To the Sky | ナノ


「この海の向こうに何があるか、貴様は知っているか」

海の声が鳴り響く中で、狩魔豪は問うた。
銀糸の髪が海を渡る風に吹かれて乱れた。




太陽を愛するラテン国家の海は、昨日までとは一転、威嚇するように機嫌が悪かった。
海が鳴り響く。
太陽が荒くれた黒雲に平伏し、覆い隠されている。
風の唸り声が轟き、牙をむいて攻める波濤が岩肌を叩き付けた。
嫋々たる霧雨が風に乗って横流れに飛んでいく。


イベリア半島西南。
スペインにおいて最もスペイン的だとされるアンダルシア州の最南端。
東京から飛行機で太陽を追い掛けるように約半日。直行便は存在しないため、欧州内で二度乗り継いで、やっと到着した。
眼下に広がるパノラマは、ヨーロッパとアフリカの中間。大西洋と地中海を隔てているジブラルタル海峡。
海上交通および軍事上きわめて重要な地であり、欧州側にある英国海外領土であるジブラルタル要塞と、アフリカ大陸岸にスペイン領の軍港セウタが向かい合う。



「アフリカ大陸、でしょうか」
名前の小さく答える声を風が意地悪に掻き消し、そして海に還えす。


篠突く細い雨。
その中で傘さえ差さずに、気違いじみた、けれど酷くエレガントな足取りで、狩魔は浜辺に足跡を刻んでいた。
その跡を、水が掻き消さないうちに急いで追いかける。
白い砂浜に雨滴と波が染み込み、浸透していく。
空も海も濡れている。



「――世界の果て、だ」

品定めするように小さく偽悪的に笑って、狩魔は言った。
完璧な実証が全てだと公言する伝説の検事の、らしからぬ発言に事務官はにわかに困惑し、眼を見張った。



雷のような轟音を立てて、白い波が高く砕け散った。
沖の向こうに、朱色の帆を張った船が、荒れ狂う雨と海の翻弄に堪えている。
まれに海岸線を走り抜ける車のタイヤが、濡れたコンクリートを舞台に歌う。
世界は、湿った空虚さに包まれている。


「ギリシャ神話の、ヘラクレスの柱、ですか?」

声を張って、早足に身体を少しだけ細い背中にそっと近づけて。
返答をしてから名前は、深々と空気を吸った。
潮と蒼白の風の匂いに混じって、人工的で洗練された香りが漂う。
中世風の荘厳さと冷たい潔癖な、匂い。
狩魔豪その人を、形作る匂いだ。


事務官の答えに、完璧以外の一切を良しとしない伝説の検事は満足げに微笑を浮かべた。



スペインの旗印にも描かれている、アトラス神が天を支える二本の柱。
ジブラルタル海峡の入り口を指す、古代ギリシアの地名。
ヘラクレスの柱。
世界の果てを示すその柱には、警句が刻まれているらしい。


「"Non Plus Ultra." 向こうには何もない」

霧雨の中で立ち止まり、炎が立つ暗い色の瞳で名前を見据えて、ほんの少し肉感的な唇が自問するように揺れた。
水音に抗うように、低く冷たい声は酷く官能的な笑みを含んでいる。



髪から雫が流れ落ちて、小さな滝を作っている。
けれど、肌に纏わり付く不快な湿気を、気にする暇はない。
この雨中の海岸散歩は、完璧主義者による完璧な気まぐれか、はたまたは、完璧に任務を遂行するために組み込まれた完璧なプランなのか。
名前には知る意思も知る由もなく、考えも及ばなかった。


