To the Sky | ナノ


世界で初めて地下鉄が開通したこの街では、地下鉄のことを親しみを込めて、チューブと呼ぶ。

その世界初のチューブの、最初の区間駅。
今や合計十番線を持つ、ロンドン地下鉄路線網では最も多いホームを持つ駅で、かの有名のマダムタッソー蝋人形館の最寄り駅でもある。
ベイカー・ストリート・チューブ・ステーション。
ここには、世界で最も有名で最も優秀な名探偵のアドレスがある。




改札に向かう駅の構内には、タイルのように壁紙が敷き詰められていた。
描かれているのは、トレードマークのパイプを持った探偵のシルエットで、けれどそ傍に大きく掲げられている禁煙マークに少し皮肉を感じる。


「ついに来ちゃいましたね!ベイカー街221b!」
「まだチューブの降りたばかりだろう。番地はまだ先だ」

跳びはねるようにはしゃぐ若い女に、赤いジャケット姿の、まだ幼さの残る少年が鋭く指摘をする。
一見、年齢的には立場が逆転しているようなやり取りは、けれど実の所、両者にほぼ相違は無く。
同じ様に頬を上気させ、瞳をキラキラ輝かせている子供二人の後ろで、後見人たるトレンチコートの紳士は、くすりと優しげに微笑んだ。




チューブの出口では、曇りがちの空が待機していた。
霧の都、と呼ばれるロンドンにしては、珍しい事ではない。
腫れぼったい雲。その隙間を縫うようにわずかに覗く陽光。
その下で、鹿撃帽にインバネスコート姿、トレードマークのパイプを手に、偉大なる探偵その人が待ち受けているのだ。



「怜侍くん、目線ちょーだい」

カメラを構える名前に促されて、御剣怜侍は渋々と言った様子でブロンズ像の足元に立った。

「はい、笑ってー!Say Cheese!」
フラッシュが焚かれる。

「わざわざ英語で言うな、馬鹿」

小さく文句を呟いた息子は、けれど、分り辛いながらも普段より少しだけ楽しげに見える。
やはり、彼女を連れて来て良かったと、御剣信は、眩しそうにハットを抑えた。




到る所で見かけられるパブの看板。
小径の石畳や街灯の意味ありげな表情。
屋根の無い赤い二階建てバスが気持ち良さそうに走る抜ける。
後には、排気ガスの肌触りが残された。

ベイカー街221b。
今でも絶大なブリティッシュ・ヒーローの一人、コナン・ドイルが創作したシャーロック・ホームズの街。


「ここ一帯もモチーフに使われてるのかなぁ」
「そもそもドイルが生きていた頃には221bなんてなかったから、無理だ」
「…もっと夢を持とうよ、少年」


現在でこそ有数の観光地となっているが、シャーロック・ホームズが活躍していた時代のベーカー街には、85番までしか存在していなかった。
1930年にアッパー・ベイカー街と合併して生まれた221bは今、アビー・ナショナル住宅金融組合のビルが建っている。

赤い煉瓦の壁には、真鍮のプレートが掛かっている。
”221b SHERLOCK HOLMES CONSULTING DETECTIVE.”
現在でも、ファンレターや調査の依頼の手紙が舞い込んでくるのだそうだ。



何度目かのフラッシュの光。

「ねえ、信さーん」
カメラを手に、名前は爽やかな笑顔を浮かべて振り返った。

「うちの事務所も、これくらいカッコイイ看板置いたら依頼人も増えるんじゃないでしょうか」

目指せホームズ!と息巻く助手に、苦笑。

「それはまた随分と、高いハードルだな」
「いやいや、信さんなら勝てます!なんだって我らがホームズですから!ねっ」

力いっぱい主張する名前に話を振られて、怜侍は、同様に力いっぱいコクコクと頷いた。



空も建物も石畳も灰色だ。
だから、だろうか。
住宅街の庭先に溢れた花々。露天で売られる林檎。
緑地の芝の色。ケーキショップのショーケースに配置されたカップケーキ。
そういった何気無い風景色が、鮮明な輪郭を持って浮かび上がる。

そう感想を告げると、
「…カップケーキ、マーブリングの蛍光色ですから、確かに鮮明ですよね」
流石英国、原料は何を使ってるんだろう、と彼女はあからさまに怪訝そうな顔をした。

「確かに、食欲をそそられる色ではないな」
苦く笑って軽く同意を示す。




いくつにも複雑に重なりあう灰色の雲。
太陽の光が絡んでできる空模様が美しいコントラストを放っている。
日本のそれよりも、少し紅色が強く感じられる。


「…信楽さんなら、」
カップケーキを見詰めながら、眉間にヒビを入れて酷く真剣な顔で御剣Jr.は答えた。
「信楽さんなら食べられそうだ」

「――…怜侍くん、将来とんでもなく部下を虐めそう」

そう言いながら、けれど、言葉とは裏腹に名前は財布からポンドを取り出そうとしている。
爽やかでコケティッシュな表情。悪戯な光を瞳に宿して。




灰色の無彩色の世界。
そこに、最も艶やかな極彩色を持って切り込んでいるもの。
それはきっと、彼女たちなのだろうと、導いた答えに一人、満足げに頷いて。

御剣信は、このままでは餌食になりそうなもうひとりのワトソンくんを庇うために、愛しい人達の間に割り込む事にした。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -