1. ねぇ、おやすみといって。


「一姫、もう寝ないと明日起きられないよ」
名前が風呂から戻ってきたとき、同室の紫木一姫は未だに机に向かっているところだった。おそらく今日の課題が出来ていないのだろう。名前は濡れた髪をそのままに一姫の傍に寄った。
案の定、机の上にはほぼ空欄のプリントが広げられ、一姫が低く唸っていた。
「……寝られないですよぅ」
「まぁ、ね」
それはそうだろうな、と思った。言葉が不自由なことを差し引いても一姫は勉強の不得意な生徒だった。
自分の課題が終わったところで勉強を見てあげるべきだったと、名前は自らの行動を悔やんだ。しかし彼女に勉強を教えなければいけないことに対する不快さは無い。
こうやって学年の違う二人が同室に宛てがわれているのもそれが大きな理由だと聞いているし、名前個人としても一姫の世話を焼くことは楽しかった。一人っ子の名前にとって彼女は妹のような存在である。
「手伝ってあげるから、何処が分からないか教えて?」
「うわーい! 助かります!」
シャーペンを投げ出す勢いで喜ぶ姿に苦笑する。甘やかしてばかりでは彼女のためにならないと理解しているのだが、どうしても強く叱ってやることができない。
書いてあるのは去年自分が習ったことと同じ内容なので、教えることも苦ではない。彼女が今まで費やしてきた時間は何だったのかと思うほどの早さでプリント1枚分の回答は埋まった。あとこれが2枚あるが、たいして時間も掛からないだろう。
「名前ちゃんは本当の先生みたいですよね」
「えっ……そう?」
「はいー。だって、先生の説明より名前ちゃんの説明の方が姫ちゃんには分かり易いのです」
「ふふ、なら良かった」
個人授業だからというのもあるのだが、そのあたりは言わないことにする。そう褒めてもらえるのは素直に嬉しかった。
「名前ちゃんは先生に向いてるのかもしれませんね」
「先生……?」
「姫ちゃんそういうのよく分かりませんけど、名前ちゃんが先生ならいいなぁって思うです」
「……そっかぁ」
自分が先生というのは、考えたことはなかった。この澄百合学園に入るまでは夢などなくただひたすら勉強に齧り付いていたし、この学園に入ってからは真っ当な夢を持つということはひどく現実味の無い話だった。
それでも、一姫がそう言ってくれると教師となった自分の姿をぼんやりと思い浮かべることができた。
先生というのも良いかもしれない。
「それじゃあ姫は?」
「なにがですか?」
「一姫は何か、なりたいものとかやりたいこととかある?」
途端、一姫は電源を落とされてしまったロボットのように動きを止めた。表情を作ることさえ忘れてしまった顔はまるで人形のようだ。
きっと考えたこともなかったんだろうな、と淋しい気持ちになりながらじっと答えを待つ。
口を開くまで1分も掛からなかった。
「分かりません」
本当に分からないのだ、この子は。やりたいこともなりたいものも思いつかない、考えたこともない。
きっとこの学園にはこういう子は多いだろう。
何か返さなければ、と悩んだものの上手い言葉は出てこなかった。
「ちょっと……難しかったかな」
「でもです、姫ちゃんは……ただ、楽しく生きていけたらそれでいいですよ」
自分より年下の女の子が自分の人生をこんなものだろうと諦めてしまう姿が悲しかった。それでも、自分も同じようなものだろう、と自嘲する。
今年卒業を控えた名前だが、特にやりたいことも考えていなかったしこの学園を卒業して進む先など限られている。本当にやりたいことはないのかと聞かれても、特にはないと答えるだろう。
「それは、私もそうだよ」
ただ、口にすることが躊躇われる願いならばある。
(私も、一姫や子荻達と一緒に楽しくいられたらそれでいいんだ。何処にも行きたくない)
こんなことを名前が思っていると知れば、萩原子荻は激怒するか呆れるか。そうであってほしいと思う一方で、彼女に失望されたくないと思っている。
「私も、姫達と一緒にいるのが楽しいよ」


出された課題プリントを全て埋めて時計を見ると日付がかわった頃だった。
一姫を風呂へ送り出したところで気が抜けたのか、睡魔に襲われて名前は身体をベッドに沈めた。
明日の授業はなんだったっけ。予習をした筈なのだが、内容は既に頭から抜けてしまっている。寝る前にいちいち思い出そうとすることでもない、とこれ以上考えないようにする。
それより、明日は子荻と朝ご飯を一緒に食べられたら良い。今日は課外活動が忙しくてほとんど学校にいなかったみたいだから。
「…………ねむ」
きっとこれから卒業と就職に向けて忙しくなるのだから、毎日を楽しく生きていたい。
(だって、どうせ、きっと長くはない)
このまま睡魔に負けてしまっても良いのだが、一姫が帰ってくるまでは起きていたい。
時計を見るのも億劫で、ふわふわ、時折カクンと意識を眠りの世界に落としながら暫く待っている。もう少しで睡魔に負けそうだというところで一姫の声が聞こえてきた。
「名前ちゃん、名前ちゃん」
「ん……」
視線を天上に向け、重くなった目蓋をのろのろと持ち上げると、蛍光灯の光でぼやけた一姫の輪郭が影を作っていた。
ちゃんと 髪は乾かしたのだろうか。そういえば自分は結局ドライヤーを使っていないが頭が冷たい感じもしないので良いだろう。
影が動く。明日の準備とか、ハミガキをしたかとか、聞きたいことは沢山あるけれど口が動きそうにない。眼球を動かすだけで一姫がベッドに行く背中を見送った。
そのまま寝てしまうのかと思ったが、私の方に戻ってきた彼女の手には枕がある。
「…………」
「姫ちゃんも一緒に寝てもいいですか?」
「……いいよ」
断る理由はない。
一姫は枕を名前のものとぴったりとくっつけ身体を隣に潜り込ませると、二人の身体に布団を被せた。そこで部屋の電気が点いたままなことに気付き、再びベッドから降りる。
「もう電気消しますよ?」
「ん……」
名前は既に受け答えをするのも厳しくなっており、隣に暖かい熱を感じると一層心地好さに包まれてしまった。
明日の準備は明日すれば良いことだし、このまま寝てしまっても良い。
(せっかく一姫がいるのにこのまま寝ちゃうの勿体ないなぁ……でも、明日もあるし、まぁいいか……)
日頃の疲れと人肌の心地好さに負けて、名前は眠りにつくことにした。




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