣れた街並みを歩いた。 上の空のまま店まで近付いたところで「Closed」の看板が掛かっていない事に気付く。 (開いてる) 驚いた、けれどそれより嬉しさが勝った。 帰ってきた。なんだ、帰ってきたんだ。こんなにあっさりと。当然か。あの人は気まぐれだから、そっか、それだけのことだったんだ。 扉を開けるまでかなりの時間が掛かってしまった。 綻んでしまった顔を見せるのは恥ずかしい。だって、たった数日の事で不安を巡らせていた自分なんて知られたくない。 まるで恋する生娘のように扉の前で逡巡して、最初の言葉は「お久しぶりです」にしようと決めて、漸く扉に手を掛ける。 扉を開けた向こうにはわざと薄暗く落とされた照明、店内で最も目立つグランドピアノ、五日前と変わらない風景がそこにはあったけれど。 ただ、彼だけがいなかった。 代わりに存在したのは、此方は不本意に顔見知りな男性。 「シームレス、バイアス……」 麦わら帽子はない。彼の二つ名でもある釘バットもない。 けれど見間違うはずはない。 零崎の人間を、見間違う筈も忘れる筈もなかった。 《愚神礼賛》――零崎軋識は扉を開ける前から人の気配に気付いていたらしく、それでもその人物が名前だったとは思わず分かりやすく顔を顰めた。 「どうしてお前が此処にいるっちゃ」 男の声は低く、掠れていた。よく見ればその表情も憔悴しきっているようだ。 「どうして、って……」 どうしてなんて、そんな事聞かれるまでもない。 此処は自分の気に入っている店で、だから、それだけだ。 それより零崎軋識が此処にいる理由。 問おうとして止めた。それもまた、聞くまでもない。 それでも、 「トキとおめぇが知り合いだったなんてな」 「ト、トキ……?」 「《少女趣味》、知らねぇっちゃか?」 「ボルトキープ……」 はっきりと言葉で証明されると、頭をぶん殴られてかき回された気分だった。 そうしてぐちゃぐちゃになった脳味噌の中に一つの真実が食い込む。 オーナーが《少女趣味》、あのオーナーが零崎一賊。 信じられない気持ちと裏腹に頭は勝手に納得を終えてすんなりと脳を落ち着ける。 そして何より驚くことに、今までの彼を《少女趣味》に置き換えてみても嫌な気持ちはしなかった。 優雅に鍵盤の上を踊る指、ぼんやりと寛ぐ姿、此方に向けられた目差し、何一つ、彼が零崎だとしても。 (全く……悪くないよ) 思わず笑い声が零れてしまい、軋識はそれに目を丸くして名前を凝視した。 今まで抱いていたものが崩れていく。そう思った。 けれどそこに喪失感はなく、むしろすっきりした心地がした。 そして同時に分かってしまった。 この店のオーナーは二度と此処へ帰ってくることはないだろう、と。 「私、この店のピアノが凄く好きだったんですよ」 「…………」 微笑みと共に名前から向けられた言葉に、軋識は眉を寄せて唇を噛み締めた。 それはまるで泣くのを堪えているかのような表情で、今まで見た事のない表情だった。 その時男は、自分があの音楽家に向けたメッセージを思い出していたのだ。 しかしこの少女の前で泣くような零崎軋識でもなく、入口付近に立っていた名前を通り過ぎ、扉に手を掛ける。 「行くんですか」 「もう会う事はねぇっちゃ」 「そうですか」 その言葉が何を意味するのかは分からない。 けれど二度と会わないのであればそれはそれで構わない。 結局のところ、彼らは零崎で己は零崎ではないのだから。 扉の閉まる音を背後に聞き、薄暗い部屋に一人残される。 もう此処へ来る事はないだろう。もしかしたら来るかもしれないが。 それでも、彼に会う事はないのだ。それだけははっきりと言える。 だから一応の別れを告げようと思った。 さようなら。 ありがとう、素敵な時間をくれて。 |