To the Sky | ナノ


東京から飛行機を数時間乗り継いで、それから紅河デルタの穏やかな水田風景の中を半日ほどバスに揺られて、漸く目的地に辿り着いた。
日本であればとうの昔にスクラップ工場行きに処されていたであろう、安全基準がかなり怪しい公共バスは、悪路で激しく揺れる上に所々窓が閉まらず、降りた時には埃まみれでお尻が痛かった。
派手好きで華やかな地位にありながら、変にこういった冒険的な事を好む同行者に文句と幾許か苦言を呈しつつ、けれどそんな事が全て吹き飛ぶほど、風景は美しかった。



紺碧に沈む南シナ海は、空のそれと寸分変わらない色をしている。
寄せては還す波が小さく囁き、風はシルクのように柔らかい。
ロングビーチに沿って植えられたパームツリー達がゆらゆらと緑色を揺らしている。
夜明け前。
世界は、新たな太陽の到来に渇望する。


ホテルは、藁葺き屋根のベトナム民家をモチーフにしたコテージだった。
部屋から海へと直行できるつくりで、潮騒が呼ぶ風に包まれているのを肌で実感できる。
ベッドが二つ、ソファにデスク。小さなシャワーブースとミニキッチンが備えられている。それから、海に面したウッドデッキに白いサンチェアが一組。
罪悪感がするほど豪勢ではなく、けれど素朴で清潔で心のどこかで懐かしい香りを感じる。

持ってきたノートパソコンは、一度も起動されずに放置されていた。
ウッドデッキのサンチェアに座って、まだ暗い夜の海を眺めながらぼんやりと過ごす。
遠くの島影が水平線に微かに浮かんでいる。
稀に通り過ぎる漁船は、群れ離れて彷徨う孤独なホタルのようだ。


円環的時間観によれば、時間の流れは環の形をしているらしい。
回帰の環。ニーチェの永劫回帰思想にも通じる考え方。
ここにいると、その事が絶対的な真実なのだと、信じられる気がする。

一秒、一分、一時間……。
滞りなく、時計の針は廻る。
それを咎められる事もなく気にも止めず、夜が明ける瞬間を待つ。
何よりも、最高の贅沢。



亜細亜を駆け抜ける季節風が混じり合う、風の国。
永い歴史の中で、幾多の大国に翻弄され、けれどその度にその影響を独自に消化し、オリジナルの風情へと変化させる、インドシナの宝石。



「や、そこの可愛いお嬢さん、泳いでる?」

声とともに、ひょいとバームツリーの影から現れた大柄のシルエットは、パウダーサンドを楽し気にざくざくと踏み鳴らした。
海に入っていたのか、髪はまだ乾いておらず、潮の香りがする。
水着一枚で浜辺をぶらつく姿。焼けている野性的な肌と相俟って、現地の住民に見える。
均整が取れて見事に引き締まった体は、年齢詐称しているのではないかと疑いたくなるほど、若々しい。
彼はきっと、海から生まれて、海と太陽に愛された人なのだ。


「…お嬢さんはお連れ様が構って下さらないので不貞腐れてます」

名前の小癪な切り返しに、巌徒海慈は豪快に手を敲いて笑った。
夜の所為か、薄い色のサングラスはしていない。
蒼穹の闇の下、剥き出しの緑眼が、薄く光を横溢させている。

「大変申し訳なかったな、ソレは」
彼の同期の気難しい完璧主義者を真似たのか、取ってつけたようなわざとらしさ全開で仰々しく一礼して、それから悪戯な、ニヤリ、と言った形容が相応しい笑みを浮かべた。

「可愛いお嬢さん、お土産どーぞ」



刹那にまどろむ青碧の海。
その遥か世界の果てから、じわじわと紫色に侵略されていく。
潮風が、太古へのノスタルジーを呼び起こす。
シンプルで繊細な波のリズムが、すすり泣いている。


「珊瑚?」
手のひらに乗せられたのは、大きめの珊瑚の欠片だった。

「そ。正解。名前ちゃんかしこーい」
子供にするみたいに、名前の髪をわさわさと撫ぜた。
わざとらしさが逆に馬鹿にされている感がする、と思いながらも言わないでおく。

「これ、どうしたんですか?」
「うん、地元の漁師にもらった」
「……ベトナム語喋れましたっけ」
「なんとか通じるもんだよー、その気になれば」

言いながら、巌徒は名前の隣に座った。
白い椅子に背を預け、足を組む。
海とお揃いの瞳が、冷たい夜の底を眩しそうに見つめた。


紺碧の空は徐々に薄く色づいている。
紫の潮を湛える海。
その曖昧な境界線を、渡海する風が抜ける。
パームツリーの清廉な美しい香り。


「贅沢だねぇ、本当」
「そう、ですね、本当に」

何も考えない幸福。
全てを理解しようとしない安逸。
世界は、私には大きすぎる。
ピントを上手に合せられなくて、ぼやけて全体像が掴めない。
きっと、それでも良いのだと認められるのは、強さそのものなのだ。
海の如くその強さに愛された彼に、感じるのは眩惑するような憧憬と嫉妬。
その至高を、触れたいと願う。強く。



夜の支配権が弱まり、太陽の気配が海岸に満ちてきた。
少しずつ、けれど確実な歩幅で、朝はやってくる。
すぐそこまで忍び寄った太陽は、長く冷たい夜に抗うために紅く染まっているのだと、ホテルの現地スタッフの言葉を思い出した。


「名前ちゃんを独占できる事が、だからね」
「え?」
「贅沢の主語」

突拍子もないタイミングに瞠目する。
遅れ気味の反応で見遣れば、太古の淡い海の色が優しく見守っていた。


「―――確認しますが、実は巌徒さんの影武者さんでまるきり別人、ではないですよね」
「…ヒドいなぁ、僕、これでも繊細なんだから」
「ソウデスカ」
「ナニかな、その棒読み」


目線が絡み合って、クスクスと二人して笑った。



終焉と始原が重なり合う、久遠に行き来する時間の環。
寄せては還す南シナ海の潮のように、時は廻る。


うっすらと、淡い赤色が滲む地平線を見つめる。
惜しみなく燃える太陽が、もうすぐ、海も空も分け隔てなく染めあげるだろう。
世界はいつもと変わらず美しく、けれど実の所、酷く呆気ないものなのかもしれない。
愛することも憎むことも、結局同じもので出来ているのだと、名前は思った。


太陽は、手の中の珊瑚礁と同じく、鮮やかな紅色をしていた。


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