To the Sky | ナノ


「ココでナニしてるの?眠り姫ちゃん」

巌徒が口にした代名詞に少し目を見開いて、彼女は小さく笑った。

「ツキを、待ちくたびれてます。ヒーローさん」

微笑むと右の頬に小さくえくぼができて、酷く幼く見えた。




***************



賑やかなネオンが眩しい。車の流れが光の洪水みたいな残像を描く。
瀟洒なる高層建築群が幻想的に佇み、人々の歓喜も悲嘆も包み込んでいる。

世界最大の歓楽街。アメリカ合衆国、ラスベガス。
一晩で夢を掴み、一晩で全てが潰える、虚構にまみれた街。
昼夜の寒暖差と、まれに風に混ざる砂の粒子だけが、砂漠に囲まれた地形だと言う現実を主張している。

月光の降り注ぐテラスは、後方のカジノから伝わる濁った狂喜と悲鳴の声を避けるように静かで、巌徒海慈はひとつ深呼吸をして、前髪を掻き上げた。


まったく、フザけた茶番劇だった。
監視すべきターゲットは、ポーカー勝負に夢中になっていた。
国際警察がマークし続けている裏社会のドンだけでなく、大物政治家に繋がると噂される大切な容疑者。
たかが、トランプ数枚の組み合わせで、途方もない金額が動く。
あの負け方からしたら、あと数時間は動かないだろう。すっかり熱くなっている。


吹き付ける風が冷たい。夜の中を唸っている。
少し肌寒く感じて、腕まくりをしていたシャツの袖を降ろした。
運だけで決定する勝利の価値に興味はないし、逆に運で負けるなどありえない。
面白くないなあ、と、巌徒はひとつ、溜め息を吐いた。




瞬間。
微かに聞こえたのは、小さな、呼吸音だった。

途端、
背筋を走った緊張感が奔る。
スーツの下にあるコルトパイソンに手を掛けた。
監視対象はいまだにポーカーテーブルに齧り付いている筈だ。
だかその一派に見抜かれている可能性も完全には否定出来ない。
出来れば、ここでやっかいは起こしたくないが、イザとなれば致し方ない。
そう思いながら、今まで感じられていなかった気配に神経を集中し、慎重且つ堂々と近づく。

視界を塞ぐ花飾りを抜けて。

落ちていたのは、女の子だった。





花の芳香が咲き誇るテラスの、人目に付かない片隅の壁に寄り掛かって彼女は地面に座っていた。
いや、かろうじて座る姿勢が取れている、と言った方が正しいだろう。
少しでも力を与えれば、バランスが崩れて倒れてしまいそうだ。

規則正しい呼吸音。
生きてはいるみたい、と、まず思った自分の職業病じみた思考回路に若干呆れながら。
警戒を少し解いて、けれど完全には解かずに、近づく。


ひっつめに結った黒髪。象牙色の肌は東洋人特有の白さを含んでいる。
紺色のプリーツスカートに、襟の詰まった白いブラウス。一番上までしっかりボタンを留めている。
彼女の所有物であろう腕の中に抱えたバッグから、日本語で書かれた書類が見えた。

グリーンの瞳が、僅かに見開かれる。



「や、お嬢さん。生きてる?」
そう、声を掛けさせたのは、異国情緒が感じさせる同郷への情ではなく、打算と賭けだ。
とびきり冷たく無機質で、極めて堅実的な。

巌徒の声に揺さぶられて、女の子は僅かに覚醒したようだ。
黒い瞳。睡魔の間を泳ぐように、朦朧として焦点が定まっていない。


退屈な現状を打開する予兆。
そのタイミングの良さに、腹の底から昂揚感が込み上げる。
巌徒はくつくつと喉で笑った。

偶然目に付いたその書類に、偶然見て取れてしまった単語。
それは、捜査資料で、嫌になるほど見てきた名前だった。



「――…ど、ちらさま?」
掠れ気味の声で、彼女が問う。

「通りすがりの正義の味方、だよ」

にっこりと、人が良さそうに笑ってやる。
異国で聞く日本語と、その笑みにつられた様に、彼女の緊張が少し和らいだようだった。




***************



歓楽街の名に相応しく綺麗に舗装されたアスファルトを、不連続の鈍く重い音が切り裂く。
イージーライダーさながらの格好をした数人の男が、バイクに跨り背中をそらせ、疾風の如くに駆け抜けた。
車輪を軋ませ、夜の底を疾駆する命知らずの奔放さ。
それは、同時に酷く若く傲慢でもある。


