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通い慣れたエントランスを潜り抜ける。
定時での帰宅にしては遅く、残業にしては早い時間のためか、人の姿は疎らだ。

吸い込んだ息から感じる喉の奥までもが凍てつくような感覚は、室井に懐かしの故郷を偲ばせた。
実際の師走の秋田は、ここ東京とは比較できぬほどの冷たい雪に閉ざされているが、それでも、吐き出す息の白さと見上げた先に広がる灰色の空に郷愁の念が募る。


かつての自分の職場では、こんなに早く帰宅できた記憶はほとんどない。
寝食の時間さえ惜しんで捜査をしていた。
特捜を幾つも掛け持ちして、たまに取れた貴重な非番の日は溜まっている家事と書類整理に追われて、気がつけばやはり仕事をしていた。
そのサイクルを辛いと思ったことはない。
そこにある「正義」を疑った事もなかった。
――…所轄で、あの男に出会うまでは。




人の中に、偶然、見知っている姿を見かけた。
上質なコートを着込み、大きくはない背をピンと伸ばして歩く隙のない後姿。
キャリアの中でも一際有能で、器用すぎるほどの後輩。


「新城」
かけた声に、振り向きざまによこされたのは、想像通りの突き刺すような視線。
声をかけたのが室井だとわかって、新城はわずかに驚いたように目を細めた。


常日頃から自分を毛嫌いしているかの如く、自己の信念が揺らぐ事など存在せぬかのような苛烈な物言いと、射抜くような鋭利な視線で、肺腑をえぐるような毒舌で切り込むような彼に声をかけたのは、やはり、少々ノスタルジックな気分であったからだろう。


「今日は、早いんだな」

新城は室井を一瞥して、鼻で笑った。
「良いご身分ですね。定時で帰れる立場でありながら、自主残業ですか。」
やる事もないでしょう、と続く辛辣な嫌味に、偶然通りがかった捜査一課の顔見知りが、ぎょっとした表情で二人を注視し、そして見てみぬふりをして通り過ぎた。



分りやすく沈む意識を奮い立たせ、背筋を伸ばし胸を張って、自己の信ずる正義を、それが間違いだと誰にも言われぬよう、言わせぬように、気を詰めて過ごした数週間は、背負う気概とは裏腹に色濃く室井の顔に疲労を刻み付けていた。

しかし、それも今日で終わりだ。
そう思うと、下からの要請や批判、上からの一方的な突き上げの板ばさみに苦しめられて、己の「正義」を見失いつつあったあの職場が酷く遠く、懐かしく感じられる。


室井の手には大きめの紙袋が数個。
来週から北海道美幌警察署への降格が決まっている。




同じ職場の同僚だけでなく、二人を多少なりとも知る者は大抵、室井と新城をいがみ合っている天敵のように認識している。
しかし実際、室井は敬遠するどころか、周囲の評判をよそにむしろ逆に新城に好感を抱いていた。


「お前こそ、特捜を掛け持ちしている身じゃなかったのか。」

確か、3つほど特捜を抱えていたと聞いたが?と尋ねたら、うち一つは解決済みで、一つは今日解散して本庁に関係書類を提出しに来たらしい。
最後のひとつもすでに目処はついているそうだ。


新城は、回りくどく腹の探りあいをする必要がない。
他人の情況を逐一把握するだなんて、暇人ですね、という嫌味さえ、今は彼流のコミニュケーションだと思える。
そう彼を捉えられるようになったのは、降格処分という責任を負う事となった湾岸での事件の後からだったように記憶している。
本格的な冬も近い神無月の冷え冷えとした空気が焔に照らされるような熱気と非現実的な一体感は、あの日あの場所で事件を体験した者でしか理解できないだろう。
その中に、確かに新城もいたのだ。



非番は三週間ぶりになるという新城も、室井と変わらぬほど、疲労が一目瞭然であった。
色白である分、よく観察すれば室井よりも酷く見えるが、振舞いは通常通りでまるでそれを感じさせない。
そうさせるのは、キャリアとしてのプライドか、それとも上へ行くために不可欠な治世の術か。
いずれにしろ、「正しいこと」をするのに本来は不必要なものだ。
そんな事をも見失っていた頃の自分を思い出して思わず長嘆する。




