To the Sky | ナノ


窓の外は雨だった。
ミルク色の霧雨に、大都会はすっぽりと覆い隠されている。
この都市において、初夏の長雨はジャカランダの花ほど珍しい。


「ねぇ、響也ぁ」

舌足らずの、甘すぎるふわふわのホイップクリームみたいな、猫なで声。
一番の武器は、若さと女としての性的魅力。
けれど、一番を取り除いた後の二番目以降は、何も残っていないカラッポな雰囲気で、カノジョは言った。
その露骨さに、思わず苦く笑ってしまった名前に、カノジョは不快感を銃砲に込めて発射するように睨みつけた。



アメリカ第二位の、西海岸に位置する大都市。
ハリウッドを中心とする映画産業があり、その為もあって郊外に高級住宅街ビバリーヒルズがある。
スペイン語で、天使たち、と名付けられた街。


まず、食事が酷かった。
明らかに蛍光色の炭酸飲料、調味料の味しかしないジャンクフード。濃すぎる上に脂っこい味付け。
その中でも特に、コーヒーはがむしゃらに不味かった。
不味いと言うよりも、コーヒーという名前を騙った泥水だった。
それから、クラクションが煩かった。
高層ホテルの部屋まで昼夜問わず響くそれは、安眠妨害以外何者でもなかった。
現地の人はどうして気にならないのか不思議に思い、だからこの街で育った彼に尋ねてみたら、
「なら、僕のアパートメントの方に来ない?」
と、女性なら誰しもが落ちてしまいそうなエンジェリックスマイル付きで、答えになっていないご提案を頂いた。
丁重にお断りをしたが。

そして、
降り続いている雨だ。



ホテル近くのカフェでも、やはりコーヒーは美味しくなかった。
熱いだけのそれに口をつけて、雨に滲む街角をぼんやりと見やる。

窓ガラスには、ゴージャスな金髪碧眼のカノジョが写り込んでいる。身体にぴったりとフィットした黒いドレスに、爪は銀色。大ぶりのアラベスク模様の耳飾が揺れる。
頭を傾げて乱れた髪の一筋を弄って、カノジョが熱心に色仕掛けをしていらっしゃるのは、言わずもがな、人気バンドのフロントマンも勤める若き天才検事だ。
法曹界のサラブレッド、だなんて、かっこいいようなそうでもないような二つ名を持つ彼は、一応、名前の連れ、というポジションにある。旅のパートナーと言う意味でも、私生活でも。


低く垂れ込めた灰色の雲が泣いている。
しとしとと霧雨の降る中、カフェのひさしの下で黒人のサキソフォン吹きがメロディーを奏でている。
大都会の優しさも辛さも矛盾も、ごちゃ混ぜでお鍋で煮詰めたように荒く、少し哀愁に満ちた音色。


若いな、と名前は思った。少しだけ羨ましい、とも。
彼と、カノジョ。英語とたどたどしい日本語が混じった会話。
ガールフレンド、とカノジョは言っていた。
それを、酷く困ったように響也くんは、昔のことだ、と弁明した。

偶然鉢合わせた、かつてのガールフレンド。
向けられるあからさまな敵意は、いっそ清清しいほどで。
降り続く雨の中に跳びだしてぐしょぐしょに濡れてでも恋の残り香を掴みたいような、恋が生きる事そのものだとでも言うようなそれは、間違いなく若さだった。
うまくいく。きっとうまくいく!
独善的で、それを信じて疑うことを知らない瞳の色。
かつて、自分も持っていたもの。今は、どこかに置いてきてしまったもの。


遠くで汽笛みたいな長いクラクションが響いた。
ぼんやりと雨に侵食された思考を戻すと、ガラス越しにふと、響也くんと視線がかちあった。
いつもの紫色のジャケットではなく、少しヨレたヒッピー風のシャツ姿。口元には品の良いアルカイックスマイル。
けれどアンバーの瞳は、気焔を上げる若者のように真摯で激しい。
熱っぽく浮された甘い視線。
若くてまっすぐで、強さと無謀さをバランスよく持ち合わせている。
例えば、雨の中に飛び出して行った恋人を、濡れてでも追いかけて手を掴めるような。

見入ってしまったら全身が蕩けてしまいそうなそれに、名前は思わず目を逸らした。
この顔が世界に二つもあるだなんて、なんて贅沢なのだろう、と思う。
もったいなさすぎてちょっと恐い。
そのうち一つが、曲がりなりにも手に入ってしまっただなんて。




「ねぇ、だからぁ、響也も一緒においでよー」
そんな感じのお誘いのフレーズ。
どこぞのパーティーへのご招待。
カノジョの中では、その後ホテルに直行コース、なんてものが描けているのかもしれない。


「すまないけど、だから僕は、」
「行ってもいいよ」

雨のせいで、クラクションが煩いせいで、コーヒーが泥水なせいだ。
外野から、遮って口を挟んだ名前を、彼とカノジョは驚いたように見た。


にこり、とカノジョに笑いかける。
大人の余裕っぽく見えるように、角度も計算済み。
大人気ないし、性格悪いな、と自覚しながら。

「でも、彼は私にべったりだから、引き離せすのは至難の業、だけどね」




ブロンドの巻き髪を揺らして。
カツカツと、ピンヒールが小気味よく離れていく。
黒いドレスの裾を翻して、苛立ちを隠そうともせず遠ざかるカノジョは、やはり頭が軽そうで、けれど、その若さを精一杯満喫している姿勢を嫌いじゃないと思う。


「ねぇ、響也くん」
後姿を眺めながら、カノジョの口ぶりを真似て呼びかけてみる。
私だと、甘えた感じが随分とたりない。

法廷では絶対に見せないであろう、少し照れ気味な態度で。
「名前さんが俺に妬くのって、どうしよう、凄く、嬉しい」

甘えた所を私限定で見せる王子様は、ずるいくらい、綺麗に微笑んだ。



「観光がしたいの」

ミルク色の霧雨に閉じ込められた、天使たちの街。
例えば、今この雨の中に跳び出したら、彼は追い掛けてくれるだろうか。
例えば、逆の配役になったら、私は濡れててでも彼の手を掴めるだろうか。
導き出した答えに感じるのは、少しばかりの安堵感と優越感。

「クラクションが煩くない天才検事さん宅でおいしいコーヒーを飲める観光ツアーって、あると思う?」

「―――ご所望であれば、喜んで開設いたしましょう」

慇懃丁寧な口調。悪戯っぽい眼光。
挫折を知らない子供のような響也くんの答えを聞きながら、やはり私もまだ若いのだろうと、名前は自らの無節操に哂った。


コーヒーの黒い水面に、酷く子供じみた、楽しそうな自分の顔が映っていた。



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