αの葛藤

(灰羽リエーフ視点)


様子がおかしいことは分かっていた。練習中は何も変わったところはないが、練習後に片付ける苗字さんをじっと見ていると何かに怯えているような目をしていることに気付く。
俺が距離を置かれるのは悲しいけどまぁ仕方ないとして、驚いたことに黒尾さんまで避けられているようで、あまり話すこともできないようだった。
最近は同じクラスの福永さんの傍にいることが多いが、何があったかは聞いていないらしい。そんな福永さんだから傍にいられるのだろうけど面白くはない。違う。それより、何があったのか心配だ。
帰るときも今までは研磨さんか黒尾さんの隣にいたのに、今は列の一番後ろで海さんと話している。
周りが気付いていない筈はなかったが、誰も苗字さんに直接教えてもらうことは出来なかった。
少し気まずい雰囲気が部内に漂う中、週末の練習試合は始まった。
土曜日を丸一日使った梟谷との練習試合。その日、彼女は今まで取り繕っていたものをボロボロとこぼした。
朝から顔色は良くなかったし眠そうにあくびを繰り返していた。試合の合間もマネージャーとして一人で動かなければいけないとき以外は必ず誰かのそばについていた。まるで一人になるのを恐れるように。
午前が終わり、苗字さんは研磨さんの後ろについて外に出ていこうとする。
それに声を掛けたのは梟谷の赤葦さんだった。
その人の姿を見た途端、苗字さんは遠目から見てもあからさまに逃げる体勢に入った。隣にいたの研磨さんもそれに気付き、声を掛けた当人だけが平然としている。
見ていられなかった。
「苗字さん!」
俺は思わず声を張り上げていた。
ただ呼ぶだけの筈が、怒っているような鋭い声音になって体育館に響く。周りの視線が自分に集まるのも気にせず、なんとか怒りを押さえつけて言葉を続けた。
「早くご飯行きましょーよ!」
つとめて明るく彼女を呼ぶと、一瞬ほっとしたような表情を見せ、その後すぐに笑顔を陰らせた。
察しの良い研磨さんは俺の意図を正しく把握してくれて、彼女に何か言っている。研磨さんに頷いて、二人に頭を下げた彼女が此方にやってくるのにほっと息を吐く。
そのとき、赤葦さんと視線が合った。彼女の背中を見ていた彼の眼差しは自分にも思い当たるものだ。獲物を欲する捕食者の目。


部室に連れ込んで鍵をしめ、逃げ場を奪っても苗字さんが慌てることはなかった。昼食は体育館の周りかギャラリーでとる人が多いから忘れ物がなければ誰も部室には入らない。抵抗する両腕を左手で纏め、上まで上げられたジャージのファスナーを下ろして見える項に赤い痕を見つけた。
全身が熱くなる。頭の芯だけが冷たく凍りついていった。
「誰にやられたんスか、赤葦さんですか?」
先程の反応を見ていたら彼で間違いない筈なのに、苗字さんは頷かない。優しい彼女のことだから庇っているのかもしれない。
「口止めされてるなら、俺が聞いてきますよ」
「それはっ! ……ちがう」
「何が違うんですか?!」
「っ……!」
両腕を振り払われる。いつのまにか力を込めすぎていたらしく、腕を摩っていた。
本当は謝るべきなのに、頭に血が上っていてそれすら出来ない。悲しみと怒りと、信じられない気持ちで頭が冷静に動けない。
「咬まれたのは私が悪いの。でも、番になれないの分かってて……」
話している苗字さんの声が震えていく。なんとか声をふり絞ろうとしているのが分かった。泣きそうだ。
「赤葦さんに咬まれたんですよね?」
「…………ん。……う、ん」
ぐっと押し黙った苗字さんは俺が引かないことを理解して、小さく頷いた。
「あの人のことが好きなんですか?」
「……友達になりたい。それだけ」
分かっている。咬まれたことは彼女にとっては不本意なことで、彼女自身も傷ついているんだって。あの人が咬んだから俺も同じことをして良いということには勿論ならない。
この怒りの行き先は無さそうだけど、そんなことはどうでも良い。それよりも大事なことは目の前にある。
「言いましたよね? 俺、Ωとかαとか関係なく苗字さんのこと好きになったんだって」
「……あっ。あ、う……うん」
好きだという一言で恥ずかしがるこの人が好きだ。俺がαでなくても苗字さんがΩでなくても、この気持ちが変わったとは思えない。
だから、彼女にもΩである自分にひけ目を感じてほしくない。
「貴方がΩだってことで傷付くなら、俺が守ります」
言葉にするのは初めてだったが、いつもそう思っていた。苗字さんが怯えるものを、彼女を傷付けるものを無くしたい。それが叶わないなら俺が傍で守っていきたい。
呆然としている彼女を怯えさせたくなかったから、これ以上近づくノは止めた。
「腕、スミマセンでした」
「いい。痛くなかったから、ビックリしちゃって……」
「痛くない訳ないっスよ。いつもそうやって強がりばっか」
「えっ!? 強がりもしてない、筈なんだけどなぁ……」
少し表情を和らげていつもの調子を取り戻す彼女を見て、俺もつられて口元が緩んでしまう。
「……リエーフ」
「はい?」
「ありがとう、……ごめん」
謝る必要なんてないのに、そう言おうとしたがこれはもう彼女の癖だ。抱きしめてその口を封じることの出来るようになるまで、俺がやることはもう決まっている。




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