To the Sky | ナノ


噎せ返るように太陽の熱線が注すロンドンも、夕方を越えると、ひんやりとした爽やかな風が吹いた。

あれは、アメリカ発の危ない低金利ローンによる住宅バブルが弾ける少し前の事だった。
私はまだ司法研修を終えたばかりの駆け出しの法律家で、にも関わらず研修中から検事志望を明言していたためか上の覚えも愛でたく、検事局に入局まもなく海外へ研修を命ぜられた。

おそらく女である事が、対外的に見て女性の社会進出や先進性をアピールするのに都合が良かった事に加えて、当時の検事局長に遠くにいても検事局から操りやすいと、思われていたのだろう。
キミみたいな若い女性を送り出さないといけないなんてツラいよ、と、そう言いながら、白々しくゴーグルに涙を溜める検事局長の、赤いライダーズジャケットの内側に詰められた昏くドロドロした澱みに気づきもしないほど、私は若く、未熟だった。



アメリカウォール街で世界的な大銀行が解散する前。
イギリスではシティグループを筆頭に、金融派生商品で荒稼ぎをしていた頃。


スインギーで軽快なギターフレーズに乗って、しわがれた声が哀愁漂うメロディーを歌う。
低音が綺麗に響くスピーカーから流れるノイズを含んだ音楽が、夜の匂いと混ざり合う。
イングリッシュ・パブの窓辺の席に座って、水のように喉を滑る液体を口に含み、嚥下する。
週末の、始まりの合図。

テムズ川の左岸、ウエストミンスター地区。
ハイドパークから程近く、国会議事堂を初めとした多くの官公庁、バッキンガム宮殿も近い。
そこは、当時私が通っていた王立裁判所から徒歩圏内にあり、そして、あの人が居たスコットランドヤードとの、大体中間点に位置していた。


裁判所での仕事も激務だが、それでも警察には優に及ばない。
"約束の時間"というのは、名目だけの事が多かった。
大抵、待っていたのは私。
あの人は数時間遅れて来る事もあれば、最初から来ない事もあった。


窓辺の席から、ぼんやりと風景を眺める。
大都会。イギリスの政治的心臓部。眠らない街。

その都会の夜の空気の中から、まるで夜そのものから生まれ落ちたような色をした車体の低いスポーツカーが、駐車場に滑り込んでくる。
その瞬間を、一分一秒たりとも見逃さないように。
その人の姿を、私が一番真っ先に見つめるために。
そんなくだらない理由で、私は窓辺以外の席には決して座らなかった。

車から、男が一人降り立つ。
ダッシュボードのライターで、長い煙草に火をつけてから、悠然とこちらに向かって歩いてくる。
月の光と、街の明かりと、手元の煙草の、僅かなスポットライト。
柔らかなフランネルのダブルのスーツに、胸元を軽く開けたダークトーンのワイシャツ姿。磨きのかかった黒い靴。
革手袋に包まれた長い指が、弧を描いた口唇に煙草を運ぶ。
その赤く火の灯る、ささやかスポットライトの役割を果たす煙草に照らされて、珍しい色合いをした冷たい瞳が、揺らめくように、光る。

男は私の姿を見止めて、まるでスイッチを入れてみせているかのように、わざとらしくにこりと笑って、ひらひらと手を振って見せるのだ。

記憶の奥の、一番柔らかい部分に刻み付けられた虚像。
その男、巌徒海慈が、まだ主席捜査官の地位にあった頃の、懐かしい昔話。






地方検察局。上級検事執務室。
廊下から響く、予想した通りの忙しない足音に、名前は席から立ち上がった。

レコードプレーヤーから流れる、哀愁漂う旋律を奏でるハスキーな歌声を止めて。
LPレコードをはずして、大切にケースにしまう。
それから、分厚い執務室の扉を開けた。
軽く息を切らせて、おそらく急いでやってきたのであろう後輩検事がちょうど扉の前まで来ていて、タイミングの良さに少し驚いたようだった。

「苗字検事、」
「あ、検事復帰おめでとう、御剣くん」
「検事を、辞める意図を教えていただきたい…!」

きわめて単刀直入。
その、あまりにも率直な物言いに若かった頃の自分を思い出して、名前はくすりと笑った。

「そうね。とどまる目的がなくなったから、かな。御剣くんのお蔭で」



元検事局長にして、検事審査会会長が逮捕された。
司法が持つ闇がまたひとつ明るみになった。
それを成し得た後輩を誇りに思うと同時に、少しばかり複雑な気分に陥るのは、おそらく致し方ないことだ。
出来ることなら、自分のこの手で、成し遂げたかった。


「先に言っておくけど、私は検事審査会の悪事には手を貸してないから」
「そんな事は判っている」

これでも昔に比べれば幾分か装飾の減ったクラシカルな赤いスーツ。フリルタイ姿。
眉間にフィヨルドの如く、深くシワを刻み付けて、御剣は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。


伝説を誇った検事、狩魔豪の弟子である彼が、それを理由に黒い噂が未だ絶えないように。
元検事局長の秘蔵っ子と言われていた名前について、検事審査会会長の逮捕と共に根も葉も無い疑惑が噴火が如く広まっていた。

掌を返すように、周囲の態度が180度変わる。
人の綺麗さも醜さも、結局は表裏一体だと、思い知らされる。
それを淋しいと思わないと言うのは嘘になるけれど、同時に満足もしている。
親身になってくれる後輩を持っていると、改めて知る機会をくれた事に。
それに、
本質を隠す、作られた表面上の奇麗事に、興味はない。


「ありがと、ね」
さすが検事局のエース。先輩として誇らしいわー、と。
酷く危うい立場になり、愛してやまない検事の職を辞しようとしているのにも関わらず、いつも通り軽口を言ってみせる名前に、御剣怜侍は戸惑う。

「あなたは、いったい何を考えているのだ」

そう、問う優秀すぎる後輩。
少し色の薄い瞳に、正義を追求する揺るぎない強さを感じ取って、名前は小さく穏やかに笑みを浮かべた。
澄んでいて、孤高の、狡い色をしている。

昔々。
それと同じ色をした瞳を持つ男を、私は知っていた。
その人は、私が人生でもっとも激しく憧れた人で、私を根本から変えた人だった。
多分、彼以上に人を好きになることはきっとないのだと、心から言える人だ。






ロンドンの秋は短い。
知らない間に季節は移り変わり、当人の承諾もなしに、人は大人になっていく。


シュ、と燐寸を擦る音。それから、空気に混じる苦味。
冬の初めの、鼻の奥からツンとする冷たさを吸い込んで、感情を押し殺す私に、巌徒海慈は容赦なく言った。

「ボクは、ボクのために生きてるんだ。」


ヒースロー空港のロビーで、いつも通りの笑みを浮かべて。
週末の終わりに、アパートメントまで私を送って、また来週、と別れるような気安さ。
呆気ないくらいあっさりした最後だった。
忍び来る寒さの気配を感じる前に、私たちは互いに背中を向けて、別の道を歩み始めた。


人懐っこい笑顔を浮かべながら、彼は隣にある孤独な空間を誰よりも愛していた。
それを誰かに明け渡すつもりなんて毛頭なかったのだろう。

恋の痛手、と言ってしまえば、酷く軽くちっぽけに成り下がるそれは、当時の私にとっては、世界そのものの喪失に近かった。
若き日の憧憬を思い出そうとすれば、今でも胸の奥の、一番柔らかい部分が痛んだ。




今なら、朧気ながら全容が想像できる。
私たちの関係は最初から薄氷の上に乗っているかのような危うさで成り立っていた。
同期である、検事局長と主席捜査官の攻防。
裏切りと思惑と駆引き。
その間に、何も知らない私は駒として投げ出されていた。

おそらく、スパイのような役目で、彼に接近させられたのだろう。
新人の一検事が、初年度から海外研修へと派遣された理由も、その新人検事の教育役が、出向していた主席捜査官であった事も、それなら納得ができる。
検事局長が、私に頻繁に接触していた理由も、秘蔵っ子として重宝した訳も、全て。

けれど、唯一解らない事があるとすれば。
あの、人の良さそうな笑みの下に冷酷な捕食者の無慈悲さを持ったあの人が、私を使い勝手の良い駒として仕立てなかった事だ。
私をいとも簡単に夢中にさせておきながら、呆気ないくらい簡単に、手放した。


その疑問の答えを知る機会は、もはやどこにもない。
それから程なくして、あの人は罪を犯し、そして、永遠となった。

だから、私は自分に都合よく解釈することにした。

あれは、あの人なりの優しさだったのだ、と。






「大丈夫、辞めるって言っても、すぐ隣に移るだけだし」

渋い顔をして、突っかかるような口調で辞任理由を問う後輩に、軽く肩をすくめて答える。

「隣?」
「そこは聞いてなかった?だから退官じゃなくて、異動だからね」

どうやらピンと来ていない御剣に、名前は続ける。

「渡り廊下挟んでお隣。地方警察局」


眼を見開いて、攻撃でも受けたかのようなアクションで驚く後輩を、ぼんやりと眺めた。
警察局の闇を暴き、元検事局長の圧力を退けられる、確かな正義。
彼は、さらに上に行くだろう。
彼の"正義"を貫き、検察の未来を、背負って立つ人物になるだろう。
だから私は、安心して、我侭が出来るのだ。


「理由を、聞かせ願いたい。あなたは優秀な検事で、検事である事を誇りにしているはずだ」
「――そうだね、検事はずっと憧れだったし、好きだったよ」
「では、なぜ!」

机を叩きつけるような、鋭い追及。鋭い視線。
法廷で、糾弾するように、彼は言う。
その媚びない綺麗な色の瞳を、美しいと思う。
深くて冷たい色。見たくもない汚れたものを、進んで山ほど見てきた眼だ。
それゆえに勝ち取ったに違いない、事象を射抜く鋭さと、しなやか強さがある。

