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―――ああ、あなたの表情が、もうはっきりとは思い出せない…









あるもの全てが、期待と熱狂に満ちていた。


雪が煙る一月末。
喧騒と光の洪水に包まれていた、その夜。
SS,SA,青年党員,それに多くの一般市民が加わった炬火行進の列は、壮大で絢爛で、文字通り燦々と輝くばかりであった。
首相官邸へと向かい、ブランデンブルグ門をくぐりぬけていく。
歌い、騒ぎ、誰も彼もが浮き立つような期待と隠し果せぬ熱狂に顔を染めている。




「神とともにすすまれんことを!」




心臓が早鐘を打っている。
ここから、始まるのだ。すべてはここからなのだ。

そうだ!
ここから、まさにこの瞬間から、新しく生まれ変わるのだ、この国は!

再び我がドイツを帝国に!
我がドイツに世界の覇権を!
たなびく鉤十字の旗とともに!


「神とともにすすまれんことを!」


あの時、神々しい行進の先頭の馬上で、鋼鉄色の髪をした勇ましくも美しいあの人は、
確かに俺にそう、言ったのだ。








シャルロッテンブルク通りを東に向って歩く。
ブランデンブルク門は、晩春の暁光によって醸成された光と影のコントラストの中に沈んでなお、澄み切ったベルリンの空に鮮明な輪郭をきりこんでいた。
門上では、勝利の女神ヴィクトリア像がベルリンを守護するように見渡している。


「軍国プロイセン」の創造主、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世。
フランスのブルボン、オーストリアのハプスブルク、ロシアのロマノフの三王家の連合軍を相手に7年戦争を戦い抜き、市民から親しみを込めて老フリッツと呼ばれ、プロイセンに繁栄と泰平の30年を齎した賢王。
その彼の命で建てられたこの門上に棲む彼女、ヴィクトリアは、ナポレオン軍の侵攻をはじめ、この国の安寧期も動乱期も、静かに見届けてきた歴史の証言者である。
四頭の馬に曳かせた古代ギリシア式の戦車に乗り、「カシの木の葉で囲んだ鉄十字」を模した杖を頭上高く掲げ、高らかにドイツに戦勝と凱旋を謳いあげるその姿は、ベルリン市民の誇りであった。




――今や、その姿を見ることは叶わない。


彼女の杖は、平和の象徴であるオリーブの枝に変えられていた。
かつて、ベルリンの中央に位置し、壮麗な建築群に囲まれ、ベルリンの中心地として栄えたこの場所は、何一つ建物のない無人地帯となっている。


否。

”何一つ建物のない無人地帯”という表現は適切ではないかもしれない。
ここに、ひとつだけ、建物と呼ぶに相応しいかはともかく、たったひとつだけある人工建築物。

 

はじめは鉄条網であった。
2日後には石造りの壁となり、
今は所々冷たいコンクリートになっている。

眼下に見える巨大で無機質な”壁”


その壁の向こうに、
どれだけ手を伸ばしても、決して触れられない、その壁の向こう側に、
その人はいる。

 




東ドイツ領に囲まれている、ベルリンの西側部分。
直接戦火を交えない冷戦においての、ホットゾーン。
「赤い海に浮かぶ、自由の孤島」
そう称されるここは、けれど、今のところ酷く穏やかで平和そのものだ。


かつて、栄光と繁栄の象徴であったはずのブランデンブルク門は、今ではまったく別のものの象徴として呼ばれている。


「東西冷戦の象徴」
分断国家ドイツの「悲劇の象徴」だと。



鉄条網と無機質の冷たいコンクリート。
バリケードの向こう。

その向こうに、確かに彼はいる。

血を分けた、我が半身。
切り離された、兄弟。

在りし日と同じく、
鋼鉄色の髪と眼差しの鋭い真紅の瞳に彩られ、口元には誇らしげな笑みを浮かべ、堂々とした軍服姿で駿馬にまたがり、馬上で高らかにドイツの覇権を約束したあの日と同じく、俺のすぐそばにいるはずだ。

『お前を世界の王にしてやる』
傅いてそう言った彼の声が、ああ、意識せずともなんと克明に思い出されることか!





「東西冷戦の象徴」
分断国家ドイツの「悲劇の象徴」
 
悲劇的な響きがこもっているその表現は、けれど!
ここにおいては、極めて羨望と嫉視を込められた表現となる。

 
「赤い海に浮かぶ、自由の孤島」とはよく言ったものだ!
なんという大言壮語の戯言!
なんという無味乾燥な妄言!

