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朝、という時間帯が世界で一番嫌いだ。
以前、何かの拍子にそんな事を言った覚えがある。ああ、あれは進級にも関わってくる民事訴訟法の試験日に、よりによって起きられずに再試験を受ける羽目になった時のことだ。彼女がまだ法学部にいた頃。私たちがまだ同じゼミを受けていた知人程度の関係立ったとき。
よほど私が憎々しげな様相をしていたのか、彼女は小さく吹き出して、それからしばらく笑い続けた後、こう言ったのだ。しょうがないから面倒見てあげようか、と。


ライザ・ミネリが、歌っていた。
メロディラインはニューヨーク・ニューヨーク。フランク・シナトラが甘くしゃがれた声で歌っている方が有名だろうか。シナトラ版のバックでビックバンドが紡ぐ華やかさとゴージャスさ対して、ピアノのイントロではじまるライザ・ミネリのものは軽やかで女性らしい繊細さが溢れている。深い夜の底で煌々と耀るようなシナトラよりも、ずっと爽快な朝の始まりに相応しい。

宙に舞うような淡い意識の端で空気中に漂うジャズピアノの音符を聞きつつ、微睡ながら徐々に覚醒を待つ。
この朝を悪くない、と思うのは多分飼い慣らされた結果なのだと、正直思わなくもない。
大切な、上手く眠れる場所。たとえ、これが一時の麻酔みたいなもので決して恒久的なものでないと知っていても。

指に緩慢に力をいれてみる。なんとか動く。腕が持ち上がるのを確認して、順々に体のパーツを確認していく。それから、力を込めて勢いよく上体を起こした。
パジャマにしているインド綿のワンピースからベリー系の柔軟剤の匂いがする。私が持ち込んだ数少ない私服の一つだけれども、彼女の家の匂いだ。
開け放たれた窓から朝露に煌めく空気が流れ込み、レース編みのカーテンが凪ぐ。
シーツとパジャマの肌触り。小鳥の囀り。コーヒーの香り。それから、遠くに感じる暖かな気配。


彼女の家は、都内では世界遺産並みに珍しい古民家調の一軒家だ。
古民家調と言えば、聞こえは良いが私からすれば、単に古臭い家である。軋む床、名前もわからない虫さん、家賃も割高だし、そもそも妙齢の御嬢さんがセキュリティ上疑問がある木造平屋の一軒家に住むだなんて、とんだ酔狂だというのが私の率直な感想なのだが、どうやら当人はこの家を甚く気に入っているらしい。掘り炬燵がある家を探し当てたの!と熱狂的に浮かれる彼女のような外国育ちの日本趣味は、一般的日本人には到底理解ができないのだろう。


ゲストルーム(という名の私の部屋)から猫の額ほどの庭に面した縁側を通り、リビングルームに踏み入れる。それから、私の定位置の掘り炬燵に直行する。

「おはよう」
「…おはよ」

一拍遅れて返答をしているのは、脳が声を出す指令が届いてから声帯が震えるまでに時間がかかっているからだ。
まだ覚醒しきれていない霞む視界に、地味目の薄いラベンダー色をしたエプロンが映り込んだ。揺れるダーコイズの大振りなピアス。シュシュで髪をアップにしている。全体的にアオい印象だ。
人は環境が作ると言うけれど、こういう時にしみじみと思う。彼女はやはり異質なのだ、と。和風の中央に、やはり西洋の世界がある。
それは絶妙なバランスで成り立っていて、その奇妙なシーソーを綺麗だと思う。好奇心が掻き立てられる。私とは異なるからこそ。決して、そこにシンパシーが存在しないからこそ。

少しだけでも何か食べたら?試験なんだから。
ん…、いらない。
そう答えて、手渡されたカフェオレをちびちびと舐めながら、ああ、だから私今ここにいるんだっけ、と試験のことを思い出した。余裕なのではなく、今更どうにもならないという達観である。

これは狡猾な甘えなのだろう。
一時の麻酔だとして、被術者はどちらなのだろうか。そう考えると、ずいぶんと冷めた気分になった。
結局、私は一生誰かを心に住まわせることなどできないのだろう。はたまたは、人生は詰まる所こんなものなのだろうか。


永遠に解けない命題を抱えて、悪くない朝にうずくまる。
ライザ・ミネルの透き通る歌声の中で、寝癖を直してくれる手の暖かさが、沁みて少し痛かった。



2012/06/26 10:12 The gossamer of youth's dreams

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