To the Sky | ナノ


ふわふわと、揺れていた。

シベリアに降り積もる真っ白な雪。
全てを白銀に閉じ込め、時には凶器にもなるその、最初の一片みたいに。
淡く優しげに、見渡す限りに漂っていて、噎せ返るような冷涼さを発している。
触れるとひやりとして冷たいのに、寒さは少しも感じない。


ふわふわと、揺れていた。

遠い昔。
あかぎれだらけの手でしっかりと抱きしめてくれた姉と。
自分の手を決して離そうとはしなかった妹と。
三人で、支えあっていた頃のような。
懐かしくて、暖かい匂いに包まれている。
酷く幸せな――、ああ、そうか、これは、夢なのか。

でも、ちょっと狭いかなぁ。
夢の中なら、押し付けられるお姉ちゃんの胸はもう少し縮めばいいのに。
ベラも、夢の中くらい解放してくれたらいいのに。


そんな事を、夢とうつつの狭間で考えて、イヴァンは寝返りを打った。
そうした瞬間、雪は溶け、感じていた小春日和の温かさは真夏の太陽へと変化し、全身を覆ってそれから―――耳元で、ハン…バーガー…、と呟いた。
え?と、途端に現実を帯びて気になりだした現状と、ありすぎる疑問点を解決する暇もなく、間髪居れずに襲い掛かった鋭い痛みに、無意識のうちに掴みとった何か―――これは後で持ち歩いている魔法のステッキという名の水道管だと判明するのだが―――を、現況に向かって振り下ろしていた。


しっかりした手ごたえと、痛そうな音と、それに混じって聞こえた悲鳴で、イヴァンの頭は淡い眠りから醒め、ようやく正常に動き始めた。


目を開けて最初に視界に飛び込んだのは、向日葵の色と、真夏の青空の色をした瞳が、雨にぬれる様子だった。
アルフレッドは、頭を押えて蹲っていた。





金融と雑踏と明るい太陽の街。
歌うような強い訛りとレトリックの多い饒舌が、遅い朝のざわめきと生活音の中に聞き取れる。
どこからか、教会の鐘の音が響く。
開け放たれた窓から、爽やかな空気が流入し、室内に残ったアルコールの匂いを消した。


「――…痛い」

アルフレッドは、腕を組んで宙を睨み付けていた。
威嚇するわけでも、不機嫌なわけでもなく。
額の上に乗った氷嚢のせいで、それ以外の体勢の取りようがなかったためである。

「――…僕悪くない」

対するイヴァンは大柄な身体とは似合わず背中を丸めていた。
凶器の鈍く光る水道管を、膝の上に乗せている。


酒瓶や空き缶や、つまみとして消化された蛍光色のお菓子の袋やそれが乗っていたであろう食器が転がる部屋の、強制的に作られたスペースで。
いやしくも世界を両分した二大勢力は、膝を突き合わせて正座していた。




「正当防衛だったもん」
「どう考えても過剰防衛だろう!自衛権の越権にも程があるぞ」
「だ、だって、あれはアルフレッドくんがあんなコトするから!」

そこまで言って黙り込んで、恥ずかしげに俯いたイヴァンに、アルフレッドは発火するように忌ま忌まし気に顔を赤らめた。視線が宙をさ迷う。

顔を伏せたイヴァンの、肩口。
白色人種の中でもスラヴ人特有の抜けるような白い肌に、綺麗に真っ赤に色付いた、歯型が残っていた。

「…変態」
「な!俺はただ…」
続きを言い淀んで、アルフレッドは先程のイヴァン同様に黙り込んだ。少し俯きかけた途端、額から氷嚢が降って来て慌てて押さえた。



ゆらゆらと、揺れていた。
夢を、見ていた。

夢の中で、アルフレッドはファストフードと対面していた。
食べても食べても減らないそれらを給仕するのは、疲れたような、暗い雰囲気をした青年だった。
声をかけると、逃げるようにいなくなるのに。目を離した隙に、また近くに来ているのだ。
まるで、さびしい子供みたいだな、とアルフレッドは思った。昔の、自分みたいだ。
だから。
話をしてみたい衝動に駆られて、逃げるのを無理やり捉えて、彼が持っていたハンバーガーにかぶりついた。

