僕の獣を呼ぶのもそれを抑えるのも君の声

もう少しで終わる。
蜜蜂は筆を持つ手を休めて瞼をきつく閉じた。
この文書に目を通したら横になろう。作戦を練ることならそうしながらでも出来るのだから。
瞼を開くとまだ視界が白黒している。
次第に慣れるだろう、と思ったところで此方にやってくる足音を拾った。
この音は聞き慣れている。
襖が音もなく開く、その隙間から幼なじみの顔が現れた。
「みーくん、これ、何か食べないと倒れるぞって」
そう言って伸ばされた彼女の手には鮮やかな橙色をした柿の実。
「誰が言ったんです?」
「蝶々様」
「そうですか」
想像はついていたけれど。
溜め息を付きたくなって、なんとか噛み殺した。
やはり蝶々や蟷螂、彼らの前ではまだ自分は若輩者なのだろう。気持ちが僅かに塞ぐ。惨めで無意味な劣等感だとは解っているのに。
何故だかその醜い塊は彼女の前ではくっきりと自覚出来た。
「そうなの。だから休まなきゃ駄目だよ」
「…………」
いつからだろう?
目の前の幼なじみにこんなにも苛立ち始めたのは。
無邪気に笑い、裏もなく気遣い、心から涙を流す彼女に苛立ち始めたのは。彼女の声、姿、一挙一動に苛立ち始めたのは。
ふと、不穏で凶暴な考えが芽生える。
もしも、今此処で、その矮躯を押し倒してその四肢を切り落としてやれば、蜥蜴はどうなるのだろう。こんな自分を「みーくん」などと呼び慕う彼女は、変わるのだろうか。人を信じなくなったり、欺く為に笑ったり、涙も枯れてしまったり、するのだろうか。
その想像はとても愉快で、ほんの少し味気なかった。
「みーくん」
「……蜥蜴」
「ん?」
たとえば、名前を呼ばれるだけで嬉しそうに笑顔を見せるなんて、そんなこともなくなるのだろう。
それは何処か、何かが勿体ないと思った。
「それ、食べますから、剥いてもらって良いですか?」
「ほんとっ!? うん、分かった」
蜥蜴は早速懐から合口を取り出して柿の実に差し込んだ。小さなその指が器用に橙色の皮を剥いてゆく。その間も彼女は嬉しそうだ。
「嬉しそうですね」
思わず口にしてしまった。
そこには実は皮肉めいたものも含まれていたのだが、其れに気付く程聡い彼女でもない。手を止めてはにかむだけだ。
「みーくんの為に何か出来ることが嬉しくて!……だから、嬉しい」
「そうですか」
「そう。……はい、どうぞ!」
剥き終えたひと欠片を渡される。
紅葉にも似た、明るい色をした果実。かじりつくとまだ少し固いようで渋味が舌をざらつかせた。それでも噛む度にじんわりと甘味が口内に広がる。
ゆっくりと咀嚼している蜜蜂をぼんやり見つめている蜥蜴。しかし突然声を掛けられると、彼女は肩を跳ねさせた。
「蜥蜴?」
「へっ? あ、みーくん。はい!」
新しい欠片を渡される。別に催促をした訳ではないのだが、その笑顔を押し返すことなど出来る筈もなく受け取ってしまう。
思考することが段々と面倒になってきた。もしかするとだいぶ疲れていたのかもしれない。
「蜥蜴も食べたら」
「えっ?」
突然の蜜蜂の言葉に彼女が柿を滑らせそうになる。ぬるりと手を離れた実をなんとか両手で受け止めた。合口が畳に転がる。
安堵の息を吐いた蜥蜴が目を丸くさせて首を傾げた。
「なんで?」
「さあ……」
何故こんなことを言うのか、自分にも分からない。
ただ本当に、「食べてみたら」と思っただけだ。
「これはみーくんのだから、駄目」
「そうですか」
ここ数日で、何度この応答を繰り返したことか。予想していた答えだったのでそれ以上は何も言わない。
つまんでいた柿の実をかじる。蜥蜴はまた手を動かし始めた。その手先を見ながら咀嚼する。その小さな果実がなくなるまでは一緒にいようかと、ぼんやり思った。




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