To the Sky | ナノ


夜霧に煙るホームの眠りを、甲高い発車ベルの悲鳴が鋭く切り裂いた。
独り佇み、降りたばかりの始発電車が走り去る後ろ姿を見送る。
早朝と言うより未明と言った方が的確な時間帯。


ICカードをタッチして、改札を出た。
空の色を擦るようなビル群の間を縫うように、名前は歩く。

正確に区画整理された、一点の歪みもない街並み。
けれど生命の暖かさを有しない、無機物独特の不滅であるが故の冷たさが滲み出ている。
スクランブル交差点で信号を待つ人々の顔は、色も表情もなく、能面を被ったように寂しい。
捜し当てられない自己への焦燥を、隠すように。




数日ぶりに携帯電話の電源を入れた。

電波が入る事、まだバッテリーが残っている事にしみじみと変な感動をして少し感傷に浸っていたら、突如鳴り出した呼び出し音に心臓が止まるほど驚いて、思わず手から取り落としそうになった。

通話ボタンを押して、耳に当てる。


『ク…、生きてるようで安心したぜ』
「第一声それですか」

電話口から聞こえる心地よいバリトンボイスに、こぽこぽと、サイフォンが働く雑音が混じっている。
受話口の向こう側で、白いマグを片手に携帯電話を持って佇む長身が容易く想像できた。
確かなコーヒーのアロマが感じられる気がして、名前は思わず立ち止まって深く息を吸い込んだ。

「今日は随分と早起きですね」
『コネコちゃんに見捨てられちまったもんでな、独りで寂しく徹夜明けだぜ』
「――それは大変お疲れ様です」


烏が笑いながらごみを漁っている。
黒い猫が足元を横切った。

深く止水のような濃紺を経て、世界の色は研ぎ澄まされた透明へと変わる。
明けていく空の色は、前途洋洋そうに見えて、けれど何処か翳りを背負っているようにも思える。


『で、今日は出勤するんだろうな』
「えー、どうしようかなー」

『―――…来いよ、名前』




東京。愛しくて薄汚れた、大都会の朝。
資本主義的な自由と、それ故の頽廃に溢れた、落下点。
地図とコンパスが指し示す、帰り着く場所。


「ゴドーさんの、とびきりの一杯が待ってるなら、行こうかな」
『全く、我侭なコネコちゃんだぜ』

穏やかな声で唱えられる不満に、くすりと微笑んで。
けれど、自分自身の声も、蕩けるくらい柔らかく甘い旋律と化しているのは、都合よく知らないふりをする。
遠く後方に響く電車の音。空気の流れ。都会が呼吸するホワイトノイズ。



風が、渡る。
重たいボストンバッグを背負いなおした。
詰められているのは、旅先の匂いと、夜明けの空みたいに透明な確信と我侭だ。

「…待っていてください、そこで」


世紀末を前に瓦解した無表情の流動の中で、不変のアロマを漂わせる人を想う。
落下点。
帰り着く場所。



東に昇る丸いオレンジ色が、歩みを止めない背中を照らしていた。
秋の気配を含んだビル風が少し冷たくて、名前はジャケットの襟を立てて早足になった。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -