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アスファルトの舗装道路に吸い付くような低くくぐもったそのエンジン音は、いつの間にか遠くからでも一発で聞き分けられるようになっていた。
そんな、誇れもしない特技に気が付いたのは、もう随分と昔のような気がする。


師走も終わり。クリスマスと正月を迎えるため、世間一般は浮かれ騒ぐ季節。
骨の髄まで底冷えする季節にもかかわらず、そんな浮かれ気分の伝染を食らい、外をふら付いた挙句に問題を起こす輩は少なくない。
それゆえに、必然的に警察は忙しくなる。

約束、を取り付けたのは良いものの、時間通りに来られるとはまさか思っていなかった大河内の予測を良い意味で裏切り、磨かれた黒色のGT-Rは颯爽と現れた。



夜の帳が下り始める頃であった。
珍しく、仕事が予定よりも大分早く片付き、ぽっかりと時間が空いた。
警視庁の中でも高階にある監察官室から、ぼんやりと黄昏の空を眺める。
残照が、緩やかに薄い菫色をした闇に沈んでいく。
光が、じわりじわりと征服されていくその様子は、さながら"死"を連想させた。
中でも、相手の首の付け根に徐々に力を入れていく絞殺だろう、と。酷く不謹慎にして非理性的な思考に気が付いて、あわてて考えを止めた。

落ちてきた前髪を整える。
疲れて、いるようだ。
自己の事をまるで他人事のように認識して、大河内は小さく溜息をついた。




「珍しいですね、大河内監察官からこんな時間にお誘いを頂けるなんて」

乗り込んでしまえば、真綿のような溜息は白く色付くこともなく、人工的に暖められた空気に融解する。
車体が低いためか、エンジンから伝わる重い振動が、臓腑を抉った。

「――思ったよりも、早く仕事が終わったんだ」

少しばかり投げやりに。ぶっきらぼうに。
意図してそう返答して、助手席から窓の外を見続けているのにもかかわらず。
ハンドルを握る神戸が、笑みを浮かべているのが手に取るようにわかった。
呆気ないくらいに余裕でその映像が脳内再生されて、大河内は反射的に眉間に皺を寄せた。


「来られるとは思っていなかった」

ぽつり、と声にしたそれは、多分、幾分の弱音も含まれていたのだろう。
今から時間が取れるかと、都合を問う短いメッセージを送信するかどうかを散々迷い悩んだ挙句に半ば自棄な気持ちで送信ボタンを押して。
年末故、どこかの手伝いに借り出されているか、それとも杉下右京とともにまたどこかの事件に首を突っ込んでいるのか。予想していたそれらは、けれど、存在せず、送信から二分も経たずに帰ってきた返信の速さに驚いた。

ちらりと、神戸がこちらを伺う気配。

「大河内さんのお呼びなら、いつでも飛んでいきますよ。特命は暇ですから、ね」
「…なら、今度は監察官室に正式に招待してやる」
「え?あ、それは遠慮しておきます」

いつも通りの軽口にふっと笑って、大河内は肩の力を抜いて、軽く眼を閉じた。



神戸との付き合いは、古い。もう数十年来の知り合いだ。
ハンサムと言っても世間の大部分には異議は申し立てられないだろう容貌。華やかな弾ける笑みと、いつまで経っても若者らしい雰囲気。静かに深思するその奥底に、隠れた迸るが如き直情。
確かにそれらを、密かに好ましくは評価している。友人だと、思うくらいには。

けれど、関係性としてはやはりここ数年の間での印象が深い。
それは友人であると、一概に声に出せないような大きすぎる組織構造の中で、個々の存在が相殺されそうになっていたり、あるいは正反対の勢力の中で、真正面から向かい合う立場にあったりする。

一人の人間である前に、根っからの警察官なのだと、時々痛感する。
相反する「正義」の指標の前にあって、それだけはいつ何時も絶対的な真実の光を放っているのだ、と。
自分も、神戸も、彼が慕い比肩せんとする杉下右京も、また、己の正義を揺るぎなく追い求めて寒月に散ったあの人も、それだけは、決して偽りのない根底なのだ、と。



「大河内、さん…?」

隣で、神戸の声が聞こえる。
眼を閉じた大河内を、疲れて眠っていると判断したのか、おずおずと語尾が薄れ、それと同時に、力強く響いていたGT-Rの振動が多少緩やかになった。
細やかな心遣いが自然に出来る良い男だと、内心で褒めたのを自分で少し照れくさく思いながら、大河内はその好意に甘える事にした。


常しえに廃れない、不朽の行動規範がある。その上で、物事を考える。
壁が目の前に立ちはだかった時、それを突き破ってでも進むのが、杉下右京だとすれば。
あの人はきっと、その壁を自分で手を触れることなく上手く撤去させる部類の人間なのであろう。
決してトップには立とうとせず、担ぐ神輿は軽い方が良いと宣う豪胆さ。
野心と自己愛に見せかけた、大義を信奉する「絶対正義」。
その徹底した言動は、多くの軋轢を生み出し、結局、その一つの砂溜によって、命を落とした。

けれども、
だけれども、脳裏に浮かぶ姿。
茫然と虚空を眺める目線は、どちらかというと漫然としている印象であった。
長身に、程よく肉付いた痩躯。
思い出される姿形は、好々爺に近いのに、醸し出されるオーラは鋭く、冷たい。
鋭利な刃物は、肉を斬っても暫くは斬った事に気が付かないという。それに、近い。
下手に触れると、流血だけでは済まされない。
小野田、公顕。
かつて、自分がその想いに共鳴し、そしてその手腕に慄いた人物。
その男が警察葬に付されてから、もうすぐ、一年になる。






きゅっ、と小さく高い摩擦音がして、車が止まった。
重たい瞼をゆっくりとあげて見渡せば、赤信号で停車中の車から見える景色は警視庁のある霞ヶ関からはすでに大分遠ざかっていた。
どうやら本当に少し寝てしまっていたらしい。

「あ、すみません。起こしちゃいました?」
声のトーンを幾分か抑えた神戸が問う。

「すまない。少し、眠っていたようだ」
「いえ、いいですよ。もう少し掛かりますから、もうちょっと寝てたらどうですか?」
「…そうだな」


水中にいるようにぼんやりとした脳内で、想う。

人は、いつかは死ぬ。
貧富も善悪も出来不出来も関係なく、唯一、神が人に与えた平等である。
生まれた時から死に向かう運命を背負い、一般市民よりも遥かに多くの死に触れる警察官であっても、けれど、変わらない想いを抱く。
堅苦しく言えば、自己実現の追求。
平坦に言えば、より自分らしく生きたいと望むのだ。

自分らしく。自己実現のために。
そのために、絶対にいつかは選び取らなければいけない道が、あるとしたなら。
自分の前に通ずる道は多分、恐ろしく険しく、孤独なものに違いない。
一人の人間である前に、根っからの警察官なのだ。
己の「絶対正義」が揺らぐ事は、決してあってはならないのだから。
――命ある限り、決して。




「神戸、」

淡い光を灯す街灯の白い光が、透明な冬の夜空を埋めている。
今宵は、星も月も見えない。
確かな冬の匂いが、きつくロックしたドアの向こうから滲み始めている。

「おまえは、どう足掻いても杉下右京にはなれない」

はい、と、片手を顔の高さまで挙げて、神戸が異議を申し立てた。
「…お言葉ですが、それ、前も聞きました」

「…なら、おまえなら、どうする?」
「そうですね」

信号が、青に変わる。
アクセルペダルの合図に合わせて、GT-Rが静かに、けれど確実に、加速していく。
神戸がちらりとこちらを見て、視線がかちあった。

「――なれないなら、超えちゃえば良いんじゃないですか?」

悪戯っぽく。
ウインクでもしそうな勢いで。
軽く、けれど確かな力強さを持って、彼は言った。



溜息とともに、大河内は神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
視界の隅に、機嫌がよさそうな友人の姿が映る。
コイツも街に走る年の瀬の浮かれ気分に伝染されたクチか、と苦く笑った。
けれど、まるきり悪い気分ではない。
――超える、か―…。
いずれにしろ、簡単に成し得ることではない。




「今夜は、とことん付き合え」
と、大河内は言った。
「勿論。あ、大河内さん、奢ってくださいよ、」
と、神戸は答えた。



夜空を見上げた。
今宵は星も月も見えない。空には、光が何もない漆黒。
けれど、地上には優しく淡い光が満ち溢れている。

驚くほど酷く穏やかに、夜は始まっていた。

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