それがはじまりでした。 ふと、クールダウンをしていた笠井が視線を遠くにやったので、渋沢もつられてそちらを見た。そこには女の子達の集まりがあるだけだ。 中学校のサッカー部の練習試合にしては多い観客にも既に慣れた。いつの日か、「動物園じゃないんだから」と零した中西にも同意はするが、それだけ期待されているのだと思えば嬉しい気持ちもある。 (今日は相手も良かったしな) 県外からやってきた強豪相手には一軍も総出で戦ったので、終わってみるととても気分が良い。 「渋沢、どうかしたのか」 動きを止めた渋沢にペアを組んでいた辰巳が声を掛ける。そんなに長く見ていたつもりはないんだけどな、と思いながら「いや、何でもないけど」と返す。 「何でもないって。女子の方を見て、どうしたんだ?」 表情が訝しげだ。確かに渋沢が女子に興味を示すなんてことは本当に珍しいので仕方ないのかもしれない。いつもの無表情の中にあるのは好奇心と、言ってしまえという威圧感。 「……さっき、笠井が女子の方を見てたから、何かあったのかって。ただそれだけさ」 「笠井が?」 聞き返した声が高くなる。渋沢と同じように辰巳も意外に思ったのだろう。渋沢と同じくらい女子に無関心に見えるのが笠井だ。 実際に無関心かどうかは分からない。バレンタインデーには貰ってホワイトデーには返してはいるみたいだし、女子が苦手という訳でもないようだ。ただ、その人気の割には誰かと付き合ったというような噂が一切なかった。 「へぇ……なんでだろう」 「だろう? 気になって、な」 自分が追及されないことに安堵して、今度は笠井に対して疑問に思った。何があったのか、後で聞いてみようか。 話のネタになっている笠井はそんなことを考えられているとも知らず、藤代とストレッチを続けている。 「ほら、また見た」 「なんだ? 今度は藤代も見た、……あっ!」 「何やってるんだ……」 二人がフェンスを見たのが分かったとき、いきなり藤代が走りだしたのが見えた。驚いた笠井もその後を追い掛ける。 二人揃って溜息。 女子は武蔵森の生徒ばかりだから知り合いでもいたのか。交友関係までいちいち口を出したくはないが今は部活中。浮かれられては困る。 「ちょっと行ってくる」 「あぁ」 辰巳を残して渋沢もフェンスに向かった。 藤代はフェンスの向こう側の誰かと話している。見た覚えのない顔だから二年生だろう。 近付くにつれ女子から突き刺さる視線が鋭さを増しているような気がする。少し怖い。 出来るだけそちらを見ないようにして、クールダウンをサボった二人を注意した。 「こら、お前ら。何をしている」 「キャプテン!」 大袈裟と思えるほど反応したのは笠井だ。その驚きように、今まで藤代と喋っていた女子が渋沢の姿を視界に入れた。 彼女はキャプテンに怒られている笠井を理解して気まずそうに表情を歪ませる。 「うわー……竹巳、ごめん……」 とりあえず両手を顔の前で謝る。そんな少女の後ろで、彼女に顔立ちの似た――姉妹だろうと思われる人が渋沢を見た。 笠井くらいの髪の長さ。けれど輪郭の丸みは明らかに女性のもので。 (男の子みたいだな) 本人には言えないような感想を持ちながら、渋沢は意識をその二人に向けた。 男の子のような方が口元だけで微笑む。愛想笑いのようなものだった。 「ごめん、こっちが呼んじゃったみたいで」 年下にしか見えない彼女がそんな風に、落ち着いた声で言ったので内心驚いた。もしかしたら年上なのかもしれない。 いつも自分が嗜める側にいる渋沢には新鮮で、何て返せば良いのか分からなかった。況してや非があるのは明らかにこちら側だ。 「いや!名前ちゃんは悪くないから」 「っていうかなんで誠二くんこっち来るのー」 「だって見てみたかったんだもん、竹巳が話してたから」 「誠二、うるさい!」 「やだ、竹巳ったら。お姉ちゃんのことってなに話してたの?」 「別に大したことじゃないし」 二年生と掛け合いをしている方の少女は彼らと同級生に違いない。いつまでも続きそうな掛け合いに待ったをかけたのは渋沢ではなく彼女だった。 「こら。もう邪魔するのは止めるよ」 そんな物言いに、彼女は年上だなと確信した。 「邪魔じゃないッスよ」 「藤代君、キャプテン怒ってるよ?」 「うー……はぁい」 渋々とフェンスから離れた藤代を見る彼女の眼差しは弟を見ているような優しさが感じられる。 「じゃあ苗字先輩、また後で時間ありますか?」 「ちょっと誠二」 「いいよ、大丈夫だよ。……ありがとタクちゃん、気にしないで」 「……タクちゃん!」 「何だよもう!」 「ほら、早く戻れ!」 笠井のことをそう呼ぶ人間を初めて見た。藤代がおかしそうに復唱して怒られている。 埒があかないので声を張り上げたらフェンスのあちら側にいた二人もびっくりしていた。 「了解っス」 「はい!」 元気の良い返事だ。グラウンドに戻っていく背中を見送った渋沢に声がかかる。 「ごめんなさい、迷惑掛けて」 「いや、どっちかと言うと藤代の所為だから、君の所為じゃないよ」 「しっかりしてるね、キャプテンさんは」 「そんなこと……」 小さく笑われるけれど嫌味という感じではなかった。 ただその言葉に込められているものが何なのか分からず、どうにも調子が崩れる。 「お疲れさま」 そう言って会話を途切れさせたのは早く戻るよう促しているからか。確かに此処にいる必要はなくなったし、ノロノロしていればさっきの彼らへの注意が無意味なものになってしまう。 「うん、応援ありがとう」 とりあえずそれだけ言ってフェンスから離れた。 歩き出すと思い出したように感じる倦怠感。(そういえば今日はいっぱい動いたんだっけな) 辰巳のところへ戻ると、既にストレッチを終えていた彼は渋沢を見て首を傾げた。 「どうしたんだ?」 「笠井の知り合いが来ていたらしい。藤代がはしゃいでた」 「渋沢の知り合いじゃないのか」 「は? なんで」 「何か話してたみたいだから」 「いや、別に大したことは話してない」 事実を述べただけなのに、辰巳には納得がいかない顔をされた。というよりは面白くなさそうな顔だ。 「かわいい子でもいたのかと思った」 「…………、……は?」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。ぽかん、と間抜けに口を開けた渋沢を辰巳は不思議そうに見る。 「何だ、その反応は」 「いや、なんで、いきなりそんな……」 「そこまでびっくりしなくてもいいだろ。お前が部活中に女子と話してるのが珍しいから」 「あ、あぁ」 ほっと胸を撫で下ろした。なんだ、それだけか。部活中に女子と話すことなんて滅多にないから当然といえば当然だが。 「それとも、本当にかわいい子でもいたのか?」 渋沢好みのかわいい子なんて、と言いたげに辰巳は笑う。 レギュラー同士、ルームメートでもある辰巳とは浅い仲ではない。故に渋沢の好みもある程度理解されていたのだ。 「え……」 渋沢は言葉を失う。 反論出来ないのは出来ない要素があったからだ。 その反応だけで辰巳には分かってしまった。 こいつにもついに春が来たか、などと思いながら、辰巳はまだ見ぬ相手に興味を持った。 |