夢の中の彼は、今思えば面と向かい合うかつての宿敵に似た、揺れる菫色の瞳をしていた気がする。
夢の内容を復唱してアルフレッドは、はぁ、と大袈裟に溜息をついた。




国債の格付けが不覚にも下げられたのが、先月。
下がり続ける通貨の為替価格に、各国が異議を唱え、自国通貨を守る為に奔走する。
特に台頭著しい亜細亜の獅子が、その永き歴史を有するに相応しい重みと新興国ならではの痛烈な風刺を放ち、それに隣接する東亜細亜での最大の同盟者が言葉数は少なく優しげな雰囲気でありながら、八ツ橋では隠しきれない皮肉で、苦言と忠告と助言を呈してきている。
米国債の二大保有国を蔑ろにする訳にもいかず、政府は難しい対応を迫られている。

そんな中渡来した、今だ亜細亜で強い影響力を行使しうるかつての宿敵を丁重に接待せよ、と言う御達示を無下にする事も出来ず、会議合間に観光と称して各所に連れ回したのが昨日。
エンパイア・ステート・ビルのライトアップと、グラウンドゼロを回って、彼が何故か行きたかったマンハッタン島と隣り合うロングアイランドのドライブをした。
この国は、まだ世界の覇権者たる地位にあると、かつて争った彼に見せ付けたかった不純な思惑も、幾分もあるだろう。

JFK空港の他は住宅地が続くロングアイランドのウエスト・ エッグ海辺を望み見ながら、プラチナブロンドの髪をなびかせ、イヴァンは感慨深げに淡く微笑んだ。
ありがとう、と。
少し高めの声が言うのを、永く付き合ってきて初めて聞いた気がする。
多分、もの珍しかったのだろう。
わざわざニューヨークの別宅に招いて馬鹿騒ぎをして、勝てもしない飲み比べをして泥のように眠ったのは、決して、その声に含まれる一抹の寂しさに絆されたわけではない。断じて。




「僕、ハンバーガーに似てるのかなぁ…」

脳内で昨晩の出来事をざっと早送り再生していた脳が、意味咀嚼不可能な言葉を捉えて、停止した。
なんの冗談だと思って見やれば、イヴァンは至極真剣な瞳で―――それこそかつて冷たい対立が熱い衝突になりかねんとしていた時期と同様か、それ以上真面目な色を浮かべて―――、二の腕を、摘んでいた。ただでさえ、柔らかく白い皮膚の、もっとも白く弱い部分が晒されている。


「似ているわけないじゃないか!」
「…じゃあ、そういう性癖?カニバリスト?」

もっとまともな理論を考えてくれ、と叫ぶように、半分願うように発した反論に、真剣な瞳のまま返された第二波の酷さに、アルフレッドはやはり頭を抱えたくなった。
その途端に氷嚢が落ちそうになり、額の上の大きな瘤がじんじんと反響する。
確実に、二日酔いだけではない頭痛が混ざっている。

「Nooooo!そんなわけないだろう!」
「…よく考えれば、アルフレッドくんってアーサーくんとフランシスくんが育てたんだもんね。そっか」

「だから、違って言ってるだろう!俺は単に、単に君を掴まえたかっただけなんだ!」


派手な高音がした。
氷嚢が、ついに傾斜に耐え切れず落ちて、そこにあった空き缶に当たったようだ。

掴まれた手首から伝わる、自分とは異なる僅かに高い体温に、イヴァンは、目を見開いて、驚いていた。
まだ寝起きに近いアルフレッドから、アルコールに混ざって、真夏の匂いがする。
その高く真っ青な空色の瞳の中に、夏菫が咲き誇るようなアメジスト色が映っている。

ああ、やっと掴めたな、と。アルフレッドが、夢の中でやりたかった事を漸く実現できた事に満足感を憶えているのを、知る由もなく。
ああ、食べられるのは嫌だな、痛そうだし、と思ったイヴァンが再び魔法のステッキを手にするまで、数秒間。かつて世界を両分した二大勢力は、物理的にはデタント時以上に接近していたのだが、マリアナ海溝以上に深い思考の隔たりによって、双方気がついていなかった。



ちなみに、数秒後、
再び振り下ろされた水道管をアルフレッドが間一髪で避け、運悪くそれが落ちていた氷嚢に当たり、敷き詰められた絨毯に甚大な被害を及ぼし、再び世界が終了してしまいそうなブリザード吹き荒れる緊張感が走る事態になる。

モスクワの夏よりも、さらに短い雪解けを誘う太陽の物語であった。


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