「――ツキを待つ、ねえ」
前髪を弄りながら、彼女の言葉を小さく繰り返した。

「ヒーローさんは?賭け事をしに?」
「生憎、正義の味方はギャンブル禁止で、ね」


街並みを照らす華やかな人工の光とは対照的に、細い三日月が晩夏の夜陰に頼りなく射し込んでいる。
それは欲望と乱痴気騒ぎの賭博場にあって、彼女の持つ文学を教える教師のような品行方正さと同じくらい、場違いな違和感を生み出していた。
その違和感は、綱渡りのような危うさを孕んでいる。
彼女の、取り澄ました綺麗な顔の下に持っているのであろう柔らかい秘密の部分を、無性に暴きたくなる。
それも悪くない、と、巌徒は思った。




「それで、眠り姫ちゃんの"オトモダチ"の、ツキは来そう?」

存在に気付いたのは偶然。
正体を察知したのは幸運。
危害はないだろうと判断したのは直感。
ならば、
この賭けに乗るべきだ、と。
そう、確信を抱かせたのは、名づけるなら予感だろう。

彼女の黒い瞳の奥に、驚きと緊張の色が広がるのが見えた。
触れ合う視線。漆黒とグリーンが混ざり合う。


嵐を前にしたような、沈黙が支配する。
黒い夜の底で、存在が冷え冷えとした熱で膨らんでいく。

鼓動と合わさる欲望のリズム。
歓楽都市に流れる濁った純粋さと思惑と裏切りが、複雑に絡まりあい、滲み出す。




ふいに、彼女は笑った。

「まさか、」
面白そうに、鈴が転がる声で。
女の子から、一人の女性へ。変貌する瞬間に、男は瞠目する。

「とっとと、ツキに見放されちゃえって、待ってるの」

笑う声とは裏腹に、醒めた横顔が月光の中に浮かび上がる。
作り物の仮面を外した、冷たい黒曜石の視線が、値踏みをするように巌徒を射した。
それはまるでストップモーションのように、酷く美しかった。




***************



「賭けを、しない?」

渺々と拡がる砂漠と歓楽都市の境界線で、風に遊び騒ぐ。
街路樹が、歓喜に身を震わせるようにさざめいている。

「早く彼がツキに見捨てられるように、オネガイ、叶えてアゲる」

「――…ヒーローはギャンブル禁止じゃないんですか?」
「正義の味方だからね、僕は」

衝動が、心の底に沸き上がり、不思議なほど静かに広がってゆくのを、巌徒は感じていた。
嵐を待ち望む衝動。
面白くなりそうな予感。
夜の匂いを纏ったしなやかな捕食者の瞳が、夜空に浮かぶ細い三日月と同じ妖しげな色で、蠢いた。

「お姫サマのためなら、何だって出来るんだ」



お手をどーぞ。プリンセス、と。
差し出された手に、黒い瞳は少しばかり逡巡して。
しかし間もなく、ハッキリと意を決したように光った。
皮手袋の上に、遠慮がちに細い手が重ねられる。

それを、強く拘束するように握り締めて。
巌徒は女が反応するよりも一歩早く、空いている手を彼女の後頭部に添えて、強引に引き寄せた。
胸の中に軽く落ちてきた彼女が、驚きの色を浮かべて巌徒を見上げた。


「僕の報酬、前払い分もらっていいかな」
そう、耳元で、睦言のように囁き掛けて。
巌徒は、彼女のひっつめに結った髪の留め具を抜き取った。

イメージ通りの、艶やかな黒髪がふわりと広がる。
その一房を指を通して、巌徒は恭しく口づけを落とした。


大都会が立てる、文化的な醜さと無機質な匂い。
思惑と謀計と、本能的な欲情が絡み合う視線。
漏れた吐息に滲む快楽。
グリーンと黒色が混ざり合う。


「…勝って下さいね。アナタに、賭けたのですから」
「当然」

感情の嵐が逆巻き、敵意に近い反発が込められた黒曜石の瞳が、自分の姿だけが独占されている。
背筋に甘美な背徳に伴われた疚しさが奔る。
満足を知らない支配欲が一層強くなるのを感じて、なるほど、ギャンブルに嵌まるのはこんな感覚なのかと、巌徒は感じた。悪くない感覚だ、と。

「正義の味方は何時でも勝つモノだよ」




***************



歓喜も悲嘆も内包するカジノの、扉を押し上げる。
昏く渦巻く情動が、入り乱れる気配。

向かうのは、ポーカーテーブル。
そこにいるターゲットの元へ。

鍛え抜かれた身体つき。緑の瞳に楽しそうな輝きが浮かぶ。
風でも纏ったように颯爽とした笑顔で、男は女の腰を引き寄せた。





潜入捜査官とその敵側一派に属する女の子の、言葉にはしない駆け引き的なやりとり。…のハズですが、土下座したくなる勢いでわかりにくいので、色々と激しく不安です…。


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