To the Sky | ナノ


ルーヴル美術館から、北に向かう。
ルイ14世が幼少期を過ごしたパレ・ロワイヤルの石畳を通り抜けた先。
両岸にシンメトリックな建築が立ち並ぶ大通りの終着点に、それは位置している。

ネオバロック様式の典型とされる建築美は壮麗にして荘厳。見るものを圧倒させる。
古代ギリシアを彷彿とさせるコリント式の支柱。時代の先を予兆する鉄を使った装飾。
青銅色の屋根の上で、あらゆる知的文化的活動を司る太陽神アポロンが祝福を降らす。


白大理石が惜しげもなく使われた中央階段が、カラン、と小さく音を立てた。
豪奢としか言いようのないシャンデリアとキャンドルを模した照明の下。

名前は、未だ音の洪水から戻らぬ様子で蕩けそうな瞳をしていた。
その横で彼女をエスコートしながら、信楽は胸のうちに広がる優越感に小さく降参した。


オペラ座、ガルニエ宮。
十九世紀ナポレオン三世の帝政時下、パリ改造の一環として若き天才建築家シャルル・ガルニエが設計した、当時最大の劇場。
今では近代的な新しいオペラ座、オペラバスティーユで大作を上演することが多いが、しかしそれでも、ここには歴史を含有するもののみに許される、黄金の時が流れている。



カラン、コロン
反響する下駄の音に、すれ違う人々が振り返る。

「本当に、凄く、良かった」
伏し目がちの震える睫で、彼女は言う。
淡い繭色の着物に、朱色の絞り染め模様の帯。
オリエント特有の煙水晶の瞳と対となったかんざしが、名前の歩幅に揺られて踊る。
漂うミステリアスで禁欲的な官能性。

「気に入ったようで、オジサンも嬉しいよ」
曖昧に微笑んで、信楽は平然たる態度で彼女を引き寄せた。


視線の的たる当人は、しかしながら、まるきり無頓着な様子で屈託なく笑みを浮かべている。
嬉々として語る、名前の視線のその先。

「―――困ったな、くせになりそうだ」
名前に聞こえないように、信楽は口の中で呟いた。

全く、年甲斐にもなくのぼせていると、自覚はしている。
その煙水晶に映る姿が、自分ただ独りだという事実に、どうしようもなく誇らしくなる。





  Ange d'or, fruit d'ivresse,
  Charme des yeux,



ふくよかな燕尾服の歌手が、身体全体を駆使するように歌っていたアンコールは、“歌うワルツ”の副題を持つシャンソンだった。
反権威的で皮肉屋とされたフランスの誇る音楽界の異端児が、ひとりのキャバレーの歌姫のために書いた歌曲。

真紅のベルベットと金の細工装飾で彩られた客席。
見上げると、かの有名なマルク・シャガールの色使い鮮やかな天上絵。
ゴージャズで壮麗な空気の中で、名前はまっすぐに背筋を伸ばして聴き入っていた。


  Ange d'or, fruit d'ivresse,
  Charme des yeux,
  Donne-toi, je te veux,



酔いしれるような甘いテノールが奏でる詞は、透明で繊細な音とは裏腹に、情熱的で激しい。
脳髄を溶かすように愛撫する睦言の甘さは、流石は愛の国フランスだと言うべきか。

息を飲む余韻から我に帰った観衆が、鼓膜を破らんばかりの津波のような拍手を送る。
その中で、信楽は朱を頬に乗せた名前を見て、柄にもなく、本当に柄にもなく、酷く安堵を感じていた。

無事にチケットが取れたことに、
半ば強引にこの国に連れてきた事に、
そして、
彼女が幾多の中から、自分の手を選びとったことに。




「夢の中、みたいでした。一生ものの思い出です」

恍惚の表情。
瞬きのごとに震える睫。髪を耳にかける仕草。
それが轟々と鳴動する海鳴りの様な作用があることを、彼女はきっと気がついていないだろう。

「うーん、その言い方だと、これが最後みたいじゃない」
少し不満げに、信楽が答えた。
聞こえる、海鳴りの気配。

「だって、こんな機会早々ないですよ。信楽先生の助手してて本当に良かった」
笑みを柔らかそうなくちびるにのせて。

海鳴りが、巻き起こっている。
嵐の前の、予兆とさざめき。
胸のうちで、低く響く遠雷と予測不可能な低気圧が席巻する。
心臓が直接外気に晒されているような、鈍い疼き。
溢れたため息は、熱く、切ない。


「あ、パンフレット買ってきますね」
そう言って、着物姿にも関わらず軽やかに手元から飛び立つ彼女は、どこまでも自由そのものだ。


   黄金の天使 
   心酔わせる果実
   魅力的な眼差し



切なく甘美でいて、濃厚で噎せ返るような情欲を隠しもしないシャンソン。
その歌詞を、思わず思い浮かべた自己の脳裏に苦く笑う。
全く、年甲斐にもない。
名前の後姿。
飛び跳ねる煙水晶のかんざしは、さながら彼女を浮き立つ心境を体現しているのだろう。
天使、だと。思わず、現実と重ねてしまっただなんて。ああ、本当に。




遠くからでも目立つ、着物姿。
頭垂れるうなじが無防備に晒されている。
どうやら硬貨の勘定に戸惑っているらしい。
思慕を隠そうともしない視線が送られていることに、気がつかないのも安全面ではどうなのだろうと考えてしまうのは、過保護ゆえか、それとも独占欲か。
しかしどちらにしろ、放ってはおけない。放っておけるほど寛容ではない。

小さく溜息。後ろから近づく。
振り返る黒目がちの瞳に、微笑みかけて。
信楽は名前の代わりに、代金を渡してパンフレットを受け取った。

彼女の腕を引いて、踵を返す。
その際に、パンフレットに挟んであった紙切れをさり気なく抜いておいた。
店員がさりげなく忍ばせたそれに書いてあるのは、考えるまでもなく口説き文句と電話番号かなにかだろう。



「―――やっぱり、明日から着物禁止」
少しすねたような声音で、信楽が主張する。

「…やっぱり、変に浮きますか?」
袖を引っ張って、名前は両手を広げた。
綺麗な繭色の袖が、飛び立つ翅のようにふわりと風に靡く。

「名前ちゃんが飛び去ったら、オジサン泣いちゃうから」
「?どういう、意味ですか?」

長くはない彼女の髪の一房に指をするりを通して。
眉尻を下げて困っている名前に、おどけて言う。

「名前ちゃんの可愛い姿は、オジサンだけのものでいいんじゃないかな、って意味」



   黄金の天使 
   心酔わせる果実
   魅力的な眼差し
   許してくれ
   君が欲しい




ドアマンが扉を開ける。
喧騒と雑音が柔らかく溶けて、少し冷たい乾いた大陸の風に消えていく。
熱気で火照った身体には丁度良い。

「機会は自分で作るものだと思うんだ」
意味深な表情を浮かべる敏腕弁護士が、名前に小さく微笑む。
「次は、プライベートでどう、かな」

そうして、愛しい人に手を差し伸べた。 





当サイト比で劇的に甘くなったのは、頂いた設定とお題があまりにも!あまりにも素敵すぎたからです!ありがとうございました!大変申し訳ないことに自分文だとあまり伝わっていない気がするのですが、本当にものすごく萌えるお題だったんですよ…!
色の薄い部分は歌詞。着物についての知識がほぼ皆無なので、どこかおかしかったら突っ込んでやってください。


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