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今なら、理解できる。
彼女はただ、とてもとても純粋だっただけなのだ、と。



見上げた高く青い空に入道雲が浮かんでいる。白い祝福を与えているかのように、柔らかく優しい。
黄緑色のマロニエの並木が風にさらさらと笑う。

ノートルダム大聖堂は、パリの心臓とも言える。
永く王朝時代から宗教的中心であり続け、皇帝ナポレオンの戴冠式など数々の歴史の舞台となった聖地。
壮麗なステンドグラスに彩られたバラ窓が、透き通る陽光の下で燦く。

目が眩みそうな日差しの中を、青年は一人緩慢に歩を進めていた。



大聖堂が位置する、セーヌ河の真ん中に浮かぶシテ島。
紀元前一世紀から人が棲んでいた事が、かのカエサルの「ガリア戦記」にて言及されている。
謂わば、パリの発祥の地だ。
孤独気な地形のせいか、パリ市中の熱気に溢れた喧騒からは紗幕を通したような静けさに満ちていた。

さらりと着込んだシャツは、矢車菊を映した瞳と同じ深くくすんだ蒼色。
緩く纏めた髪は、秋に実る黄金の麦畑。
ベルエポックの優美を色濃く切り込んだ眼差しで、観光客らしき小さな団体とすれ違いながら青年は、沈黙を切り崩すように、小さく小さく息を吐いた。



七月十四日。
フランス革命の発端、1789年同日に発生したバスティーユ牢獄襲撃を記念する国民の休日。
フランスの骨子を確立した、建国記念日。



シャンゼリゼでは今頃は大統領も参加する軍事パレードの最中だろう。
普段は環境問題により二酸化炭素排出を厳しく制限しているフランスでも、今日ばかりは一日中各地で花火が打ち上げられる。
その主役たる立場でありながら、セレモニーを身勝手に抜け出す自己の行為に自嘲の笑みを浮かべて、しかし仕方ないと自己弁護する。
国民や友人らが祝ってくれる事を嬉しく思う反面、少しばかり複雑な、言ってしまえばどこか醒めた気持ちを申し訳なく思って、青年は軽くウェーブの懸かった秋穂色の髪をかきあげた。
その程度では、変わるはずもない心境に苦く笑う。




緑の中を抜けて、尖塔が姿を現した。
高い塔の上に、大時計が見える。

目的地。
かつてそこで最期を過ごした、美しき貴人の名前を冠する薔薇の花束を担ぎ直して、しかし確かな足取りで、荘厳なゲートを潜った。



それは、当初は華やかな王の館であった。
現在では一般公開され、観光名所となっているが、未開放部分は最高裁判所とパリ警視庁の一部として使用されている。

コンシェルジュリー。

フランス革命時は革命裁判所として使われ、数千人を断頭台へと送った死の館。
ゴシック調の優美さを持ちながら、酷く数奇な運命を辿った建築は、彼女の運命と酷似している。
囚人番号280番。
正統なるブルボン朝の最後の王妃は、この灰色の牢獄で最期を過ごし、そして、歴史に消えた。




淡い繭色の薔薇は、スパイシーで鮮烈な香気を放っていた。
一房に何輪もの花をつけるゴージャスな品種で、惜しげもなく咲いて潔く散っていく。
マリー・アントワネット。
彼女の名を冠した花束を、灰色の部屋の隅に飾る。
粗末な牢獄に満ちる一片の華やかさ。彼女が居たら、喜んでくれただろうかと考えるのは、偽善的な自己満足に他ならない。


何一つ持たず、身体一つで母国を出奔し、自己のルーツと決別する覚悟を強いられた美しい人。嘘偽りを知らない子供の瞳で愛を説く彼女は、孤独を紛らわすのに忙しく、国政を語るにはあまりにも若すぎた。

断頭台の上で胸を張って毅然とした立ち姿は、陽炎に揺れる初夏の中に、今も明確に見出せる。
ふわりと花が綻ぶように、口汚く罵る民衆の前で、最期まで幸福そうに笑った。
彼女は、王妃となるために生まれ、そして散るまでフランス王妃であった。

国民を苦しめた彼女の行為を肯定する事は、決して出来はしない。
けれど、
彼女も間違いなく、この国の礎の一部なのだ。



どこかで、花火の弾ける低音が聞こえる。
臓腑から震えるような確かな重圧感に、比較的近場から打ち上げられているのだと推測できる。
民衆の歓喜の声が、ここまで届いてくるような気がする。

彼女も、歓喜の声を聞いただろうか。
異国から遣ってきて、この国を恨んだだろうか。
それでも、王妃として子を為して、この国を愛しただろうか。
あの時、あの冷たいギロチンで、彼女はいったい何を思ったのだろうか。
そう、たくさんの疑問符を飲み込んだ。
今となっては、それは永遠に知る由もないことだ。




「―――また、来るよ」
そう、誰に聞かせるでもなく、小さくしばしの別れを口ずさむ。

結局の所、自分に出来る事は、若きあの日に望んだ永遠の夢を追いかけ続ける事だけなのだ。
熱狂の歓喜の中で、静かに決意が揺れた。

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