昔々。
それと同じ色をした瞳を持つ男を、私は知っていた。



深く、息を吸って。後輩の、眼を見つめて。
耳の奥に今も居残っている、あの強靭にして剛毅な声に、口調を合わせるように。
私を強くする、魔法の呪文。

「私は、私の"正義"のために生きてるの」


オリジナルにはなかった単語をひとつ補って、言う。
あの人も、きっと本当は、そう言いたかったのだと、身勝手に解釈する。
もう、居ない人だから。反論されることもないから。
だから、名前はまことしやかに詭弁を弄する。


「それは、どういう意味だろうか。苗字検事」
「そのまま、だよ」

真剣に思いを巡らせる年齢不相応に熟成した顔つきが、凛々しい。
その御剣検事に、秋の変わりやすい風向きのような、謎めいた微笑を向けた。

「そのために、是が否でも手に入れたいポジションがあって」

答える自分の声の奥底に、何かが震えているのがわかって、落ち着かなさと手持ち無沙汰が気になり、とりあえず前髪を触った。
その癖が、どこから来ているのかに思い当たって、名前は一人で苦く笑った。

「私、警察局長になりたいの」






知らない間に季節は移り変わり、当人の承諾もなしに、人は大人になる。
あの男が警察局長になって、そして散っていった季節から、何度目かの夏が終わろうとしている。
空は日に日に高くなり、秋の気配が濃くなっていく。

順調に昇進して、頼もしい後輩が出来て、物事をもっと公平に見られるようになり、恋の痛手も、少しずつセピア色に変化していく。
夢を見るように過ごしたロンドンでの日々。
王立裁判所とスコットランドヤードのちょうど中間点の、あの薄暗いパブの片隅で聞いた、あの人の鼓動のリズムも、もはやうまく思い出せない。

でも、
それでも、巌徒海慈という男の残り香は、確かに私の中に燻り続けている。
それは、麻薬のように徐々に染み込み、すでに全身隅々まで運ばれている。


人は不完全で、弱い生き物だ。
だから、人が作り出す"秩序"も、その上に成り立つ"正義"も、当然ながら脆弱で曖昧で、相対的で不完全な概念だ。
社会の変遷とともに、移り変わる価値観のひとつでしかない、"正義"。
けれど、それを理解していながらも、人は一途にその絶対性を信奉する。

澄んでいて、孤高の、狡い色をしている。
水面のように凛然とありながら、それでも光芒を一途に追い求める様は美しく、寂しい高潔さを湛えている。
あの人も、御剣検事も、そして、私も、それから逃げることは出来ない。
ただ一生、只管にその曖昧さを追いかけ続けるのだ。




「だから、異動する先輩の我侭に少しだけ付き合ってみる気はない?」
「―――…何だろうか」

デスクの一番上の引き出しを開けて、にこやかに悪戯っぽく御剣検事に書類を手渡す。

「ロンドンへ、出張命令か」
「そ。付き合って。これ先輩命令だから」


眉間に皺を寄せて、しばらく考えあぐねていた御剣検事が、ふと顔を上げて名前を見た。

「――了解した。ただし、条件がある」
「条件?」

悠然と歩を運ぶ後輩。
人を小馬鹿にするように肩をすくめて、御剣怜侍は口元にふてぶてしい笑みを浮かべた。
その優雅な仕草は、名前も見知っている伝説の検事に良く似ているようで、少しだけ異なる。

「変わらないでいてほしい、あなたには」
「――…わかった」




季節は移ろう。人は、知らない間に成長する。

好きだった人が居なくなり、重石であった元検事局長が逮捕された。
師に傾倒し、まっすぐ過ぎて危うかった後輩は、確かな自己の正義を確立し、いまや検察局きっての切れ者だと称されている。

ロンドンでの日々から、ずいぶんと遠くに来てしまった。
王立裁判所とスコットランドヤードのちょうど中間点にある薄暗いイングリッシュ・パブは、まだあるのだろうか。
今でも、小気味良いギターの音調にのってしわがれた声が歌うエレジーを、聴けるのだろうか。
探しに行ってみるのも、悪くはない。





男は罪を犯し、そして、永遠となった。
だから、私は自分に都合よく解釈することにした。

曖昧で相対的な正義。
その中を、流されないようにまっすぐ泳ぐ。
きっとそれはあの人が望んだ道だと、身勝手に思う。
そしてそれは、私の"正義"であり、私の信念であり、私の望む、全てなのだ。


あの人のように、道を間違えない。
御剣検事との約束を違えたりしない。
女の甲斐性。
私がその道を行く限り、そこはあの人が恋焦がれた場所で。
私はあの人が望んだ存在で居る事が出来るのだから。

ほんの僅かな人のぬくもりでも、歩いていけるように。
そう強く心に決めて。


窓の外に堆く横たわる秋の気配は、凛として優しかった。
吹き抜ける風は、ロンドンの空と繋がっていた。



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