幾許かの物質的裕福さと経済的な自由のために、網かごの中のハツカネズミが輪車をクルクル回し続けるように、がむしゃらに働いたその代償に、失ったもの。手を離さなければいけなかったもの。

もう永遠に戻っては来ないあの日。

なんという皮肉だ!
自由の国を冠するために、失った自由!
この自由の民主主義国家において、唯一、たった一つ認められないもの。
決して触れられず口に出してはいけない、言葉!


 ああ!
 その不可触の壁の向こうを、
 彼のいる地を、
 彼を、
 認める自由だけは、決してどこにもありはしないのだ!!

 あの人は、確かにそこに存在しているはずなのに!!




けれども、
だけれども、
ああ、
それは俺なのだ。

その選択をしたのは、
その紙束に署名をしたのは、

間違いなく俺自身なのだ。



認めるな、と。
決して認めてはならない、と。
彼は悪で、お前こそが真の正義となるのだ、と。
自己をヒーローだと信じてやまないあの男は、諭した。

拒絶など、出来るはずもないだろう?
君は、負けたのだから!
これは敗者の宿命なのだから!
すべては世界の平和と正義のためなのだから!

若者らしく快活だけれども、堂々とした威厳と威圧感を持ったあの男が、自由だけれども残酷な世界と、今や世界の半分を掌握する絶対の力を持った支配者が、俺とあの人の世界を無残にうち壊したその当人が、 言ったのだ。

底抜けに明るい酷く軽快な声で、すべては、世界の平和と正義のためなんだ、と。
そのために、新たな憲法を、再び銃を持て、と。
眼鏡の薄いガラス越しに瞳に蒼い焔を燈して、そう告げたのだ。


太陽のような金色の髪をおざなりにかきあげながら、真夏の空のような真っ青な瞳で、にこやかに、けれど、冷酷に告げる男の姿は、なるほど、白銀の髪を揺らし黎明の色の瞳をしたもう一人の世界の盟主、あの人のいる世界の盟主の姿に、とてもよく似ていた。

渡された銃の銃口は、俺の半身、あの人を向いていた。



「東西冷戦の象徴」
分断国家ドイツの「悲劇の象徴」


赤に塗られた地図上の向こう側との統合の可能性を潰したのは、確かにこの手だ。
たった一遍の紙束への署名で。


どれだけ腕を伸ばしても、
どれだけ声を嗄らして叫んでも、
その壁は依然として超然的にそこに存在しているのだ。

――二度とあの人には会えないのだ、二度と。





あれほど、鮮明に瞼に焼きついたあの人の姿は、
「俺の全ては、おまえのために存在する。」と、
そう、不敵な笑みを浮かべて、俺の全てを赦してくれたあなたの姿は、

「世界の唯一無二の正義のためなんだ。」と、
満面の笑みで嘯く、若く剛健な世界の支配者の姿にかき消されるように、
雲散霧消となって立ち消えた。




――…ああ、
けれど、
それでも、俺はあなたを忘れられないんだ 
兄さん――…






オリーブの杖を掲げた勝利の女神ヴィクトリアは、朝日の光を浴びて、きらきらと輝いていた。

今日も、世界は残酷なまで穏やかで、平和だ。
 





冒頭の炬火行進はヒトラーの首相就任時の炬火行進の事(不謹慎で本当にすみません)
SS→ナチス親衛隊 SA→ナチス突撃隊
ブランデンブルグ門は文中通り、ベルリンの壁のすぐ傍にある東西ドイツの境目。門上の勝利の女神像は、元々は「カシの木の葉で囲んだ鉄十字」の杖を持っていたのですが、分断後、社会主義国側(ソ連側)が鉄十字はプロイセン軍国主義っぽいからっていう理由でオリーブに変えちゃいました。再統一後は、元の鉄十字に戻ってます。
余談ですが、この女神像はナポレオン侵攻の時にフランスに持ち去られたりしてます。

「紙束」はドイツ基本法です。これにより、西ドイツは「西ドイツだけが正当なドイツで東ドイツの存在を認めない」という姿勢を確立しました。5ヵ月後には東ドイツが「ひとつなのを向こうが勝手に分断したから、統一のためにしかたなく国を作るよ」っていう宣言を出します。結果、ドイツ分断決定。もちろん双方ともに裏で米露が糸をひいてます。
だから、西ドイツでは東ドイツなんて国は存在しないんだ!っていう対外姿勢なのに、東ドイツと対抗するためにヒーローによって武器とか持たせられるっていうおかしいことになってました。


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