「アトランティスは、その向こう側にあったとされていますが」
「ソフィストどもの戯れ事か」

古代ギリシアの哲学者、プラトンによれば、失われた王国アトランティスはヘラクレスの柱の向こうにあったという。

「戯れ事と言うのでしたら、ヘラクレスの柱も根拠のない虚言ではないでしょうか」

反証に、ふん、と狩魔は傲慢に一笑した。
小賢しい口を叩く、と言いながら、しかし不愉快そうな雰囲気は感じられない。



嵐の気配を含んだ横殴りの風が喚く。
閃光が走る黒雲。

「冥府の入口だそうだ」
小さく呪文でも唱えるように、男は呟いた。

黒雲の亀裂を縫うように、西に傾いた、黄金色の条々とした陽光が零れている。
嵐の中を声高に飛ぶ、波の白色を映し込んだかもめが、その光の中を通過する時だけ、黄金に染まる。

「随分と、曲がりくねった理屈ですね」
「拙劣な反対解釈だな。世界の果て、故に別世界、冥府の入り口だとは」

零れる西陽を受けて、銀糸の髪の表面だけ金色に輝いた。
頬が削げ落ちて、窪んだ瞳だけが業火に焼かれるように暗く光っている。




現代、スペインはイギリス海外領土ジブラルタルの返還を請求するその一方、モロッコからのセウタ返還要求には頑なに黙殺を続けている。
不均等さ。遥か遠くから永久に存続する歪み。
綺麗事を振りかざす権力に、しかし事実綺麗事を求めるには、あまりにも馬鹿馬鹿しく愚かだ。
暗黙の了解。不可触の暗部。
そんなものの上にヒエラルキーは構築されており、色のない無個性的なアノニムで有ることを要求する。

その、全自動の上昇式階層性ベルトコンベアを蹴飛ばし、敵意の如く強い反発を一身に受ける行為。
一方通行の、取り返しがきかない脆さを、強さへと変換する背中は、細く頼りない。

暮れてゆく昏い海で、そのピュアなまでの脆さを、追い掛ける。
それは、身体の芯から悪寒がふつふつと沸き上がるように馬鹿馬鹿しく、そして舌を巻くほど、甘美な罪悪感である。
宗教に、似ている。
赦されないからこそ、一層強く。
夢幻だと知ってなお、叛けない鎖。




太陽は、徐々に西に傾く。
空を覆った黒雲の隙間から覗く、真っ赤な落日。
海も空も雲も砂浜も波濤も雨でさえも、燃えるように染まっている。

「くだらんな」

嵐が逆巻く昏い海。世界の果て。冥府の入り口。
声が、冷たく惨忍なものになった。
掻き毟るように強く肩を掴み、男は此処ではない何処かを睥睨する。
そこに、
手の届かぬその場所に、命を掛けるほどの宿敵が居るかの如く。
撓う身体。笑みなど、一欠けらも存在しない。


「我輩は―――…、何一つ傷なぞ負ってはおらぬのだ」

白い指が肩に食い込み、蒼い礼服にしわを作った。

そこに消えない弾痕でもあるかのように。
その罪の十字架の痛みを、すぺて力へと変換するように。

怨嗟の焔が遡上する強い瞳は哀しく、死んでしまいそうな焦がれる色をしていた。




海も空も雲も砂浜も波濤も雨でさえも、総ては海に還る。
その海が、冥府の入り口へと繋がっているのならば。
いつかはきっと、逝くのだろうか。

眩惑する残照に眩暈を覚える中で。
しがない傍観者。名前は思う。

知恵と策謀で出来たこの男が、行き着く場所。
きっと、それは世界の果てなのだ、と。
その跡を追う自己の帰結もまた、やはり、同じなのだ、と。

理論の破綻した想いが、揺れながら風に拡がり、フェードアウトしていく。



遥か彼方、世界の果てに沈んだ太陽の残照がしつこく世界を追いかける。
遠い空に残る泣き腫らしたような赤々とした残光が、佇む姿をレリーフのように浮き立たせた。
海風にざわつく銀糸の髪も、灰色の瞳も、細いシルエットも全部、朱色に染まっていた。

荒れ狂う蒼に溶け入りそうな、その束の間の朱を、酷く愛しいと思った。






時間設定はDL6号事件後、豪先生が法廷を離れている間です。信さんを悼んで。
タイトルのLes Annees Follesはレ・ザネ・フォルと読みます。意味は"狂騒の時代"


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