To the Sky | ナノ


ミラノの霧は、霧の都ロンドンのそれよりも濃密なのだ。
狩魔豪は、静かな声でそう言った。



北イタリアの首都。ファッションとアートの庇護者を掲げる都市は、白乳色のヴェールに覆われていた。
重たく濡れたような静かな霧。
古いミラネーゼ達が誇らしげに語るナヴィリオ運河の上を、車が走り抜ける。
ヘッドライトの光が深い霧に反射し、エンジン音も心なしかくぐもって聞こえる気がする。

ブランド通りと称されるモンテ・ナポレオーネ近辺の一画。
有名ブランドのブティックが建ち並び、お洒落なアンティークショップ、気さくなカフェやビストロが生き生きとエネルギッシュな美意識を発している。
その中で、ベージュの外壁の、上品だがありふれたマッチ箱みたいな四角いビルは、けれど一歩踏み入れてみるとがらりと印象がかわった。


白い大理石の床。描かれる滑らかな流曲線の意匠。
孔雀の羽を広げたような軽く鮮やかな色彩が天井を包み込む。
室内装飾は、いかにもミラノらしいバロック調に統一されている。
大きな長方形のショーウィンドウは、晴れている日には光をモダンに取り入れるのだろう。
ディスプレイされた風合いの良さそうなグレンチェックのスーツが、道行く人々の目を惹く。

空間を広く贅沢に使った老舗既製服ブランドの総本店。
巌徒海慈は、壁に沿って配置された陳列棚からひとつハンガーを抜き取り、全体像を一瞥して、再び元の場所に戻した。



並木道のプラタナスの梢が、霧の中に薄く翳りを落としている。
ショーウインドウから外を覗くと、永い時を感じる石畳の道の向こうに、教会が朧げに見えた。
第二次大戦の爆撃を免れた古い建築なのだろう。
教会の頂きに独り佇む金色の聖母像は、夢うつつのように、霧に沈澱している。
それは、無垢の乙女が不浄の中に引きずり込まれ、溺れもがいているようにも映った。


荘厳な静けさ。
そんな虚構のような世界を、カシャン、と甲高い余韻を残すノイズが切り裂いた。
金色の古雅な受話器が、クロークデスクの電話機に戻される。

「典型的なロストバゲージだ。貴様のトランクは目下行方不明だそうだ」
「―――ツイてないなぁ、本当」

前髪を弄びながら口唇を突き出して不服を唱える巌徒に、狩魔はふん、と鼻で笑った。

「日頃の行いが悪い所為だろう。見付かり次第連絡が来る」
「えー、他にいないよ。僕ほど善良な人間なんて」



荷物が到着しないトラブルは、航空業界にはよくある事だ。
有給休暇を消化し、一人旅ついでに国際警察への協力として異国に飛ばされた旧友―――こう言うと狩魔は酷く嫌そうな顔をするのだが―――を見学しに来た身にも、容赦はしないらしい。

衣類を現地調達するべく、連れ立ってやって来たのはクラシコ・イタリアを代表する高級既製服ブランド。
代名詞とも呼べる手縫いスーツは、優れた仕立て職人が一着ずつ百以上の工程を一針一針丁寧に仕立てているのだそうだ。
イタリアの伝統技術とその精神を継ぐ、滑らかな着心地とエレガントなシルエットに、感嘆の声が溢れる。

ドレープの美しい衣服を吊り下げる、銀色のポール。
高い天井とシャンデリアと、数ヶ月ぶりに見る同期の姿を背景に、歪に映り込む自分の顔と眼が合って、巌徒はニコリと、作為的に笑った。
銀色のポールの中で、自分と同一の姿が酷く白々しく微笑み返した。


「どう?お仕事は」
明るく軽い口調で、背中へ問う。
数ヶ月ぶりに見る狩魔豪は、相変わらず眉間に峡谷が如くシワを刻み付けていた。
時代錯誤を感じるクラシカルなスーツに、アスコットタイ姿。
装いこそは彼の定石と言っても過言ではない姿だが、色の白い肌に眼の下の隈が目立っている。

「どこでも、やる事は同じだ」
「イタリア警察、こき使ってるんだ」
「使い物にならんな、全く」

狩魔は軽く眉を寄せて、吐き捨てるように宣った。

欧州の、閉ざされた階級社会。
その閉塞感の中を泳ぐ困難に少しばかり同情の念を馳せる。
けれど、巌徒はすぐに考えを改めた。
気難しい完璧主義信者。同情されて、弱音を吐くくらいならば、潔く死を選びそうだ。
開かれない扉を威風堂々と切り込む姿がゆうに想像できて、巌徒はくつくつと笑った。

「貴様、何がおかしい」
「狩魔ちゃんの毒舌、ひさびさ」

その返答に、チ、と舌打ちして、狩魔は忌々しそうにに眼を反らした。



オールドファッションが根底に流れる仕立てでありながら、どことなく現代的な雰囲気をも併せ持つ、モダンクラシックスタイル。
良質な生地の柔らかい表情を楽しみながら、巌徒は深く息を吸い込んだ。

ミラノ特有の、霧の混じった風の匂いがする。
膨大な歴史に埋もれたローマやフィレンツェ、コバルト色の海洋文化で形作られたナポリやシチリアとは異なり、ミラノはロンバルディアの赤く痩せた土の残り香だ。
歴史と現代的大都会が混ざり合う雑然とした匂い。



「巌徒海慈、」
「ん?ナニ?」

名前を呼ぶ不機嫌な声に振り返って、そして、刮目する。
押し付けるように強引に手渡されるスーツ。
細やかな格子のシャツ。Vゾーンが広めの二つボタンジャケットはコットンとリネンの混紡。
ゆったりと流れるようなフォルムと、遊び心溢れる渋派手な色使い。巌徒が、好みそうな。

「――狩魔ちゃん?」

困惑の念が混じる声に耳も貸さず、秀麗な眉間にシワを刻み、狩魔はぞんざいな仕草で手を持ち上げた。
スーツを抱える巌徒の腕の中に、すとんと落とされる。
グリーンの縁がアクセントとなっているポケットチーフ。

「――貴様にはそれくらいしか似合わんだろう。支払いは免除してやる」


言葉とともに、いつの間にか現れたクローク係に片腕を上げて合図する。
いかにも南欧州の灰青色の目が緩慢な動作で狩魔に頭を下げた。
信用払いが聞くのだろうか。


「…後でカラダで支払え、なんて言わない?」
「―――だとしたら、どうだ」

投げかけた冗談への予測せぬ返答に巌徒が固まる。
強張る指からポケットチーフがすり抜けて落ちそうになり、慌てて掴んだ。

「荷物くらいまともに持て。貴様、老化か」
「…ヤ、どう考えても今のは、狩魔ちゃんが、――…何ヤラせる気?」
「言った筈だ、」

険のある、昂然としたふてぶてしい笑み。偽悪的な表情。
完全無欠であることを自己の墓標へ血肉をもって刻んだ男は、けれど、どこか満足感に溢れた声で、ショーウインドウの向こうの空を見つめた。

「イタリア警察は、使い物にならんのだ」




いつのまにか濃い霧が薄れ、隙間から顔を出す美しい青空から揺らめく陽光が凋れている。

僕、一応仕事休んで休暇で来てるんだけどなぁ、と小さく形式上だけで文句を言って、巌徒は清濁併せ呑むグリーンの瞳を楽しげに細めた。

霧を含有する生暖かい風のあとで、冷たい風がどこからともなく吹いていた。





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