行く先は同じ官舎。
声をかけた手前、今更無視をするわけにもいかず、並んで歩き出す。


「正しい事、とは難しいな」

キャリアとしてステップを登る上で犠牲にしたものはいくつもある。
出来るだけ相手に反感を買われぬよう、付け入る隙を見せぬよう、自然と言葉数が少なくなり、相手のあら捜し、言葉の真意や裏を嗅ぎ取る事だけが上手くなっていた。

ぽつりと呟いたのは、誰も彼もが自分以外と蹴落とそうと躍起になっているキャリアの中にあっては口に出す事を憚られるセリフ。
だけれども、間違いなく室井の本音だった。


溢れた声音の理由は、疲労でも哀愁でもない。
単純に相手が新城だからだ。

顔を合わせれば峻烈な皮肉が容赦なく飛来するのが常な後輩は、けれど、どんな時も正々堂々と確たる自己を確立していて、その姿に、室井は一種の羨望とも共振とも呼べる感情を抱いている。


友人、ではない。それは断言できる。
仲間だとか、気が置けない同僚のような生ぬるい関係でもない。
普通の後輩とは確実に違った意識を持つこの相手を示す、自分の中での立ち位置にしっくり来る言葉を、室井は持っていない。




「…新城?」
突然立ち止まった新城につられて、室井も立ち止まり振り返る。


「弱音を吐く暇なんて、あなたにはないでしょう。」
帰ってきたのは思わぬ強い口調の返答。
疲れも弱みも存在しないかのような鋭い眼光に晒される。

「今更、警察官が正義のヒーローだとでも思っているんですか?」
それとも、所轄と付き合ってついに頭がイカレたんですか、と、苛立ちを隠せぬ口調で新城は言う。


「――そうじゃない。だが新城、私は―…」
それでも正しい事をしたくて警察官になったはずなんだ、私は。
そう続きはずの言葉は、不自然に途切れた。


理解されないのか。
そこはキャリアと所轄を隔てる分厚い防弾壁が広がっていて、自分の言葉は向こう側には通じないのか。
自己満足な共感に、冷や水を浴びせられたような感覚が背中を駆け抜ける。



「なら、とっとと点数稼ぎに勤しんでください。
―――…あなたが言う正義とやらのために。」

なりふりかまわずに滑稽な姿を晒しているほうがあなたらしい、と続けて、再び歩き出す新城に、室井は瞠目する。



新城の言葉の真意。
応援されている?
まさか!
けれど、キャリアの中を渡り歩いて身に付いた不要な治世術は、たしかにそう告げている。



どうやら、自分は意外にも人を見る目だけは確かなようだ。
そのことを心ひそかに嬉しく思う。


唐突に、室井は一つの言葉を思い浮かべた。
友人でも仲間でもない、新城と自分の関係性を端的に表す言葉。
もしも口に出したら、新城はきっと露骨に眉をひそめて嫌がるだろうが、それでも、不思議と胸に馴染む言葉であった。




「半年だ。」
新城の射るような視線を、まっすぐに受け止めて、はじき返すつもりで彼を見る。

「半年だ、次の人事異動までに必ず戻ってくる。」
言葉に譲れぬ決意を託して、言い切ると、幾分か、疲れも抜けた気がした。


新城は、室井の覚悟をふん、と鼻で笑って、
「せいぜい努力することですね。」
と、いつもの調子でそう言った。

浮かべた笑みは相変わらずニヒルで嘲笑交じりではあったが、寄越された目線が多少柔らかくなったのはきっと気のせいではない。



警察がいつ如何なる時でも正義のヒーローたりえないのは、とうの昔に思い知らされた。
けれど、正しい事をするために、私は警察官になったのだ。
おまえもきっとそうだろう、新城。

皮肉でわかりづらい後輩のための翻訳機として、
不要なキャリアの特技は意外にも役に立つものだ。
そう思うと、少しだけ可笑しい。


同じ頂きを目指す者。
例え辿る経路が違っても、最終的に欲するものは等しい。
心の中で新城に与えた称号に、少し恥ずかしくなる。
”同志”だと。



どうやら、明日から北海道へ行っても自分には休息はなさそうだと推測しながら、
けれどまたこの場に戻るためであるなら、それも悪くはないなと室井は思う。


振り返れば、「公共の秩序を守るための正義」を冠した組織を体現するかのような、威圧感を放つ建造物が冬の空に下、威風堂々と建っていた。


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